反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

日本国憲法は成立前後の政治カオス状況において、日米支配層によって予め「憲法の云う主権の存する国民の地位を大きく傷つけ」られていた。憲法所定の「国事行為」だけを行うのが「象徴」としての天皇なのである。天皇が「象徴」であるということの意味は、憲法の明文規定のうちにではなく、従来の天皇が持っていた「象徴」性のなかに見出されることとなり、「伝統」や「慣行」が持ちだされることによって、「象徴」規定自体に独自の意味が持たされることになる。 @こうして、天皇の「権威」や「権限」が、戦後「昭和」の時代をつうじて、憲法の枠

   2020-06-09
第8回「敗北を抱きしめて」ジョンダワー下巻。

末尾引用

「W。ジョンダワーの象徴天皇制批判は、「戦後意識は混濁してしまった」までは納得できるが、その後の下りの批判対象は「天皇主義者」に限定されるものであり、戦後の一般的な国民の天皇意識とかなりずれていると思うので割愛する。」

   ↓

割愛した末尾の引用

GHQが作った新憲法では天皇は『日本国象徴であり日本国民統象徴であって、この地位は主権の存する日本国民の総意に基づく』と規定された。

@そもそも王権を維持することと、裕仁個人を再び神のように持ち上げることとは違うことである。

@ところがたいていの場合、この二つは同じであるかのように扱われた。

@コレが「憲法の云う主権の存する国民の地位を大きく傷つけた。」 引用終わり

←W。日本国憲法には、
前文主権在民宣言と世界平和主義を引き継ぎ、第1章に 天皇 「第一条【天皇の地位・国民主権】→「天皇~日本国の象徴。国民統合の象徴(=ではないと後段記載の専門家の筋の通った意見なので修正する)。

その地位は日本国民の総意の基づく(帝国憲法の象徴性の継承。ゆえに天皇の「権威」や「権限」が、戦後「昭和」の時代をつうじて、憲法の枠を超えてどんどん拡大されてきた。~8条。を掲げることによって、天皇制民主主義ニアリー≒立憲君主制宣言への政治バランスをとって、
第二章 戦争の放棄 第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】を挿入した宗主国米国に政治軍事的経済的に隷属する日本支配層の合作であって、憲法制定過程への国民側の影響力の行使、ましてや参与は全くなかった。

>W。赤字強調フレーズの割愛の理由。

その1。王権維持と再び裕仁個人を持ち上げたのは、自らの敗戦後の日本国、および日本国民支配の必要に迫られた米軍占領権力と敗北した旧日本支配層である

その2。このリアルな憲法制定過程に対して日本国民側の参与はなかった(幾通りかの意見発表はあったが蚊帳の外だった)。

その3。

したがって、日本国憲法は成立前後の政治カオス状況において、日米支配層によって予め「憲法の云う主権の存する国民の地位を大きく傷つけ」られていたのである。

その4。

しかしながら、民衆の平均的政治意志(参政権25歳以上男子)を国家基本法に体現すれば、帝国憲法民主化以上のモノは提出できなかった政治状況ゆえに敗戦直後の総選挙において戦犯を排除した戦争推進勢力が圧倒的多数を占めた。

ここにおいて、占領軍権力は大急ぎで新憲法制定と戦前の旧政治遺物に圧力をかける検閲下の民主主義化を必要としたのである。

その5。

そういった背景を持つ日本国憲法にスポットライトが当てられたのは、戦後のカオス状況が強圧された後の再軍備、レッド・パージ、朝鮮動乱、自民党合同、社会党合同の55年体制以降である。

日本国憲法朝鮮動乱、ベトナム戦争特需を奇貨とし、東西冷戦の後方兵站基地、東アジア東端の地政学的優位性、人口ボーナス、戦前生産技術組織の残存などの要因によって、飛躍的に拡大した日本経済の国内外需要に適合し、経済至上主義に徹する上部構造であった。

その6。

古代ギリシアアテナイ、ローマの民主政を持ち出すまでもなく、

>帝国や帝国主義が長期に成長繁栄するのは民主政の下であって、民主政の帝国的合理化体制下ではない。

>言い換えると、民主政か帝政かというその種の議論が最もリアルで適切な時期は経済成長と繁栄の余地がある時代あって、成長鈍化衰退期にその議論が持ち出され実行に移されたときは、その相対的下降傾向の促進材料を提供するだけに終わる。一見して合理主義的な方策は社会経済のダイナミズムの喪失に直結する。

@日本の憲法改定論議少子高齢化低成長が長く続いた時代に本格的に全面化しているのは過去の歴史から見て当然の帰結であり、後退の一里塚に過ぎない。

 新型コロナ下のアメリカ合州国の騒乱はその国の社会経済にまだ成長の余地がある証左であり(民衆の側に反発する活力がある)、スウェーデンのコロナ対策独自路線も社会経済の停滞下で選択されたものではなく冷徹なチャレンジの類と結論付けている。

 日本の場合はどうか?

首相あべは目詰まりと適切にも表現した。

>上から下までの社会経済組織が横との連携をかき硬直化し上下関係の中でたこつぼ化状態で運営されている。

>そのほうが個々の組織にとって合理的な運営方法なのだが(それぞれが身内の利益を守るのに汲々とし他者排除の論理を有している~長期経済停滞で受動性が個々の社会経済単位にすっかり染みついた。既得権益擁護、縁故利益供与跋扈!)、

日本という単位で合成すれば、フレキシブルとダイナミズムに欠いた抑圧システムとなる

それらの硬直化は尋常ではない。それがコロ渦で露呈した。

Wの身近で接する役所系団体(役所系のカネの流れに依存する民間団体も役所の悪いところが浸透し公平性を欠いた役所的団体になっている。その意味で民営化は失敗した。)も全部これにひどく汚染されており、住民に直接接する個人の声に耳を貸し取り入れる柔軟性はない。組織防衛、上下関係の論理が跋扈し新しいものを受け入れる余裕がなく簡単にできることができなくなっている

 そうした団体組織の存在そのものが社会経済の手かせ足かせになって住民に不利益を及ぼしている。つまりコロナ対先記者会見で安倍首相の云う目詰まり状態の正体はこれだ

*****************************

 憲法天皇制度、その空気感についてこれまでメインテーマではなく、特別な関心を払ってこなかった。

個人的な意見としては日本国憲法天皇条項すべてが感性的に自分と水と油の関係にあるが、いろいろな考え方政治行動を認める立場だ。

 読売新聞のナベツネさんが回顧録天皇制度について面白いことを語っていた。

自分もずっと天皇制に関しては政治的見地から反発してきたが、社会的地位が上がるにしたがって天皇近辺と近づきなる機会が増えて天皇に親近感を想えるようになった。

ステイタスの上昇を切っ掛けに天皇へシンパシーを抱くようになった人たちがたくさんいる。上層国民というのが一定の支配体制が長くなると降り積もってきた。

 また、ナベツネさんまで出世しなくても、それなりの地位と名誉の獲得の一つとして天皇への陸続き感を何となく醸成し、もっと偉くなった感を欲求する人たちもたくさんいる。市民の間にもこの亜流の人たちがいる。

以上を現体制喜び組(大勢順応主義者)とすれば、

イデオロギー的な天皇主義者は数通りあるが、Wが関心があるのは貴種の天皇主義者である。考え方や政治行動を認めるというのはその人たちに対してであり、論じられる対象はこの人たちである。知識の探究に疲れ果て放棄し、「日本という価値判断の絶対基準」に依拠する安易な道を選んだ日本主義者の系譜も存在するがこれらはイデオロギーの厳密さと議論に中枢がなく、情緒過多で議論の共通の基盤がないので対象外である。

******************************************

 @日本国憲法について調べていると、自分でもある程度納得できる記事を見出した。

この学者さんは第二次世界大戦帝国主義戦争としてとらえる立場で日本国憲法論を展開しWと一致する。

帝国主義戦争とすることで資本制の歴史に忠実になれるし、イデオロギー的裁断による第二次世界大戦感から自由な発想の立場に移行できる。

 引用

第5回 天皇が「象徴」であるということの意味

憲法上、天皇は日本国と日本国民統合の「象徴」ということになっているが、「象徴」という概念は、法的概念として確立されているものではない。もともと、「象徴」という言葉は、たとえば鳩が平和の象徴であると言う場合のように、形のない抽象的な概念をなにか形のあるものに託して表そうというときに用いられる言葉である。そして、「象徴」関係においては、象徴されるものと象徴するものとの間には、同一性も必然的なつながりもない。たとえば、鳩が豆を取り合って争っていても、「平和の象徴」なのである。結局、あるものが何かの象徴であるというのは、あるもの(たとえば鳩)を見てそれ(たとえば平和)を思ったり感じたりするかどうかという、人々の感覚の問題であって、論理必然的にそうだというものではないのである。」

「だから、天皇が日本国と日本国民統合の「象徴」であるという場合にも、それは「天皇=日本国」を意味するわけではないし、天皇が国民統合を体現するということを意味するわけでもない。

>要は、人々の感覚の問題として、天皇という存在によって日本という国や国民統合を感じ取れるかどうか、である。そしてそれは、感覚の問題である以上、人それぞれであり、それぞれの人の心の中の問題である

したがって、憲法天皇を「象徴」と定めても、だから天皇はこうあるべきだ、というような規範的(法的)な意味が、そこから直ちに導かれるわけではない。つまり、憲法1条の「象徴」規定は、それ自体なんら法的な意味をもつものではなく、そこからはどのような法的効果も導き出しえない、ということである。

>とすれば、天皇が象徴であるということの法的な意味は、憲法の他の明文規定から帰納的に確定する以外に方法がない。←W。鋭い指摘だ!

憲法上、天皇は、「国政に関する権能」を持たず、内閣の「助言と承認」にもとづいて憲法の定める「国事行為のみ」を行うものとされている(3条、4条)。

それ以外には天皇の行為や権能に関する定めはないから、これが、天皇が「象徴」であるということの法的な意味だということになる。つまり、「国政に関する権能」を持たず、内閣の「助言と承認」にもとづいて憲法所定の「国事行為」だけを行うのが「象徴」としての天皇なのである。憲法の明文規定から帰納的に確定される「象徴」の法的な意味は、これだけである。

>要するに、「国事行為」を行う天皇が「象徴」なのであって、それ以外に天皇が「象徴」としてなすべき行為はない憲法が、わざわざ国事行為「のみ」を行う、と断っているのであるから、そう解するしかないのである。これが、「象徴天皇」の憲法解釈論的意味である。

@したがって、「国事行為」以外の「象徴としての行為」なるものは、憲法の想定するところではない。

W。以下大事な箇所!

引用する

「論理的には、こうなるはずである。しかし、こと天皇条項に関しては、論理的に当然のことが当然には通用してこなかった。」

 

「それは、日本国憲法のもとにおいて、旧憲法下の天皇とは全然性格が違っているにもかかわらず同じ「天皇」という名称を用い、かつ、同じ人物がその地位についたためであった。このことから、旧憲法下の天皇像が、意識的にせよ無意識的にせよ、日本国憲法天皇条項の解釈に流入されることとなったのである。

>つまり、憲法下の天皇は「統治権の総覧者」であると同時に「象徴」でもあったとし、

日本国憲法の「象徴」規定は、

>従来天皇が持っていた二つの側面のうち統治権の総覧者」としての側面を排除したものだ、とみるのである。

@こういう見方に立つと、天皇が「象徴」であるということの意味は、憲法の明文規定のうちにではなく、従来の天皇が持っていた「象徴」性のなかに見出されることとなり、「伝統」や「慣行」が持ちだされることによって、「象徴」規定自体に独自の意味が持たされることになる。

@こうして、天皇の「権威」や「権限」が、戦後「昭和」の時代をつうじて、憲法の枠を超えてどんどん拡大されてきたのである。←W。GHQと日本支配層の憲法成立前後の目論見と実行はここにあった。日本国民のスムーズな統治支配のために天皇の政治性を利用する。明治維新政府もそうだった。

しかし、旧憲法下の天皇が「象徴」でもあったというのが学問的認識として正しいかどうかということ自体にも疑問があるが、かりにそうであったとしても、旧憲法下のその「象徴」性は統治権と一体となって「神勅」に基礎づけられたものであり、「国民の総意」に基づく「象徴天皇」の「象徴」性とは無関係のもののはずである。

 

 

   第10章 天から途中まで下りてくる。

 天皇制民主主義(2)

                  ~時間不足のため次回に~