反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

第2回。丸山真男インタビュー「戦後民主主義の原点」。2005年→2012年自民党憲法草案、第1条天皇規定の元首明記への変節。カール、シュミットの民主主義ー同一性。

    「主権在民がいかに画期的なことかは、ポツダム宣言受諾の過程を見れば一番ハッキリする。
行政府だけではなく議会も含めた日本政治の統治機構の構造は日本の国民が自由に表明した意思によって決めつということです。
 W。安部「美しい国へ」の中で語られている「GHQとの激しい攻防とはポツダム宣言受諾までの内部葛藤を勝手に含めているのかもしれない。)、
 W。ポツダム宣言の中のForm of Govermentを日本政府翻訳の政府の形態ではなくて統治形態と丸山は限定する。
【政府の形態と翻訳すると、戦前の天皇主権はそのままにして戦前に憲法論議にもあった美濃部達吉立憲君主制程度の解釈変更でOK】→【自民党2012年憲法草案の天皇元首の明記戦前帝国憲法から現憲法への成立過程を踏まえて、譲ったところを帝国憲法の精神を復活修正使用とする試みである】
 
2012年度版自民党憲法改正草案、
 第1条 (天皇
 第一条
天皇は、日本国のであり
日本国及び日本国民統合の象徴であって、
その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。
 
2005年度版自民党憲法草案
第1章 天皇 
 第1条(天皇
天皇は、日本国の象徴であり、
日本国民統合の象徴であって
この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。
現行憲法第一条
天皇は、日本国の象徴であり、
日本国民統合の象徴であつて
この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
 
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 ポツダム宣言通達は7月なので、その後の国体論議のゴタゴタの間に原爆が投下された。
結局は受諾となったけれども、日本政府の最後の条件が、天皇主権の護持ですから、国体は天皇主権を前提としていたことは間違いない。
 
かくも自民党長期政権を続かせら来たのは、ほかでもない主権者としてのわれわれの責任なんだということ。そこまで自覚しないとダメなんですね。
 
 民主主義というのは理念と運動と制度との三位一体で、制度はそのうちの一つに過ぎない。
理念運動としての民主主義、【永久革命なんですね。
資本主義も社会主義永久革命ではない。
その理念はあるけれども、やはり歴史暦制度なんです。
ところが民主主義だけはギリシアの昔からあり、しかもどんなな制度に担っても民主主義が終わりということは無い。
たえざる民主主義しか存在しない。それが主権在民ということです。
主権在民憲法に書いてあるから、もう種偏在民は自明だというわけではなく、絶えざる主権在民に向けて運動していかなくてはならないという理念が掲げられているだけです。
決して、制度化してお終いということはないんです。
その理念と運動面とを協調していくことがますます大事になっていくと想います。
 
W。丸山の場合、民主主義を少数者の多数支配の道具として、永久革命の対象としながらも、その内実にふみ込む論評は国民に結集することへの個々人の個別的体制外的思考ルート(いったん外の出て、考える)を辿った絶えざる決断にということに成っており、それ以上の次元は開かれていない。
 
 そこで、丸山が放置している民主主義、自由の問題を探求する。
 
 【恒常的危機としてのデモクラシー】 「物質」の蜂起を目指してレーニン。【力】の思想より。白井聡(あきら)
 
>「戦争の方便(似すぎないもの)としてもデモクラシーという状況は、否定しがたく存在しているのである。
W。古代アテナイの民主政は奴隷主の戦士同志の民主政だったのも事実。
<デモクラシーの機器論は万年危機論と呼ばれるべきものに他ならない。それは政治について思考することを人類が始めて以来、飽くことなく繰り返して語られてきた、その意味では手垢にまみれた主題である。
>デモクラシー=民主主義とは、危機に陥っているのが常態であるような様式であることが明らかにされなければならない。
 
 現在のデモクラシー=民主主義は、デモクラシーを実現させた暴力が閉じ込められ、闘争の現場が言論へと移し変えられることによって成立するのであるが、封じ込められ抑圧された暴力が回帰する必然性危険性、すなわちデモクラシーに内在する危機のモメントを明らかにする。
 
 次に問題になるのは、実力による闘争が言論に移し変えられる先の場所としての民主主義的コミュニュケーションの場の固有の構造に迫る(W。ここではマスコミ、メディア云々ではなく、政治哲学の領域を課題としている)
 
  
       暴力封じ込めとその回帰
  現代デモクラシーの成立条件
パりコミューン(1871年)の事態を引用して~。
 
 ここで語られているのは、現代民主主義が成立する起源である。
最後の権力の乱用に対して武装して立ち上がる代わりに、それを諦めて、既成の機構の中で民衆の声を大きくしていくという一説が議会制民主主義の確立を示唆することは明らかであろ。
民衆の力の発言する場が武装から声へと移動するというプロセスを経つことによって、フランスのデモクラシー=民主主義は、現代的形態に転化していった。
 
つまり、デモクラシー=民主主義が今日、我々が知るような制度として確立されるためには、一般国民の武装が無効化され解除されることが決定的だった
 
W。日本の【兵農分離の歴史】を棚上げして、論理を追い求めても片手落ち。それでも江戸時代の日本に民主種主義の歴史をたどることができる
 
 それは次のカールシュミットの民主主義観に表明されている。
白井。「物質の蜂起」より。
  カールシュミット。
「民主主義は、軍国主義的でも平和主意的でもありうるし、絶対主義的でも自由主義的でも、集権的でも分権的でも、進歩的でも反動的でもありうる。
 そしてさらに、全ては時期ごとに様々でであり、だからといって民主主であることを辞めない。
 
 それならば、民主主義について何が残るのか。
民主主義の定義にとって、同一性ということが残る
下された決定は決定するもの自身にとってのみ妥当する、ということが民主主義の本質に属する。」
 
白井→シュミットにとって、デモクラシー=民主主義とは何を置いてもまず、【同一性】の原理にほかならない。
それは多種多様でありうる個々の人間を一つの集団として纏め上げ、差異を抹消された同一なるモノとする原理なのであって、人民が纏め上げられた結果として成立する政体がどのようなものであろうと、
あるいは集団の奉ずるイデオロギーとして何が選ばれようとも、それは副次的な事柄に過ぎない。。
 
 故にデモクラシー=民主主義は、軍国主義民主主義でも平和主義的民主主義でも合いうるし、さらには参加柄民主主義でもありうる一方でカエサル主義的民主主義でもありうる。
 
つまり平和主義や人民の政治参加といった原理は、民主主義の内在論理と基本的に無関係である
 
シュミットの言うところ、デモクラシー=民主主義はそれ自身の内容を持った政治思想や政治原理なのではなく、【組織形態】にほかならない。
それゆえあらゆるイデオロギーや政治制度と融通無垢に結びつく可能性を持つ。
 
シュミットの見取り図をさらに検討すれば、
デモクラシー=民主主義の根本原理が同一性にあるのだとすれば、実のところ議会主義の根本原理はその対極にあるという。
 
>続く