反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

前回の<続き>。丸山真男「昭和天皇を巡るきれぎれの回想」-1989年、病床の昭和天皇と全国的自粛の中で、得意のジャーナリステックな視点から、天皇と自分史のエポックを語る。

           矢継ぎ早のGHQ民主化直後の丸山の予想外だったこと
「全く予想の外にある出来事もあった。東久邇内閣の総辞職の原因となった、治安維持法以下の思想取締法及び特高警察の廃止と、獄中18年を含む政治犯の即時釈放がある。
どうして治安維持法の廃止や思想犯の釈放まで思い及ばなかったのか、不審に思うかもしれない。
が、全く予想外にあったと告白しなければならない。
なぜかということも自分にも解らない。
 無産政党の自由な活動ということまでT参謀に語りながら、徳田球一や志賀義男を司令部が釈放することにーそこまでマッカーサー元帥の指令が及ぶことに思い至らなかったのは無住ではないか、と詰問されれれば、残念ながらその通りと答えるほかないのである。」
 
 W。父親は新聞社幹部、都会うまれ、東大卒、即大学助手、助教授の丸山は検挙されたが、運動とは全く別世界の住人だった。コレも大事なことだが、身分的に天皇に近い人でもある。
戦後表した民主主義論も本質的に生の肉体から遊離した巧妙な観念論。
知識としては面白いが、あの程度のもので満足できるのは立場の問題。
ああいうものが全く役に立たない境遇の人は余りにも多過ぎる。丸山が次第に読まれなくなった原因もそこある。70年代以降全く影が薄くなった。
 
W。「超国家主義者の論理と心理」など一般的に読まれたものは、ジャーナリステックな観点で書かれたすでに敗戦とGHQによって断罪された過去の典型的遺物への批判。
今の時代になって、再び、丸山の指摘を吟味する意義が出てきている
丸山理論の殆どは典型的なインテリ特有の終わったことへの解釈で現時点の分析と将来への予想は少ない。
どうしてか解らない、のではなく、政治の生の現状把握ができないたち。本質的に余り関心がむかわない。
  
  
     戦前のそれなりに威厳ある天皇と猫背で「あ、そう」を繰り返すニュース映画の天皇
「帝大に天皇行幸があった。高等官は拝謁賜るということで父の礼服を借りて出かけた。
指定された安田講堂に入っていくと、高等官でビッシリ埋まっていた。
やがて時が来ると昭和天皇は海軍大元帥の軍服姿でゆっくりと壇の左手のほうからから登場し、中央で一同のほうを向くと、高等官たちの敬礼に対し顔をまわしながら挙手の礼を持って答え、右手にまたゆっくりと去っていった
「拝謁」とはただそれだけのことだった
 
それでもある同僚は講堂を出るなり「ご立派ですね」と感慨をもらした。
 
 この同僚ほど感激はなかったが、従容として迫らざる威厳を感じたのは事実だった
 
戦後の天皇の全国巡遊で、民衆に対して中折れ帽をとってバカの一つ覚えのように「あ、そう」を繰り返す猫背の天皇をニュースで見たとき、コレがあの安田講堂でじかに見た堂々とした天皇と同一人物であるとは、私には用意に信じがたかった。」
一体、天皇はあのピンと背筋を伸ばした姿勢かた、何時のあれほどほど猫背になってしまったのか、というのが今日までの解けぬ疑問の一つである」
W。丸山の皮肉?
 戦前の昭和天皇は大衆の思い込みに沿った完璧な自己演出とすれば、戦後の人間天皇への崩し方は実に難しい。
 方途が見つからず、戸惑ったまま大衆の前に出たところ、現場の雰囲気に意外とマッチしたので、そのまま押し通した。そんなところか。
どちらは実像か?戦後?。全国巡行のスケジュールか厳しい。無理な演技は続かない。
 
     
      天皇機関説問題への天皇自身の生?声  原田日記、本庄日記による。
 「機関説では良いではないか。厳守という言葉も機関説を前提にしている」とか「美濃部を不忠の臣であるかのように言うのはおかしい」
 
 「わたしからいわせれば、もしそうならどうして天皇の自分自身の国法学的位置づけにほかならぬこの問題について、私的感想からもう一歩踏み込んでそうした見解を公にしなかったのか納得できない。W?本気でそう想っているのか?
それから僅か1年後の2,26事件では「朕、自ら討伐する」とまで自分の判断をアカラサマニした天皇が、天皇の法的地位について公言できない理由は無い。W?無理!
それは特定学説の積極的肯定の問題ではなくて、ただ機関説を反国体的とみなすことに対する消極的発言で十分なのである。
 クレオパトラの鼻になるが、←(W。やはり、丸山らしい周到な限定条件である。)
もしこのとき天皇の側近へのこうした発言が公の形でなされたならば、その後の時代の動向は実際とはかなり違った方向を辿ったに違いが無い、と私は想う。(W。クレオパトラの鼻があと1センチ高かったら、限定なのだから、ここはジャーナリステックな意味しかない。こういう話ももって行き方が丸山が流行った原因でもある。)
 
  次の段落こそが彼の歴史観の吐露。
天皇機関説の問題に触発された国体明徴運動はそれほど大きな時代の画期だった
  
  【国体明徴問題】ーコトバンクーより。
…1923年(W。関東大震災を受けてのものだと想う)の〈国民精神作興詔書〉をうけて開始された全国的教化運動は,すでに最初から,〈国体観念を明徴にする〉というスローガンを掲げていた
 
満州事変以後の戦時体制化の過程で,合体しながら攻撃的性格を強め
 
35年には,憲法解釈としての天皇機関説排撃を突破口として,
個人主義自由主義をも反国体的なものとして否定しようとする国体明徴運動をひき起こすこととなった。
 
 まず35年2月の第67議会で貴族院菊池武夫美濃部達吉(当時東京帝大教授,貴族院議員)の学説をとりあげ,統治権の主体を国家とし,天皇をその国家の最高機関とする天皇機関説は,
天皇の絶対性を否定し,天皇統治権を制限しようとする反国体的なものだ,として攻撃を開始,
これに呼応して院外でも軍部の支持のもとに在郷軍人右翼団体などの運動が全国的に展開されることとなった。…
 
>W。既に記事、参考資料で何度の指摘しているように、日中戦争にのめり込んだ1936年前後が日本の敗戦への道の画期点だった。前線に物資を集中するために庶民生活は一気に冷え込んだ。(野坂昭如自叙伝など参考)
W。中国政権と大事を構えることは日本歴史が証明するする鬼門。
白村江の戦。
元寇も広い意味では鎌倉幕府を衰退させた。褒賞が与えられない。
吉朝鮮征伐は明の討伐の回廊として朝鮮半島に渡海して北上しようとした。豊臣政権崩壊の原因。
今の現状も、アメリカにとってはどうか知らないが、日本にとっては物質的益は少ない。近隣の巨大中国市場で劣勢になれば将来、経済的に厳しい。
 
 どうしてゴタゴタの予想される2020年にオリンピック開催などに立候補したのか。
ユーラシア大陸の東の端に外国人客は期待できない。日本国民は東京に集まり金を落とすだけ。
であれば、カネのA点からB点までの移動だけ。公共投資?余り関係ない。
むしろ、負担になる。日本衰退を狙った何かの謀略?
         
           丸山本文に戻る。
 「大日本帝国憲法ー昭和前半期の官憲の反動化は明治憲法にも拘らず、憲法は保障した法手続きの無視蹂躙を通じて進行した、というメダルの反面の事実。」
 
W。美濃部達吉天皇機関説は国体思想の後の国体明徴運動の国法学との対決で、
明治憲法自由権を含む立憲主義的諸規定を過度に読み込んだもの。
丸山も指摘する「立憲主義として極めて不徹底であったばかりでなく」
「広範な天皇体験、とりわけ天皇の統帥大権が軍部の露骨な政治関与と政策決定権への足がかりとなったのも否定できない事実である」
W。端緒は所謂、ワシントン軍縮条約締結した政府に対するに、天皇統帥権干犯問題という海軍の言いがかり。
結局は5、15事件の政府要人テロ行為につながり、やがて2,26事件への架け橋となる。
 
 しかし丸山は「新しい憲法に反対し明治憲法を正しく運用すれば足りる」とした美濃部を
明治憲法に内包された立憲的、民主主義的側面をあらゆる著書に、あらゆる機会に強調してきた博士としては当然の反応でもあり、明治人の気骨と知的誠実性との見事な結合を物語っている」とする。
 
 W。明治憲法は読んだこともないが、kim hangの「帝国に閾」によって、美濃部に対しては【明治憲法自由権を含む立憲主義的諸規定を過度に読み込んだもの】との感想を抱く。
>結局、明治憲法が国家権力や為政者に対して、どこまで規制する機能を有していたかが最大の問題点であって、上記のようにいう丸山に肝心のその感覚が見出せない
 
 それから美濃部達吉はリベラル解釈した国体主義者であって、天皇の人間、国民の象徴宣言には馴染まなず、『5か条のご誓文を』持ち出しつつ、日本国憲法に同化した大正リベラリストのような実務、実利思考がなく、突っぱねただけある。
また、新憲法に対する違和感もあった。憲法成立過程を含めてキチンと検証する必要がある。
様々な憲法草案があった。西ドイツとの対比も必要。
 
 統帥権干犯問題などへ軍部増徴への基本見解も運用が悪かったで済まされる問題でなく、暴力装置への歯止めがないという国家基本法としての決定的な問題点があった。
 
   
            
               >>ここからは逆流方法は無理。
 戦前日本国民の人格拘束まで立ち至った帝国憲法治安維持法教育勅語の背景にある時代状況の推移に沿って、見ていく必要が出てきた。
しかし、こうして逆流方法をとって、前に戻って、読み返してみると、改めて丸山真男は良い意味でも悪い意味でもジャーナリステックなヒトとおもう。
  
  関東大震災の惨禍からまだ日も浅い大正12年(1923年)、虎の門事件、難波大助、摂政宮裕仁狙撃
「おそらくコレは小学校4年生の私に、皇室とは日本人にとってそもそも何を意味するのか、何ゆえテロの対象にされたのか、という当時は答えのでるはずのない疑問を深く胸に突き刺した始めての出来事であった。
 私の父は当時読売新聞の経済部長をしていた。
翌年の11月に大審院の結果、難波大助に大逆罪による死刑判決を下した時、被告が共産党万歳、-あるいは共産主義万歳だったかも知れぬーと法廷で叫んで両手を高く挙げて叫んだという極秘情報を、父が過程で火鉢に手を当てながら語った折のこわばった表情は、今でもありありと脳裏に浮かんでくる。
 既に震災直後に甘粕大尉による大杉栄の虐殺事件があった
~むしろそうした主義の実質的内容は理解の外であったが、危険思想なるものが存在すること、また奏した危険思想がどうやら日本の皇室とアンチテーゼをなすものらしいということは、漠然とイメージされた。
 
 判決の時の父の一連の話の中で最も印象に残ったのは次の点であった
難波家は聴衆の名門で、父の衆議院議員は厳しい皇室中心主義の境域で大助を育てた。
大助の行動はむろん直接的には、大震災後の社会主義者無政府主義者に対する虐殺事件を含む官憲の苛烈な弾圧や右翼の暴力行為に対する域どうりに発していたが、
遠い原因は父の度の過ぎた尊王教育にあり、それが帰って逆の効果を生んだ、というのは父の解釈だった。
 
 事件勃発後の衝撃の激しさは子供心にさえ目を見張らされるものがあった。
山本内閣の総辞職、警視総監、警務部長の懲戒免職正力松太郎警務部長
 「ウィキ引用。東京帝国法科大学卒で内務省に入り、警視庁警務部長になったが、後に本人が語ったように関東大震災風説の流布によって混乱させた責任の一端があり、虎の門事件を抑止できなかったことで引責辞職。W。新聞界に転身。」
山口県知事減給処分、というような一連の処置だけでなく、父作之助は蟄居生活に入り、大助が卒業した小学校の校長と訓導は、不逞大逆のやからをかつて教育した責任をとって共に職を辞したのである
 私は以前にこの事件を例証として天皇制に対する無限責任無責任の体系はそのメダルの裏側であるーを論じた。」
 
 
           小学校時代の皇室関係の祝祭日について
紀元節、2天長節、3地久節、4神武天皇際、5春秋皇霊祭、6明治節、7神嘗祭、8新嘗祭
 学校の講堂では一同整列の後、君が代斉唱、終わって正面の扉が開らかれるとく御真影が姿を表す。
最敬礼に続いて共闘が紫の袱紗に包んだ教育勅語を恭しく校長の前に奉じし、校長がコレを掲げておもむろに「朕~」と謹読する
その後、奉祝歌が斉唱される。
天長節の奉祝歌のでだしは『今日のよき日は大君の生まれたないし良き日なり」である。
こうして無事に式を終え、紅白の菓子包みをもらって校門を出るーというには大方の順序であった。」
Wコレは一種の国家宗教の儀式。
 
 
  1929年張作霖爆殺事件(W丸山は爆死事件)による昭和天皇田中義一首相詰問、内閣総辞職
「父が新聞記者であったので一般に知られないこの事件の成り行きを知った。
天皇の追及に対して、田中首相が責任者の厳重処分を持って奉答(W.こんな珍しい用語がPCに載っているとは)したにも拘らず、大佐の停職という微弱事件処理をしたため天皇君はその場で
「お前が申したことと違いではないか」と怒りを露にして難詰した。
田中は直ちに辞職を奉呈したのである。
田中義一内閣は国内外の反動的政策のために、それ以前から国内のリベラル派による激しい攻撃に晒されていたのに一向にひるまなかった。
それが天皇ののその一言で内閣総辞職ににおいこまれたのである。
父は夕涼みをしながら天子さんは偉いと付け加えた。
父は斉藤稔や牧野宣明などの所謂、重臣リベラルに近く、民政党びいきとして田中内閣打倒のキャンペーンに加わっていただけに父の言葉には実感が篭っていた。」
W辞職しようがしまいが関東軍暴走の大勢には影響なし。
 
 
     一高入学、1931年満州事変。15年戦争(日中、太平洋戦争の15年)開始
W。日本産業の重化学化は高橋是清の金融財政政策によって、これから以降定着した。
経済指標は日中戦争の拡大する1936年まで延び続ける。ここがキーポイント。
 
>文献だけに頼る現代史の研究者からは満州事変ははたしてそれほど大きな時代的転機だったのか、どうもその後の盧溝橋事件(日華事変)に比べてそんなに画期的な変化が起こったように想われないが~という質問を受けることが良くある。
 
むろん歴史はステップ、バイ、ステップの変化であり、日本の軍国主義化もまた叱りである
けれども私の実際の見聞に従えば、満州事変はやはり大きな転機だった。
 
 寮でも「民族主義と国際主義」とい講演会が国司グループによって開催された。
ヴェルサイユ講和条約に始まる国際協調の時代が終焉し、民族主義の時代を迎えるというのが演者の論旨だった。」
W。ナルホド。当時の社会の空気を知っているを知っている丸山の意見を尊重する。
確かに満州国樹立からの年票で証明されている。
が、経済指標と重化学化は実際のこと。一種の軍需に牽引されたバブル経済日中戦争拡大まで続いたが社会の空気は戦時色。
 
       
         爆弾三勇士 新国劇に日の丸を振って万歳を連呼する観客。
新国劇は急遽番組の一つを爆弾三勇士と題する際物に差し替えた。
花道から長大な爆弾を抱えた産勇士が舞台中央に突入し、漠然とした爆音と火炎の中に姿を消した瞬間、観客の多くは席から立ち上がって『万歳万歳」を連呼した。アチコチに日の丸が揺れた
つまり少なからぬ観客はこのときの万歳に備えて日の丸を予め携行して芝居に出かけたわけである。
この光景は先の寮での講演会などとは比較にならぬほど、ナショナリズムの大衆的高揚を私に印象付けた
 
昭和7年満州国建国1931年
     ↓
5,15事件(1932年海軍の青年将校首相官邸に突入し犬養毅首相暗殺。ロンドン軍縮条約締結政党政治に不満。5班に別れ、各々攻撃目標を策定。計画性規模共、過去のテロ事件として最大級。【政党内閣の焉】
     ↓ 
1932年国際連盟脱退、
 
        
                 丸山真男検挙
「左翼運動に実践的に何のかかわりを満たないにも拘らず、特高の張り巡らせた網にかかった。
取調べの際に特高は応酬したポケット手帳を机上においていた。
そこには無数の箇所に赤紙の小片が添付され、その一箇所一箇所について峻烈に尋問された。
 
 特高は貴様君主制を否定しているなといったことが意外だった
付言するが天皇制という言葉は当時共産党は別として一般には用いられていなかった
W。共産党綱領に始めて明記された。1927年綱領だったと想う。
安部氏の著作で文脈から観て不自然な天皇制という言葉が無神経に使用されている。完全版では削除されているかもしれない。
 
ドストエフスキーの作家の日記を引用して、「果たして日本の国体は懐疑の坩堝の中で鍛えられているか」と書いてあった。
私はすぐさま「それは何も天皇を否認する~」といいかけたら、言葉の終わるのを待たず特高はこのやろうとびんたを食わせた。」
         ↓
       治安維持法第1条の内容と拡大解釈
「A 『国体を変革することを目的として結社して結社を組織~または結社の~指導者たる任務に従事したるもの』に死刑・向きもしくは5年以上の刑を科し
 >拡大解釈
     ↓
『結社の目的遂行のためにする行為をしたるもの』に2年以上の有期刑を定めていた。
治安維持法の運用の最大の問題点は、この中の『目的遂行のためにする行為』という言葉がいかようにも拡大解釈されることにあり、コレによって当該政党とは全く関係のないものにも適応される可能性が内包されていたし事実そうなった。」
 
 
                戦前天皇制とマルクス主義
「当時の私には国体を否認する考えなど毛頭なかった。
むしろ寄宿寮の便所の壁に天皇制妥当という落書きを見たとき一瞬、生理的とでも言うべき不快感に襲われたほどである。
 
 そうして釈放された後に、1年上級の知り合いの左翼学生が近くの飲み屋で会を開いてくれたが、その折の談話の中で私が向坂逸郎の論文のことに言及するとその左翼学生はすぐさま向坂なんてインチキマルクス主義者を信用してはいけないよ。
第一天皇制の問題をよけて通る学者なんてマルクス主義者でもなんでもない、と突っぱねるように行った。
天皇制をはっきり否認しなければそもそもマルクス主義者を名乗る資格が無い、というような厳密な定義とは私は縁遠かったのである。」
 
           日本の国体は頭ごなしに押し付けられる信仰か
「ただ当時の思想善導とか国体観念の鼓舞に対しては、父の影響もあって少なからぬ反感を持っていたのも事実だった。
そういう反感が底流をなして、
>日本の国体がキリスト教のように<懐疑の坩堝(るつぼ)>で鍛えられる経験もなく、ただ頭ごなしに信仰としてとして押し付けられるのはいかがなものか、という疑問が兼ねてあった。
W。丸山真男らしい論法!」
 
『否定することと、否定をくぐって肯定することの間の区別』といった、ヘーゲル弁証法紛いの理屈はそもそも大日本帝国の思想問題に発揚しなかったのであって、
その区別の認識の欠如は必ずしも私を取り調べた特高知的水準の問題とはいえないのである
W。情緒主義?
 
      
       馬鹿ヤロウ、長谷川如是閑なんて奴は戦争でも始まれば真っ先に殺される男だ
唯物論研究会の講演会に出席した動機を尋ねられて、私は長谷川如是閑の名前を出して父との長い交友の由来を話そうとした。  
 このときも特高の次のような怒号でさえぎられた。
『馬鹿ヤロウ。如是閑なんて奴は戦争でも始まれば真っ先に殺される男だ。』というのである
 子供の時から馴染みの深い如是閑の相貌がとっさに目に浮かび、ああ、あの如是閑さんが殺されるのかーという想いとともにスーッと眼前が暗くなった
 
 「殺される」というのは裁判で死刑になることではなく、虐殺を意味していた。
現にプロレタリア作家の小林多喜二が築地書で検挙直後に殺された日時は、そのときから遡ること僅かに1ヶ月ソコソコであった。
 
 >国家公務員が平然と殺すという言葉を口にできたこと、国体を否認する国賊は方の正当な手続くなどお構いナシに抹殺しても差し支えないという考えが私のようなチンピラ学生を取り調べた特高にとっても常識になっていたこと、やはりこの時代を知るために忘却してはならぬ事実であろう。」
 
       
 治安維持法の「国体を変革することを目的として結社し~云々」の登場によって帝国憲法において裁判官は何が国体に該当するか定義する必要に迫られた。
 「昭和4年(1927年)5月の大審院判決において万世一系天皇君臨し統治権を総攬し給うという大原則」、
すなわち帝国憲法の第1条と第4条が国体に当たり、この二条に対する違反が国体否認に該当することが確定したーというのが宮沢教授の説明であった。
 
 右の大審院の解釈は今日でこそ大日本帝国憲法の解釈として極自然のものと受け取られているであろうが
義務教育以来、【『万邦無比』の国体の精華】を叩き込まれてきたものにとって余りにも散文的な国体論のように映ったし、治安維持法によって始めて国体が法的概念になったと知った時も、私は改めて、先に述べた特高の罵声が思い出された」
 
  
   1934年(昭和9年)法学部入学と共に宮沢俊義教授の「憲法」講義で天皇および天皇制とであった
「その前年に美濃部達吉教授が退官したので、私は偶然にも宮沢教授の処女講義に出席したことになる。
それは少壮教授の颯爽とした講義であり次年度から天皇機関説問題の燃焼によって、宮沢教授は帝国憲法第1条から第4条までの説明を省略する、という異様な講義に一変した。
やや後になるが三島由紀夫はこの変容した宮沢教授の講義を聞いたときの失望と怒りについて書いている
>急変する時局の雰囲気を、後の時代から振り返るのではなくその刻々の時点で感知していた私たちの判断では、
憲法1条から4条まで説明を敢えて飛ばすということは、それ自体ぎりぎりの抵抗とも解釈できた。
 
 宮沢教授によると「第3条、天皇神聖にして侵すべからず」は天皇は刑事訴追の対象にならない、ということで、法的にはそれ以上の意味はなかった。
神聖にして侵すべからず」という、いとも壮言かつ神聖な表現が、法律的には刑事訴追の対象にならないというー味も素っ気も無い意味だけになってしまうことを教授の講義で知って、
「ナルホド法律学というのは案外面白い学問だな」と想った学生は私だけだろうか。」
 
 
       【戦前の天皇制の市中は大日本帝国憲法よりも教育勅語だった】
大日本帝国憲法というと今日の人々は教育勅語と並んで、戦前天皇イデオロギーの根幹を成していたというイメージを抱くのが一般的である。
が、それは半ば真実であり、半ば真実でない。
 
>戦前において天皇制の思想的支柱をなしたのは右の二つのうち教育勅語のほうであって、憲法ではなかった
 
教育勅語は祝祭日の例でもわかるように、小学校の時からは拝聴の習慣をつけさせられ、国民のほとんどがその全文を暗誦していた
 
ところが大日本帝国憲法はとなると、「万世一系天皇の統治す」の第1条が突出して国民承知になっていただけのことであり、わたし自身も憲法の他の条文は大学に入ってはじめて知り学んだのである。
そもそも法的思考は日本人の伝統的奸悪に馴染みにくいのであるが、そのことは最高法規としての憲法にも当てはまった。
実際、宮沢教授の個別的説明を待たないでも憲法の条文の「臣民W?権利義務」の章において自由権が列記してあるのを見たとき、「憲法というのはなかなかいいことが書いてあるなぁ~」というのが私の正直な感想であった」
 
 
国家秘密保護法と日本版NSC(国家安全保障会議)。YAHOO!みんなの政治。日本弁護士連合会。その他、引用。
2013/11/7(木反俗日記
           YAHOO!みんなの政治
   「秘密保護法」対象の罪と罰    最終更新日:2013年11月5日
点検。秘密保護法案。(東京新聞
 
法案全文
 
                      
                 【点検 秘密保護法案】のW。要点
   <1>厳罰化 懲役10年 市民が萎縮
 この罰則は他国と比べても重い。
安倍政権は、防衛・外交政策の司令塔となる「国家安全保障会議(日本版NSC)」をつくる法案とセットで秘密保護法案の成立を目指している。
政府は米国から秘密保全の徹底を繰り返し求められ、NSCで緊密な情報共有をするには規制の強化が必要と判断した。「知る権利」よりも米国の注文を優先している。
 
  
   <2>特定秘密 際限なく広がる恐れ
 「特定秘密」とは何か。政府原案では、(1)防衛(2)外交(3)特定有害活動(スパイ行為などを指す)の防止(4)テロの防止-の四分野の情報のうち、
>「国の安全保障に著しい支障を与える恐れがあるもの」と定めている。
 さらに問題なのは、どの情報を特定秘密とするかは、大臣などの「行政機関の長」の判断に委ねられることだ。政府のさじ加減で、厳罰の対象になる情報が決まる
原発放射能などの情報は、国にとって重要度が高い。幅広く指定できる構造の法案が変わらない限り『対象にならない』といくら説明しても信用されない」と指摘。
運用指針も守られているかチェックする仕組みがなく「実質的な意味はない」
 
  <3>知る権利 市民も処罰対象に
 特定秘密保護法案が成立すれば、広範囲な情報が「秘密」とされる可能性があり、漏らした公務員だけでなく、取得した側も処罰の対象となる。
国民の「知る権利」が損なわれると指摘される。
>政府が不都合な情報を隠し、それを暴くことが罪になれば国民が政府の本当の姿を知ることはできなくなり、民主主義の根幹は揺らぐ。
問題なのは、情報を知ろうとする行為が厳罰に問われかねないことだ
原案では「あざむき」「脅迫」などで特定秘密を聞き出した側も、最高懲役十年。
情報漏えいと情報を聞き出すことを「そそのかし(教唆)」「あおり仕向ける(扇動)」行為にも最高懲役五年が科せられる。
処罰対象は記者に限らない。
調査活動をする市民や研究者、情報公開を求める民間団体なども、罪に問われる可能性がある
文字通り、国民の「知る権利」にかかわる。
 
 
   <5>情報公開 永久に秘密も可能
 政府が持つ情報を国民が得るには、いくつかの方法がある。
一つは情報公開法による請求だ。
もう一つは、公文書管理法による請求だ。
 そもそも、特定秘密の指定期間は五年だが、更新は何度でもできる。政府が更新を繰り返せば、永久に指定は解除されない。
 政府はすでに外交文書を原則三十年で公開している。さらに、記録がない閣議や閣僚懇なども議事録をつくり、三十年後に公開する法改正を検討する。
だが、いずれも「特定秘密」に指定されれば、期間に関係なく非公開とされ続ける。
 
   <6>国会 政府監視 自ら放棄
 国会には憲法で定められた国政調査権があり、政府は「正当な理由」なく資料提出要求などを拒否できないが、今回の法案は国政調査権より「国の安全保障に著しい影響がある」として、秘密保全を優先している。
 閣僚などの政務三役は特定秘密を扱えるが、漏えいすれば罰則の対象になり、公務員と同じく最高懲役十年。同じ政党の同僚議員に教えることもできず、議論さえできない
法案では、例外として、非公開の委員会など(秘密会)に提供できるとしている。
出席した国会議員がその情報を漏らせば、最高懲役五年だ。
 問題を複雑にしているのは、「両議院の議員は、議院で行った演説、討論について、院外で責任を問われない」と規定する憲法五一条との関係だ。
 重要な情報が「特定秘密」にされてしまえば、国民の代表が政府を監視する国会の機能は削(そ)がれ、政府の歯止め役にならない。
国会がこの法律を成立させることは、自らの手で憲法で与えられた役割や権利を放棄することになりかねない。