第10章 天から途中まで下りてくる~天皇制民主主義(2)~
wacwac。10章のタイトル。「天から途中まで下りてくる」はいい得て妙!
目前に差し迫った東京戦争犯罪法廷で、天皇の訴追を行わせないために膨大な努力のキーポイントとして、GHQのしかるべき部署の要員が英文の原文を起草し、その人間主義傾向を天皇自身と側近者が換骨奪胎し自らを古代司祭的歴史伝統の継承者として押し出し、民主主義を五か条の誓文に言い換える難解な言い回しで、<ハサミで煙を切る>「人間宣言」を作成した。
英文(英語)と難解,曖昧な日本文(日本語)の埋められない溝を利用して日本人向けに自らの都合の良いような情報操作を行うのは、日本支配層の伝統的作法であり、ジョンダワーはアメリカ側の担当者<民間情報局CIE>ハロルドヘンダーソン中佐、イギリス市民レジナルド、Hブライス博士(W注釈)が日本側にまんまとけむに巻かれたことを強調していない。そういう意味での「「天から途中まで下りてくる」はいい得て妙!
(W。裁きは日本人自身が行うべきだったが、手を下せるものが当時、存在していたのかどうか。文献を見る限りそのような革命者は存在しなかった。その理由は簡素。東アジア東端原住民性がそのような革命者を育まなかった。「市民革命」はアメリカ占領軍が天皇制民主主義として代行した。
W注釈。本物のUKのジェントルマン(労働者階級出身)
その生涯において苦難をものともしない勇気、自律、徹底性が際立っている。
引用
「第二次世界大戦が勃発すると、ブライスは敵性外国人として収容される。日本支持を表明し、日本国籍を取得しようとしたが却下された。被収容中に空襲により浩瀚な蔵書を失う。
戦後、ブライスは平和への円滑な移行のため日米両当局と協力し精力的に活動した。1946年4月より皇太子の英語教師として雇われ、皇室との付き合いは1964年5月まで続いた。皇室との連絡調整役を務め、またブライスの親友で連合国総司令部民間情報教育局に勤務していた陸軍中佐ハロルド・ヘンダーソンHarold Gould Hendersonとともに昭和天皇の人間宣言起草に加わった。
1946年、学習院大学英文科教授となり、当時の皇太子に英語を教えている。禅の思想と日本の詩歌、特に俳句が西洋に広められたのはブライスの功績が大きい。1954年、東京大学より文学博士号を授与され、1959年には勲四等瑞宝章を受章した。
1964年、脳腫瘍と肺炎の合併症で聖路加国際病院にて死去。墓所は鎌倉の松岡山東慶総寺禅寺。終生の友鈴木大拙の墓の後ろに眠っている。辞世の句は「山茶花に心残して旅立ちぬ」。
ブライスと俳句
引用
「今日におけるプライスの最もよく知られた業績は英語圏に俳句を紹介したことである。
今日のブライスに対する見解は分かれる(W。ブライスの俳句理解は独創的。ビートジェネレーション作家に魅かれるのでブライスの指摘は何となくわかる)日本文化普及の功績を評価される一方で、ときにその俳句と禅の説明は一面的であると批判されている。現代の多くの俳句作家はブライスの著作によって俳句の世界に入っており、その中にはジャック・ケルアック、ゲーリー・スナイダー、アレン・ギンズバーグ、J・D・サリンジャーといったサンフランシスコ・ルネッサンス詩人、ビート・ジェネレーション作家らがいる。」
>「ブライスは近代的主題を持つ俳句を好まず、また日本の俳人が基本的には意識することのない俳句と禅の直接的な結びつきに重きを置きすぎているとしばしば述べている。ブライスはまた女流俳句を好意的に見ておらず、特に芭蕉の同時代と20世紀における女性俳人の役割を過小評価している。800頁を優に超える『俳句の歴史』全2巻中、女流俳句について述べたのは16頁に過ぎず、それら各頁も女性俳人に対する否定的な論評で貫かれている。「女は直感に優れると言われるが、女の思考力が劣るからこそそう言いたくなるのかもしれない。しかし愛国心などと同様、直感では不足である」。明らかに千代女のものと思われる句についても、「この句が千代女の作かは疑問であるが、そもそも女に俳句が詠めるかどうかも疑問である」
W。TV番組の俳句のコーナー。まともに最後まで見たことはないが、根本的にどこかが欠落しているという思いが付きまとう。あの俳諧叔母さんに修正は下世話なところが面白いのかもしれないが。しかし他方で連歌、井原西鶴の庶民レベルの俳諧の流れにも注意すべきだ。
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本文の引用開始
「 傍観者となる
フェラーズや他の西洋分析者をあれほど幻惑した天皇崇拝は、そのほとんどが、
>日本の云い方で言う建前でしかなかった課のように思われた。ひとたび敗戦が現実のモノとなり、軍事国家が崩壊すると、天皇制と国体に関する限り、
>普通の日本人の本音は、穏やかな愛着か我慢、あるいは無関心にさえ近いものであることが明らかになった。
>このような天皇制への距離感は、戦時中や終戦直後に内務省が作成した極秘報告書にも表れていた。降伏に先立つ時期の警察の報告書は戦況が悪化するにつれて、不敬な事件が次第に増えてくることに明らかに懸念を募らせていた。
~~これらはそれ自体として保守派のエリートたちのよっては、歴史はもはや自分たちの側にはないのだと感じさせる不吉な予兆でもあった。
W参考資料。
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「日本人は、封建的な将軍制度と武家社会を19世紀半ばまで7世紀続けたが、あたかもすり切れた衣服のようにそれを脱ぎ捨てた。
彼らは、裕仁の祖父である明治天皇に始まる近代的な天皇支配を、1868年以来1世紀に満たない期間であったが経験した。
日本の歴史上、いかなる体制もいかなる指導者も、御人のような後輩の時期を収めたものは存在しない。裕仁以外の誰も、外国の占領軍に門戸を開けることはなかった。
>こうしたことを考えると(保守派のエリート)は安心できなくなっていくのである。
W。上から目線で、下を見下ろして下々のアナーキー状態(活力の源泉でもある)に不安を覚えるのは日本支配層の歴史的特徴である。
W参考資料。
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「現場レベルのアメリカ人分析者。
『天皇制については連合国は天皇を退位させた場合の日本人への影響を不当に恐れすぎている、というのが大方の見方である。
>とりわけ中産階級に関する限り、それほどの影響はない。
>せいぜいのところ農村地帯でデモが起こる程度で、それもすぐ治まるであろう。>国民の関心は、天皇の運命よりも自分たちの食料や住居の問題に向けられている。」
「天皇の人間宣言の3日前に、この部隊は『天皇が在位し続けるかどうかは多くの日本国民にとってほとんどどうでもよい問題になっている』と報告している。
人間になる
「天皇の戦争責任を免除することは、1946年6月まで待たなくてはならなくなったが、それよりもかなり前に、
@天皇は自ら軍服をむぎ棄て、西洋式のスーツを着込み、日本のほとんどの地域を回る巡行を始めていた。
@宮中でも天皇退位への言及はなされていたがすぐ抑えられた。
~この宣言のアイデアは天皇側近やSCAP(Supreme Commander of the Allied Powers; SCAP、スキャップ~連合国軍最高司令官総司令部 )の高官から出てきたと予想されるかもしれないが、実は故国を離れたイギリス人の芸術愛好家とアメリカ人中堅将校が提案したものである。
>さらに日本語で伝えられたものは、西洋人が甘い考えで期待したような、全面的な新悪の否定とはとても言えない内容のモノであった。
@難解謎めいた言葉遣いをすることで、天皇裕仁は巧みに天から途中まで下りてきただけであった。
草案作りの過程に天皇が自ら関与したことで、「人間宣言」は「民主主義」を先導するのはあたかも天皇であると宣言するものにもなった。
@「民主主義」の源泉は勝者の改革でも、民衆の下からの積極的なイニシアチブでもなく、裕仁の祖父である明治天皇が治世の初めに出した五箇条の誓文に溯ると宣言していたからである。
~そのようなイデオロギーの中には、天皇が「家系、血統あるいは特殊な起源」ゆえに他国の指導者よりもすぐれており、日本国民ももまた他国民よりも優れているとする進行も含まれていた。GHQのによるこの神道司令は超国家主義的な天皇イデオロギーの核心部分を鋭くひはんしたものであった。
~当然のことながら宮中は、それがもたらす影響に細心の注意を払っていた。
>12月22日(W1945年)数人の側近と一人の日本人学者の説明に耳を傾けてた。
>スキャップの司令は、顕語(W明快な用語)をもって幽事を扱わんとするもので
「ハサミで煙を切る」ようなもの(いくらやられてもだいじょうぶ)だというのであった。>この説明を手伝って、天皇は神格問題をごまかした声明を出しておけば外国向けには都合がいいと考えるようになった。
@ブライスの草案は、学習院の知人によって平易な日本語に翻訳された。コレが天皇の人間宣言について日本側のたたき台になったものである。
学習院の院長や天皇自身といった10人ほどの人々しかこの件には関与しなかった。
超国家主義者の激しい抵抗を危惧して、彼らは徹底した秘密主義を守り通した。
~当時の外務大臣吉田茂が閣僚用の男子トイレで、作成中の草案の写しをこっそりと受け取ったのだ。1月1日に発表されたものはプライス草案を極めて日本的な表現に仕立て上げたものであった。ヘンダーソンとプライス提案の核心部分は残されていたものの、艶な表現によって巧みに変形されてよくわからないものになっていた。
ハサミで煙を切る
冒頭に誓文がつけ食わられたことによって「人間宣言」は埋もれてしまった。当初プライス案にあった天皇の神格化について明確に言及した部分と
天皇及び日本人が「神の子孫」であるとする考えを明確に否定した部分を削除してしまったのである。
~~
元旦の宣言に対する反応は極めて肯定的なものだった。
『ニューヨークタイムズ』はすせつで、てんのうひろひとはこの書によって『自ら日本の歴史上偉大な改革者の一人になった』と論じた。まっかーさおも同じくらい大げさだった。
^一言で言えば最高司令官は裕仁を民主化の指導者と位置づけ「将来にわたっても」そうあり続けるであろうと告げたのである。
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参考資料
五箇条の御誓文の内容・現代語訳
引用
「1868年3月,明治政府が示した新政府の基本方針
由利公正 (きみまさ) が原案を起草し,福岡孝弟 (たかちか) が修正し,木戸孝允が加筆修正した。新政府は江戸城総攻撃の前日,明治天皇が天地の神々に誓うという形式で発布した。内には公議輿論の尊重の名のもとに公家・諸侯・藩士・豪農・豪商の結集をはかり,外には開国和親の方針により諸列強の支持を得ようとした配慮がこの文面に示されている。公議輿論とは列侯会議を意味したもので,立憲思想とは本質的に異なる。翌日に出された五榜の掲示と対照して政府の意図を考える必要がある。」
由利公正 (きみまさ)
明治の政治家,財政家。旧名は三岡八郎。越前福井藩士で横井小楠の教えをうけ,橋本左内らと国事に奔走。藩主松平慶永に重用され,財政整理に当たった。維新政府初期の財政を担当,建議して太政官札を発行。五ヵ条の誓文作成に参画。民撰議院設立建白にも関係。のち元老院議官,貴族院議員。
勝海舟
「はじめて会った時から、途方もない聡明な人だと心中大いに敬服して、しばしば人を以ってその説を聞かしたが、その答えには常に『今日はこう思うけれども、明日になったら違うかもしれない』と申し添えてあった。そこでおれはいよいよ彼の人物に感心したよ」
「小楠はとても尋常の物尺では分らない人物で、且つ一向物に擬態せぬ人だった。それ故に一個の定見と云うものはなかったけれど、機に臨み変に応じて物事を処置するだけの余裕があった。こうして何にでも失敗した者が来て、善後策を尋ねると、其の失敗を利用して、之を都合のよい方に遷らせるのが常であった」
「横井という人は、一見何の異なる所なく、服装なども黒縮緬の袷羽織に平袴で、見たところは大名の御留守役とでもいう風で、人物の円満で、強いて人と争う様な野暮ではなかった。佐久間(象山)などとはまるで反対であった」