反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

続編。反俗日記2014/3/12(水)安部普三著「美しい国へ」・第3章 ナショナリズムとはなにか。

       第三章ナショナリズムとは何か?
     天皇は日本歴史のタペストリーの縦糸論
前回記事の最後尾に配したカールシュミットの民主主義=同一性と比較してみるのも一考。
 個々人がどんな思想を持とうがまったく自由であるが~。
   
  「現代議会主義の精神史的状況」~シュミット著作集Ⅰ
『選挙権がより多数の人間に次第に広く流腑して与えられる時、それは、国家と国民の同一性を実現する努力の一つの徴候である。
その基礎には、同一性を実現するものとして承認するための前提についての一定の考え方がある。
そのことはまた論理的には全ての民主主義の論拠が一連の同一性の上に基づいているという根本思想を、少しも変えるものではない。
 
 この一連の同一性には、(W。ここからが凄いことになってくる
治者と被治者との、支配者と被支配者との同一性、国家の権威の主体と客体との同一性、国民と議会における国民代表との同一性、国家とその時々に投票する国民との同一性、国家と法律との同一性、
最後に、量的なもの【数量的多数、または全員一致)と質的なもの(法律の正しさ)との同一性、である。』
 
>W。「美しい国へ」 シュミット的同一性の狂気までは至たらいが、同一性への強力な巻き込み、強要は一貫している。
 
天皇はズット<象徴>だった』
日本の歴史は天皇を縦糸にして織られて巨大なタペストリーだ。
 
W。言っている正確な意味が解っているのかなぁ~。日本歴史=タペストリーの縦糸「全部」(タペストリーの縦糸だから、理屈としてそうなる)が、【云うところの天皇制】であるとすれば、最低限、室町時代後期、戦国時代、江戸時代はなんだったのか?
ケチ付けではない。表現はキザでもっともらしいが、こういういい加減、粗雑な政治感覚は理解しがたい。
 
>日本の国柄を表す根幹天皇制である。
 
(W。天皇制?!タペストリーの縦糸とおなじく、粗雑な用語の使用。
>戦前、天皇制という用語を始めて使用したのは日本共産党1927年綱領であり、それは事実上、コミンテルンの指導によって、かかれたものである。
一般的にも天皇制という用語は使用されていなかったし、そういう用語を使用したら、当局の摘発にあった、と思う。
 後に特攻隊に言及されるが、本気度が問われる。所詮、お気に入りの意匠にすぎないのじゃないですか?)
 
 
    W。憲法第1条。天皇象徴規定にも飽き足らない様子
天皇は、日本国の象徴であり、日本国民の統合の象徴であってこの地位は主権の存する国民の相違の基づく』
 
W。参考資料→反俗日記、2014/3/23(日) 午後 1:10最終回。タイトル、丸山真男著「戦後民主主義の原点」。ハイライトは【敗戦直後の憲法草案時期のリアルな描写】本文中ほど
 
 安部氏等に憲法第1条に対して、わだかまりが生まれる事情は、丸山等も9条よりもむしろ、1条の主権在民規定に驚いたことからも類推する必要がある。
 
 敢えて、【必要がある】とする意味は戦後生まれの我々には(戦前戦後の歴史を継承の観点で見る教育を受けていないから、あるいはそういう社会の空気の中で生活してきたから)、第1条を天皇象徴宣言と同時に、リアルな主権在民宣言と観る政治感覚はないからである。
 
 安部氏等に有って、我々にない。紛れもない事実である。
だから、安部氏等は第1条に天皇元首規定を入れ、それにリンクさせて<公共の優先>を自由権に必ず対置する。基本的人権条項まで剥ぎ取っている
コレに対してリアルな政治感覚として、反応できない、想像できない弱点を抱えている。
   
        「美しい国へ」に戻る。
 日本政府の改正要綱1946年2月8日→拒否回答。GHQ憲法草案2月13日 W。丸山は3月説
政府見解として
「日本には歴史始まって以来天皇によって統括されていたので、今更共和国にするとか大統領を元首にするとかいう案は国民が許さない。」
W。GHQの総意として共和国制は視野に無いー戦犯指名を受ける前まではGHQトップとの折衝役を果たしていた近衛文麿天皇上奏文でも天皇の地位は保証されるとしているー)
 
  (日本政府案では)
天皇統治権を総攬行使する、という明治憲法の基本を継ごうとした。
 
しかしGHQはそれを許さなかった。
結局GHQ案を呑まないと天皇制そのものが存続できなくなるという危機感から象徴天皇制を受け入れることとした。
W。天皇制という政治用語を連発している意図はわかる
当時の人は天皇制といわず、【国体】という用語を使用していたのである
美しい国へ」の国体という政治用語を使用すると反発を受ける、という政治感覚から、あえて天皇制としたのだろう。
そういう政治用語を敢えて、問題にする者は元々対象としていないのだから、天皇制を使っても良い、という政治判断。)
 
天皇が象徴と明記されたGHQ案にthe emperor shall be the symbol of the state and unity of peaple
<象徴>とされていたからである。
 
W。文章を続けると文脈というものが生まれる。その文脈から類推して、見解はイロイロ有るだろうが「W。憲法第1条。天皇象徴規定にも飽き足らない様子」とした。
 
>実際に自民党憲法草案2005年度版→2012年度版では次のような第1条の変化が見られる。
2012年度版は「美しい国へ」の思考パターンに沿ったものと考える。
2012年度版自民党憲法改正草案、
第1条 (天皇
 第一条
天皇は、日本国の元首であり
日本国及び日本国民統合の象徴であって、W?the symbol of the state and unity of peaple(直訳国と人民統合の象徴。従って日本語としては日本国民統合の象徴でOK
その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。
      ↑
2005年度版自民党憲法草案
第1章 天皇 
 第1条(天皇
天皇は、日本国の象徴であり、
日本国民統合の象徴であって
この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく
    
現行憲法第一条
天皇は、日本国の象徴であり、
日本国民統合の象徴であつて
この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く
 
>2005年度版と現憲法の第1条は同じ
第1条の用語の使用の不自然さに関しては内容は全く知らないが確か、西部さんも指摘していたのではないか
 
『戦後の日本社会が基本的に安定性を失わなかったのは、行政の長とは違う天皇という微動だにしない存在があってはじめて可能だったのではないか。
 
当時まだ20代の私は、その意味が実感として良くわからなかったが、後になってようやく理解した。
W。「美しい国へ」の本当の作者(複数)はある程度特定できる。この本は読者心理を上手くついてよくできているのは確かだ。文章は非常に手馴れている。理論問題に突入するまでの文章は大量部数出ている週刊誌のような流れるような引っかかりない文体。理論編で作者交代だとう。
 
 もっとも、政策論に該当する部分は極めて少ない。
本人もあとがきに記しているが、<はじめに>では政策論を得意する政治家が多い中で、チャーチルを理想とする<戦う政治家>と自己規定している。
 しかしながら、イギリス国民はそのチャーチルは戦争が終了する同時に用無しとしている。
 
『世界を見渡せば、時代の変化として、その存在意義を失っていく王室が多い中で、その家系が千年以上の長きに渡って続いたのは、奇跡的というほか無い。
 
        国民のために祈る天皇
 (省略)宮中儀式などがかいつまんで書かれている
 
 
        W。ナショナリズムとは何か、の最後は【特攻隊<論>
   【公】の言葉と【私】の感情
 60年前天皇が特別の意味を持った時代があった。そして多くの若者たちの悲しい悲劇が生まれた。
彼等はこの戦争に勝てば、日本は平和で豊かな国になると信じた。
愛しきもののためにーそれは父親であり兄弟姉妹であり友人であった。そしてその愛しきものの住まう日本であり郷土であった。彼等はそれを守るため出撃した。
 
 私は想う。(W。上記の心情に解釈を加える)
 
 だが、他方、自らの生を永遠のものにしようとする意思もあった。
それを可能にするのが大儀に殉じることでなかったか。
彼等は【公の場】で発する言葉と、【私の感情を区別】することを知っていた。
死を目前にした瞬間、いとしい人のことを思いつつも、日本という国の悠久の歴史が続くことを願ったのである。
 今日の豊かな日本は、彼らが奉げた命の上に成り立っていいる。
 
 だが、戦後生まれの私たちは、彼等とどう向き合ってきただろうか。
国家のために進んで身を投じた人たちに対し、尊崇の念を【あらわに】してきただろうか。
 
 確かに自分の命は大切なものである。
しかし、時にはそれを投げ打っても守るべき価値が存在するのだ、ということを考えたことがあるだろうか。
 
 私たちは自由で平和な国に暮らしてきている。
しかしこの自由や民主主義を私たちの手で守らなければならない。
 そして私たちの大切な価値や理想を守ることは、郷土を守ることであり、それはまた、いとしい家族を守ることでも有るのだ。
 
 この鷲尾克己しょういの日記の最後の部分は、とりわけ私の胸に迫ってくる。
(W。こういう入れ込み方をするところに、安部氏等の独特のキャラクターが良く出ている。吐き気がする!
戦争が終わって70年の現時点に存在している我々が、そのような矮小な解釈を施すのは、彼等の死を私物化し、本質的に冒涜するものである。と考える。
【公の場】で発する言葉と、【私の感情を区別】しているとはとても思えない
本当にリアルな当時の彼等の実存に寄り添えているのか。大いに疑問に想う。
それから他にもたくさんいいたいことはあるが、云うべきではない。アベ等には自重が足りない。
 
 【はかなくも 死せりと人の 云わば云へ わが心の 一筋の道】
ーー自分の死は、後世の人にはから必ずしもほめ称えられないかもしれない、しかし自分の気持ちは真っ直ぐである。
 
 
          <追記>
The Beatles - Twist and Shout [live]
 Twist and Shout amazingly live perfomed in 11.04.1963 during The Royal Variety Show at Prince of Wales Theatre, London.
 とあるだけで、ユーチューブのコメント欄には、Twist and Shout の演奏前のジョンの「高貴な方は(特別席エリザベス女王たち)宝石をジャラジャラ鳴らしてくださいという、トークへの特別な言及は全く見当たらなかった。
 
  しかし、この講演は昔の日本のポピュラーファンの一部では伝説的であった。
古いポピュラー音楽評論の人は全部知っていると思う。
 
 この時期から経済低調のイギリスでは、ビートルズ、レコードの世界的売り上げが、イギリス経済に貢献したということでこのロイヤル、アルバート、ホールでのエリザベス女王以下の臨席の特別講演が行われた。
 そこで、Twist and Shout演奏前のジョンのコメント前のいたずらっぽく、ユーモアにあふれ、かつ思慮深い独特の表情。(通常のビートルズ、コンサートでは、この演奏前の皆さん手拍子を!というコメントは必ずポールの役割であった。どの動画を見てもジョンがやったことは一度も無い。
即興ではなく、予め彼等の間で思いついた悪戯であった)
 笑みをたたえながら王室スタイルで軽く手を挙げて答えるエリザベス女王
こうして、すべてがユーモアの絵になる場面になった。
 がしかし、誰もコメント欄でこの場面を取り上げていない。
このような光景、雰囲気は特に言うことないものであった。
 
 
>他方で、それでも、鬱屈はあった。
Rolling Stones - Paint It Black
The Rolling Stones are an English rock band, formed in London in April 1962
by Brian Jones (guitars, harmonica), Ian Stewart (piano)W?Mick Jagger (vocals, harmonica)
and Keith Richards (guitars). Bassist Bill Wyman and drummer Charlie Watts completed the early line-up.
 The Rolling Stones raised the international regard for the primitive blues typified by Chess Records' artists such as Muddy Waters, who wrote the song Rollin' Stone after which the band is named. R&B and blues cover songs dominated the Rolling Stones' early material,
but their repertoire has always included rock and roll. According to critic and musicologist Robert Palmer,
the Rolling Stones have endured and stayed relevant by remaining "rooted in traditional verities, in rhythm-and-blues and soul music", while "more ephemeral pop fashions have come and gone".
マディ・ウォーターズMuddy Waters, 1915年4月4日 - 1983年4月30日)は、米国ブルースシンガーギタリスト。本名は、マッキンリー・モーガンフィールド(McKinley Morganfield)。シカゴにおいてエレキ・ギターを使ったバンド・スタイルのブルースを展開し、シカゴ・ブルースの形成に大きな足跡を残したことから、「シカゴ・ブルースの父」と称される。生涯に6度グラミー賞を受賞し、没後の1987年にはロックの殿堂入りを果たした。
その豊富で深淵な声、豪快なボトルネック・ギター、カリスマ的キャラクターで、ブルースの第一人者のひとりとなった。ロック界においても、ローリング・ストーンズエリック・クラプトンロリー・ギャラガーポール・ロジャースザ・バンドなど、彼から影響を受けたミュージシャンは多く、その影響力は計り知れない。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第53位。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第17位。
2011年、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第49位
 
    来歴
1915年ミシシッピ州ローリング・フォークに生まれたマディは、クラークスデイル郊外ストーヴァルのプランテーションにて幼少期を過ごす。泥んこになって遊ぶのが大好きだったことから、マディ・ウォーターズ(泥水)とのニックネームで呼ばれるようになった。7歳でハーモニカを始め、のちにギターに転向。
 
バンド・スタイルでレコーディングするようになったのは、1950年のパークウェイのセッションから。リロイ・フォスターリトル・ウォルターがヴォーカルを取るセッションではあったが、初めてウォルターがハーモニカをプレイするなど、実質的にマディ・ウォーターズ・バンドの始動とも言える内容であった
 
1953年にはオーティス・スパン1954年にはウィリー・ディクスンがレコーディングに加わるようになり、マディのバンドの形が完成する。同年、"I'm Your Hoochie Coochie Man"、"I Just Want To Make Love To You"など、彼の代表曲となる曲がレコーディングされた。1955年にも"Mannish Boy"などがヒットする。
 
1958年には、初のイギリス・ツアーを体験する。
 
1963年アメリカン・フォーク・ブルース・フェスティバル出演のために渡欧。翌年、当時のフォーク・ブームに乗る形でアルバム『Folk Singer』をリリースした。同作には、ギターにバディ・ガイが参加している。この年もフェスティバルのために再度渡欧した。
 
1968年、異色作『Electric Mud』をリリース。これは、ロック・ファンにアピールするために、大胆にサイケデリックなアレンジを施した作品であった。ロックへの傾向は続く1975年の『Woodstock Album』でさらに顕著となる。ここではザ・バンドリヴォン・ヘルムガース・ハドスンポール・バターフィールドなどロックミュージシャンが参加している。翌1976年には、ザ・バンドの解散コンサート、「ラスト・ワルツ」に出演。ザ・バンドをバックに"Mannish Boy"を歌う様子は、同名のドキュメント映画に記録されている。
 
1977年ジョニー・ウィンターと組んでブルー・スカイよりアルバム『Hard Again』をリリース。また、同年リリースされたウィンターのアルバム『Nothin' But the Blues』のレコーディングに参加。以後、ウィンターのサポートを得て
 
1981年までに計4枚のアルバムをリリースした。
 
1980年5月、唯一の来日公演を行う。
 
1983年イリノイ州ウェストモントにて68歳で死去。シカゴ近郊のオールシップにあるレストヴェール墓地に埋葬された