第11章 責任を回避する~天皇制民主主義(3)~
巡幸、そして現人(あらひと)
引用
「保守派エリートはGHQと共同して、天皇を「人間」へと変身させるため大々的な宣伝活動に乗り出した。
彼らは天皇は全国を巡って、文字通り臣民と同じレベルに降り立ち、貧しく、空腹を抱え、悲惨な境遇にある人々と親しく交わるべきだと考えていた。
天皇の旅行には、行幸すなわち「威厳ある天皇の訪問」のもつオーラはさけられないものだったが、~~~天皇の訪問予定地は、ドコモ清掃されてきれいになっていた。天皇は臣民の生活状況を視察していると思い込んでいたが、彼が連れていかれたのは、当然のことながらピカピカに磨き上げられた清潔な場所ばかりであった。天皇はチリ一つない宿に泊まった。通り道にはござが引かれ、天皇が視察する田んぼのわきには台座が設けられた。
天皇が現実を見ないで済むように、膨大な費用が費やされ、その額は地方財政を破綻させるほどにもなった。巡幸が常態化すると、地方の政治家は自分の威信を高めるために、天皇の巡幸をしきりにせがむようになった。~~
この歴訪は、大衆とのコミュニケーションを重んじる天皇制の始まりを示すものであり、これ以降天皇はいわゆる著名人へと変身するのである。
現人神として有名な白馬にまたがって勲章を飾り立てた大元帥としてしか知ることのなかった君主が、今や突如として人々の傍らに立ち、今まで決して話しかけたことのない人々と必死になって会話しようと試みフェルトのソフト帽に洋服とネクタイという新しい装いで、ぎこちなくよろよろと歩いているのである。
それは天皇の新しいイメージを作り上げるうえで大いに役立った。
この時期ほど君臣一如が生き生きと機能して見えたことはなかった。むろんそれが巡幸の目的だった。→くさびを打ち込み、天皇と国民を融合させ、人々の天皇崇拝を世俗化することが。
同時に、裕仁はこのような仕事を不平も言わず淡々と熟していったために、実際に国民の苦しみと犠牲のシンボルになるという、まったく予期しないことが起こった。
国民は天皇を見て可哀そうに思うことがよくあったのである。
朝日新聞は~記事の中でこの君主を「優しい紳士」と表現しもっと効果的な広報活動が必要であると書いた。
>2日後朝日は、イギリス王室が国民との間に効果的な交流を持っているとの記事を掲載した。
レジナルドプライスは間もなく、天応が自らの人間性を宣言するときだけでなく、それを明らかにする活動においても主要な仲介者となった。
この祖国を離れたイギリス人が認めた覚書が翻訳されて、天皇のもとに届けられた。
天皇は自分のこれからの行動についてマッカーサーに積極的な提案をする機は熟していると書いていた。
「天皇は精神的に刻印を統率されるるべきで、政治的に支配されるるべきでない」
「天皇は詔勅(しょうちょく)W天皇が公に意思を表示する文書。~によりてご自身のご意見を発表せらるるにとどまらず、親しく国民に接せられんその後行動にも表裏なき一貫したる誠をもって、国民の誇りと愛国心とを鼓舞されれるべき」なのである。
>より具体的には、天皇は自ら全国を巡幸し、あるいは炭鉱を、あるいは農村を訪ね、国民の語るところに耳を傾け、国民と語り、彼らにいろいろな質問をするべきなのである。
堅苦しい役人にとって君主が庶民と~~
しかし天皇はブライスの提案を積極的に受け入れ、マッカーサーは巡幸を背後から熱烈に支持した。
@ここでも再び、明治時代に前例があった。
@1872年から1885年にかけて、明治天皇は全国各地を6回も行幸し、建設途上にある天皇中心の近代国家に民衆の支持を動員しようとした。
W参考資料①
自由民権運動~W。藩閥政治(天皇制絶対主義)に対する闘争~は三つの段階に分けることができる。
第一段階は、1874年(明治7年)の民選議員の建白書提出から1877年(明治10年)の西南戦争頃まで。
第二段階は、西南戦争以後、1884・1885年(明治17・8年)頃までが、この運動の最盛期である。
W資料②
引用 コトバンク
「1876年の神風連の乱,萩の乱・秋月の乱を鎮圧した政府は,鹿児島の情勢を警戒し,1877年2月鹿児島の火薬局・造船所の爆薬・兵器などを大阪に移転しようとした。これに対して士族の不満は爆発し,西郷を擁した私学校生徒と九州各地の士族約2万5000が熊本鎮台を攻撃した。鎮台兵は司令長官谷干城(たにたてき)を中心に50日間籠城(ろうじょう)。政府支援軍の田原坂(たばるざか)戦勝を経て9月24日の鹿児島城山総攻撃により西郷以下桐野利秋,村田新八らは戦死または自刃した。保守的不平士族の最大かつ最後の反政府反乱であった。」
W資料③
↓ ↓
引用
「三島由紀夫の『奔馬』( 「豊饒の海」 第4巻)は、昭和初期が舞台ですが、神風連に傾倒する勳という少年が出てきます。 彼は “純粋” であろうとし、その規範を神風連に見出すのでした。」
「『奔馬』 の要点→純粋といふ観念は勳から出て、ほかの二人の少年の頭にも心にもしみ込んでゐた。 勳はスローガンを拵へた。「神風連の純粋に學べ」 といふ仲間うちのスローガンを。
純粋とは、花のやうな観念、薄荷をよく利かした含嗽薬の味のやうな観念、やさしい母の胸にすがりつくやうな観念を、ただちに、血の観念、不正を薙ぎ倒す刀の観念、袈裟がけに斬り下げると同時に飛び散る血しぶきの観念、あるひは切腹の観念に結びつけるものだつた。 「花と散る」 といふときに、血みどろの屍體はたちまち匂ひやかな櫻の花に化した。 純粋とは、正反對の観念のほしいままな轉換だつた。 だから、純粋は詩なのである(「奔馬」 より)
W資料④
司馬遼太郎の描いた士族の乱2 神風連の乱 | ヒロ・マツシタの迷人スペース/ブログ
引用
「■士族の乱は一般には鉄砲や大砲を使用している。神風連の乱は刀で戦った?
■司馬は神風連の乱はそれほど評価していないようだ。一方三島由紀夫はかなり評価している。
■新政府の誰かを殺すのが目的で、その後どうするかが見えない。
■神風連の乱はその後「秋月の乱」「萩の乱」を誘発し⇒「西南戦争」へ
■アメリカ人は銃に対する思いは強い、日本人は刀に対する思いは強い。廃刀令は士族の不満を爆発させる発端となったようだ。
W資料⑤
明治期の文明理念の諸相とその意義 -
https://www.fujixerox.co.jp/company/social/next/foundation/pdf/684.pdf
~西郷隆盛、勝海舟、中江兆民の文明観を中心に~W。左記と並行し福沢諭吉の文明開化論を取り上げている中国人留学生の博士論文。
>コピー貼り付け出来ないのが残念に思うほど、Wの問題意識に近い論考である。
西洋VS東アジア(日本朝鮮半島中国)の文明と歴史を対比する観点、思考は福沢諭吉的文明開化論の功利主義的政治技術の範疇で収まらなかった。しかも西洋受容建国の福沢の観点の中にはアジア蔑視思想があったから、
>帝国主義の市場再分割戦が深化すると
>明治藩閥天皇絶対主義政府時代に原型が現れた日本思想の分裂した各源流が社会政治の表面に急激に浮上し、
>ついには国体主義に純化し
>最終段階には国体明徴運動を通じて政治軍事の中枢を握るまで至ったのである(軍国「ファシスト」)。
西郷の唱えた思想は士族人口過剰の薩摩、長州土佐などの農業せざる得ない武士=郷士の素朴な「世界観?=自然観、人間観」を根っこに持つ農本主義であり、この観点からすれば、明治藩閥天皇制絶対主義政府の江戸期と変わらぬ租税率と勃興する産業商業資本の農村と農業における貧窮的剰余価値の搾取と引き換えに西洋生産手段の導入を急ぎ、他方の鹿鳴館に代表される表層の西洋文明化は耐えがたい憤激を呼び起こすものだった。
論文の一部を引用する
「福沢は~利己心による富の蓄積を国の富強に繋げて解釈している(市中の富の蓄積⇔国債、政府財政拡大⇔国の富強)。
日本の近代国家建設に殖産が不可欠である限り、利己心を発達させることが何よりも寛容ではないか。
福沢は西郷と同様に利己心を金銭蓄積の発露として認識しているものの、殖産を駆り立てる金銭欲が国家の資本蓄積に役立つならば金銭欲は認められるべきというところが西郷との差異を示している。
その一方で、日本の資本蓄積の立ち遅れは、
@鎖国による植民地略奪と交易から締め出されていたことと大きく関係している。
ノーマンによれば
@その立ち遅れを埋めるために明治政府は産業保護政策をとった結果、
*発達した資本主義が多くの商品を生産するようになってからも
@地租改正の金納化や不在地主の増加によって購買力が低下し
@農村における過剰労働力と貧困を生んだ。
@そしてその過剰な商品の海外市場を開発する緊急性が生れたのである。
>資本の蓄積は過剰な商品の出現と海外への市場拡張に基づいて初めて成立するものである。
*福沢の資本蓄積至上の態度は後日の日本の植民地獲得の肯定へと繋がっていく
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「二人の君主が人々の所に出かけていこうとした行為には、驚くほどの似通って点があった。
どちらの場合も、国家が混乱して不安定になり、急進的なイデオロギーが鼓舞され天皇制への支持が危機に瀕している状況下で行われたのである。
第12章 GHQが新しい国民検証を起草する。~憲法的民主主義(1)
引用
「日本克服のころ米軍に向け作成された「日本案内」にははっきりとこう書かれていた。
初期の明治政府は旧薩摩長州藩出身の旧微視階級に支配されており、彼らは憲法のモデルを西欧に求めた結果、とんでもない雑種を生み出したと記されていた。
『明治憲法はぽロシアの専制政治を父に、イギリス議会を母に持ち、薩摩と聴衆を助産婦に産み落とされた、両性具有の良きものである。』
両性具有の生き物の性別を変更することは、すなわち、その基礎をなす権威主義的なドイツ法的モデル~日本の法律家のほとんどはその教育を受けていた~を捨て去り代わりに英米のほう概念に根差した憲章に置き換えることを意味した。
次回に続く