第11章 責任を回避する~天皇制民主主義(3)
退位に直面する
引用
「1945年11月26日。元海軍大将で総理大臣を務め、天皇の腹心の部下でもあった
米内光政 - Wikipedia←(W注釈①)戦犯に指名されなかった背景。~~が天皇退位をどう考えているかマッカーサーに尋ねたとき、そんな必要ないと最高司令官はこたえた。
~フェラーズは~米内に、天皇は占領軍当局にとって『最善の協力者』であり、占領が続く限り天皇制も存続するだろう』と語りソ連が進める『全世界共産化』を阻止するためにはこの方針が重要であること、そして非アメリカ的な思想がアメリカ合衆国の上層部にも強まり天皇を戦犯として逮捕するように求める声が依然として力をもっているともいった。←W。自分たちの都合を押し付けるためにも、対日強硬派のアメリカの声、政治パワーが存在することを相手に印象付けると言い分が通り易くなる。対外交渉するときに野党の力はある種のカードになる。日本政府は歴史的にこういう交渉術に長けていない。
引用
フェラーズは次のように言った。
「天皇は何ら罪のないことを日本人側から立証してくれることが、最も好都合である。
わたしは近々開始される裁判がそのための恰好の機会を提供すると考えている。
>特に東条に次のことを言わせてもらいたい。
『開戦前の御前会議において、たとえ陛下が対米戦争に反対せられても、自分は強引に戦争まで持っていく腹を決めていた』と。←W。東京裁判のシナリオも手書きしてくれたのか。
>東条に率いられたA級戦犯←(W注釈)
被告は君主を守るためではなく正義の法廷において、文字通り死ぬことを求められたのである。米内はこのメッセージを伝えることを喜んで同意した。
~
@「1947年12月31日、~東条は、天皇の無実についてあらかじめ合意された路線から一一瞬逸脱して、天皇の権威の絶対性について言及したのである。
@「アメリカ主導の「検察当局」は直ちにこの証言を撤回するよう、秘密裏に指導した。
W。日本国内の47年(昭和22年)二・一ゼネスト - Wikipedia
中国大陸、朝鮮半島を巡っての東西対立は緊張を増し日本列島を米軍(西側陣営)の兵站基地として打ち固める必要に迫られ天皇の名による統治力は不可欠だった。
1946年大邱10月事件 - Wikipedia
1948年済州島四・三事件 - Wikipedia
図下、済州島
「10月19日、済州島で起きた済州島四・三事件鎮圧のため出動命令が下った全羅南道麗水郡駐屯の国防警備隊第14連隊で、隊内の南労党員が反乱を扇動、これに隊員が呼応し部隊ぐるみの反乱となった。」
「複雑な地形の智異山に逃げ込んだ反乱軍は山中に潜伏し、ゲリラ闘争を展開。正規軍は度々掃討を行ったが頑強な抵抗に遭い、完全な終結を見たのは10年後の1957年であった。」
>「大々的な粛清を実施、左翼や南労党員、出身者など約4700名あまりが韓国軍から排除された。これは当時の韓国軍全将兵の一割に近く、後に韓国政府の要人となる朴正煕や李周一もこのとき逮捕され無期懲役を宣告されている。」
>「事件後、済州島と同様、地域全体に国家反逆のレッテルを貼られた住民は長い沈黙を強いられることとなった。事件の全容が公にされたのは民主化宣言後の1990年代に入ってからである。」
1947年台湾二・二八事件 - Wikipedia
1947年6月6月 人民解放軍(中国共産党紅軍は47年に人民解放軍に改称)、全面反攻の開始。
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「GHQは主君を守ろうとするする人々には常に寛容であったのに対してW。~<米内光政 - Wikipedia>がその典型。~天皇について元高官に本気で尋問することはタブーだった。
>宮中で最も真相を知っていた近衛文麿 - Wikipedia
が、天皇の戦争責任について批判的な発言を行った際、アメリカ側は恐怖に駆られた。
W。近衛文麿の評判が悪いようである。政治や軍事に向かない性向のモノが深入りすると、最後は四方八方敵だらけになる典型。スタイリストでナイーブないわゆるよい人だったのではなかろうか。
「天皇のことを主たる『戦争犯罪人』?とまで呼ぶ」のが果たして卑劣漢なのだろうか。
事実を指摘したまで、ともいえる。裕仁天皇も近衛文麿も同類項にくくれる人間像にみえるが、近衛文麿の方がはるかに魅力的な人間に思える。16歳で即位し激動の昭和を全うした裕仁天皇は論評に値しない御人に思える。
当時、ブームに乗って左翼がかったひと(社会民主主義者)がファシスト方面に政治野心を燃やすのはムッソリーニを持ち出すまでもなく(日本のその時代の社会民主主義者も)よくある傾向である。
~
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「>A級戦犯への裁判が正式に始まるときが近づくにつれ、天皇は自らもいずれは尋問され、戦時中の政策決定過程について自分自身の説明を求められると考えたようだ。
その動機はともあれ天皇は側近たちに合計8時間もの独白を行った。
W。天皇自らの上申書の類である!占領当局は最初から天皇政治利用ありきで、尋問をする予定はなかったのでそういった類のものは受け取らないが、臆病な天皇は尋問を恐れ告白書をつくった。宮廷内の密通者が「上申書」をさしだした。
暴力を背景とする政治圧迫が身に差し迫ってくると、身の潔白を証明するために権力側に上申書を認める。天皇も普通の政治犯もやることは同じである。
白馬にまたがる全軍統帥者「転向」の結節点であった。
引用
>「この回想は、天皇個人の戦争責任を決して認めてはいなかった。
W.であれば周囲のモノを戦争主導者にしなければならない。
引用
「それどころか、天皇はこの機会を利用して、大災厄をもたらした政策の責任を臣下に押し付けたのである。
W。もともと天皇なる存在は臣下(臣民)ヒエラルキーの頂点で個人が責任を取る必要のない存在であり続けた。天皇の存在こそが最高最大の無責任である。
引用
「>しかし同時に、この前例のない独白によって、天皇が最高レベルの人物や手続き、具体的な政策決定について、実に詳しく知っていることが明らかになってしまった。
W。必死だったのだ。圧迫の下、強迫観念が募ると正常に頭が回らなくなり、つい弁明したくなる。もっと圧迫されると懺悔するがその恐れは全くなかった。
他者の存在は自分のためにある、という甘えなのか。
引用
「>勝者が誰も知らない内部情報を天皇から探り出したいと考えたとしても不思議はないように思える。
>この独白が漏れたとき、首席検察官のジョセフキーナンは、
>多国籍からなるIPSの職員に対して、天皇には触れてはならない、もし同意できないなら直ちに帰国せよと司令していた。
@フェラーズも対敵諜報担当のチャールズウィロビーも宮中の情報筋から提供された天皇の告白に関わる資料は葬り去った。
W.しかし天皇情報は密室政治の機密情報を側近に語ったもので、被告人たちの尋問内容とすり合わせることができる貴重情報として東京裁判の各被告の人定仕分けに利用されただろう。
引用
「‘天皇を免責しようとするこの組織的な活動は、どんどん範囲を広げていった。
>裕仁はあらゆる戦犯になるかもしれないあらゆる公的行為に対して、無実であるとされただけではない。
>戦争の道義的責任さえも負わない、ほとんど聖人のような人物に仕立て上げられてしまった。
W。キリスト教文化圏の発想では、敗戦後の裕仁のような立場に立たされると、聖人扱いになるが日本的感覚ではその辺はファジーどうでもいい詮索しない、存在感だけの人物像でよい。最盛期の天皇制は実体化したムラ社会の集団的同調圧力と儀式儀礼によって形成されており、個々人の心と相対する天皇ではなかった。
引用
「ソープ准将は自らの活動について感慨を込めて振り返っている。
『天皇の退位は混乱以外の何物ももたらさないからだ。
@宗教もなく(w。普遍的理念持たず)、政府もない、天皇だけが統制の象徴だったのである。もちろん天皇は悪に手を染めた。彼は無邪気な子供ではない。
@しかし天皇はわれわれにとって大変役に立つ存在だった。コレが私が天皇を支えるよう、その老人(マッカーサー)に進めた理由だ。』
国務省の東京駐在代表であったジョージアチソンは、1946年初めトルーマン大統領あての長文の書簡で率直に語っている。
@『日本が本当に民主的になるためには、天皇制は廃止されるべきである』と。にもかかわらずアチソンもまた、天皇制が維持され、裕仁が訴追を免れるならば社会的混乱を回避でき、民主化も上手く機能するだろうと考えていたのである。
アチソンは天皇の退位は将来において望ましい選択肢ではあるが、憲法の改正が実現するまでは、延期することが最良の策であるとあえて厳命した。
W。アメリカ当局は日本に現地の支配層に間接統治させ政治軍事の中をはしっかりと握って自らの世界戦略に都合の良いように誘導する(衛星国化)新植民地主義的占領政策を適応したが、日本をはじめ東アジア諸国のように成功を収めた例はない。台湾、韓国は民族分断国家という特殊事情なのでさておき、米国新植民主義政策が日本ほど成功した国は以降なかった。
ドイツイタリアはEUの枠組みでアメリカと隔てられたが、東アジアの日本は地域の繋がりを分断し、アメリカとの2国間関係に閉じ込めることができている。
東アジア諸国の台頭による以前のバランスの崩れもあって、このようなアメリカの地域分断政策に乗って、蠢く政治風土がめだってきた。
引用
「~フェラーズは次のように言明した。
マッカーサーの占領政策の成功は、天皇の威信と個人的リーダーシップを最大限利用することで可能のなったものだから」天皇の退位は、「マッカーサーにとって大きな打撃となるでしょう」
W。明治維新以降、政府支配層が喧伝してきた万世一系の天皇家のイメージ、イデオロギーを激化する内外情勢を見据えた占領統治(間接であるからこそ)の中核に位置付けた時点から、論理的必然としても裕仁退位は予め選択肢から排除されている。
「アチソンのいう「@『日本が本当に民主的になるためには、天皇制は廃止されるべきである』は日本では絶対に実行されることないアメリカ的理念である。
アメリカ南北戦争は当地では市民戦争と呼ばれている。日本では市民の手でなされる市民革命はアメリカ占領軍による民主化=天皇制民主主義として実現された。そうした中途半端、奇形民主主義の外部要因は東アジアの分断国家の冷戦状態継続とアメリカ軍事力をハブとする一国間軍事政治協定である。
一方で、東アジアの分断国家は日本よりも君主制の柵がない分だけ民主政が民主政として全社会化しやすく日本よりも市民革命が深化し急速な経済発展を後押しした。
「天皇制が維持され、裕仁が訴追を免れるならば社会的混乱を回避」できる程度の「民主化」とは、日本国憲法の条文に真っ先に羅列されている天皇条項であり、それとのバランスをとるかのような9条以下の国民主権条項の混在する日本国憲法に表現されている。日本の民主政は天皇制民主主義の大枠の中にある。
同時に、当時、東西対立が熱くなる世界情勢、特に東アジア情勢が到来しているのだから、天皇制民主主義を日米支配層が決定した時点から激化する数年後の逆コースも予定調和の中にあった。