反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

ビートルズ、1963年、ロイヤルバラエティーショー。ジョンレノン「ツィスト アンド シャウト」紹介前の語り草になっているパフォーマンスにまつわる話。

 W。ビートルズライブをとっかかりに日本の天皇制と「民主主義」を考えてみるつもりで記事を作成していたが、横道にそれてこんなものが出来上がった。
日本は世界に稀有な天皇制「民主主義制度」の国天皇と国民の関係は今のなお、大日本帝国憲法時代の<帝国>(複数他民族支配)の天皇(実質皇帝である)と臣民の側面を継承している。その具体的証明がこの記事で少しはできていると考える。
どうしてそういうことになるのか、Kim hang 「帝国の閾(しきい)」の丸山真男論(丸山の明治開国における福沢諭吉論の国体)を確認し、真のナショナリズム(個々人が国民に主体形成した国民国家)論を検証する、と云うのは、メインテーマであった。
現在の我々が時代の変転を抜きに明治維新期の状況の福沢の言説を都合よく取り上げるのは、どのような立場であろうが、大間違いの元である。
アベ首相にその言説があるそうだが、時代錯誤も良いところである。高橋是清高評価も歴史的背景その結果もたらされた状況を見ていない。もっともそんなことはお構いなしと云うのが彼らの支配層の思想である。
 
同時に、丸山の福沢諭吉評価は、明治期と云う内外状況の限定をして、その実践的な側面を論評したものであり、そのリアリズムを己のナショナリズム=個々人の国民への主体形成に消化しようとした。それを否定する場合は、それなりの政治思想的立場(結局、リアルな政治潮流の問題に行き着く)が必要となる。
~(省略)
これら批判を云いかえると、日本原住民の立場を東アジアの歴史の立場にすり替えて日本政治と歴史を批判する感情である。敢えて言えば、沖縄の戦いに対しても同じ位相がある。
 
 日本原住民の取り巻く政治は、以前も今も、世界に稀有な天皇制「民主主義制度」であった。敢えて言えば、日本国民は実際の政治形態は天皇制民主制度であるにすぎないのに、欧米的民主主義が行われているつもりでいた。中国脅威もその種の勘違いが一つのアイテムである。
しかし天皇制「民主主義制度」を、強く意識するか、意識しないでしないで済ませることができたか否かの違いは大きい。~省略~
 自民党憲法草案はこれまで、表ざたになろうがなるまいが戦後民主主義(片面は天皇制民主主義制度である)を超える認識と状況の必然化であるのは、間違いない。
アベが明治維新期状況に対する福沢の身の処し方のキーワードである国体をキーワードにひかれるのは、丸山真男の国民と国民国家意識さえ無視できる政治思想を物語っている。
 しかしそれは戦前回帰ではない。天皇制「民主主義制度」の形成である。
 
 
 この前提に立てば、日本原住民の立場を意識した、東アジアに連携するが、その歴史に寄りかかることのない、丸山真男の提起した状況との対決を通じた個々の主体的形成を軸にした国民となる立場、戦後民主主義(片面は天皇制民主主義制度である)を踏まえて、それを発展させる認識と政治思想が求められる。
 
 
 戦後レジュームの転換とは、天皇制民主主義制度の一面である戦後民主主義体制を削除する新天皇制「民主主義制度」形成の作業であり、
>コレに対して、論理的政治思想として、モチベーションとして、実際的に有効な戦闘力として、天皇制民主主義制度と有機的に一体的な歴史経過を持つ戦後民主主義的側面を対置するだけで、済ませることができるだろうか。
 
>多くの国民の体感してきたのは、天皇制民主主義制度であって、それがアベ等によって新天皇制「民主主義制度」に転換されようとしている真相が国家グローバル資本複合体の国体政治への転換で、多くの国民を犠牲に供すものだとはまだ体感できていない。
>今進行している事態は、TPPや新自由主義の市場原理政策の政治軍事経済トータルにわたる政治路線が一挙に一体的に推進されているのだから自衛隊がどうのこうの戦争問題に切り縮められるものでは決してない。
><今だけ自分だけカネだけ>の若者の風潮は、こういった時代に遭遇した若者の自己防衛であり、この方向に進む部分の多くは反転する可能性を秘めている。転ぶ先が注目されるが。
そう考えると、上記の実情を訴えることが重要となってくる。
*先の東京都知事選挙の細川、宇都宮陣営の分裂選挙で、宇都宮陣営の得票数が上回ったのは象徴的だった。両陣営合わせても、第三陣営を合わせると、及ばなかった。一緒になる以前に、こうした領域の問題を今後の反政府政治の俎上に挙げることを要請している。
 
さらに、1960年代後半から70年代以降の大衆運動の政治思想が、それ以前と違って獲得した立場は、東アジアの視座で日本を見ると云う大局観であるが、そこに戦後民主主義(片面は天皇制民主主義制度である)を踏まえて、それを発展させる認識と政治思想を刷り込むことが必要不可欠であった。
 
Kim hang「帝国の閾」植民地人民であったという状況に遭遇した生身の肉体の存在に<帝国>『民主主義制度』は適応されなかった、帝国日本との間には閾があったとしており、丸山の国民への主体形成も、<帝国>『民主主義制度』下の状況と在るべき国家理性の均衡論だとしている。
 そうであれば、戦前を含めた過去と現在において、生身の存在を持って、日本において生き戦ってきたのは、いかなる政治存在であるのかKim hangは間接的に語っている、とおもう。それは彼の役割ではなく我々自身の問題である。
 

les - Twist and Shout [live
] https://www.youtube.com/watch?v=iS0wuN_6wyw
Twist and Shout amazingly live perfomed in 11.04.1963 during The Royal Variety Show at Prince of Wales Theatre, London.
  
 
  (1)ビートル版 Twist and Shout の原曲には二つの楽曲がある。
A)レアバージョン。全く別物。かなり凝った曲作り。フィルスペクター製作。.作曲はバートバーンズ(ラッセル)。
Twist and Shout - Top Notes 1961 (Rare original version)
 
フィルスペクターは元々、 3人グループでsmash hit of 1958 "To Know Him Is To Love Him"(NO1ヒット). 直後、音楽プロデューサーに転向。1963年のザ・ロネッツの『ビー・マイ・ベイビー』(この曲はオーバーダビングで有名。生唄では再現できないので動画は全部口パク!)のヒットで有名になったが、ザ、ノーツのレアバージョンはその間の、プロデュース失敗作だったようである。かなり凝った作りの曲。三つぐらいの曲調が一曲に詰め込まれた分かり難い曲になっている。
コレに対して作曲者のバートバーンズが不満を抱きit was produced by Phil Spector. The songwriter Bert Berns absolutely hated Spector's production because it "killed the feel" of his song
自分のプロデュース盤を出した。So Bert decided to produce this version with The Isley Brothers and it became a huge hit.
 
B)ビートルズバージョンのカバーした原曲はコレである。
黒人3人のボーカルグループ。調べてみなければ確かなことは言えないが、このバージョンでもそこそこしか売れなかったと思う。この楽曲は本質的にロックバンド向きで、間奏になるとラッパが出てきてなんだか間抜けな感じがする。ビートルのアレンジ、ハーモニー、ジョンレノンの地の底から吠えたてるような迫力あるボーカルの凄さを改めて確認する。
BIsley Brothers - Twist and Shout
 
  

(2)ロイヤルバラエティーショー1963年のジョンレノンのTwist and Shout前のパフォーマンスについて
W。ジョンレノンのTwist and Shout の始まる前のこのパフォーマンスは、昔何度か、活字で読んで、知っていた。評論やエッセイだったと思う。一部では語り草になっていたのではないか。もっとも知らない人や関心のない人が多い。Wはビートルズマニアではないので、数年前に偶々動画で「現物」を知った。演奏そのものは、Twist and Shout の客席と一体になったノリがなく、動画の中ではベストとは言えないが、ジョンと王室の掛け合いに興味がわく。
 
A)すべてのコメント (2,479) を辿って行く途中で、その時のジョンの微妙な表情の動きは、なるほど、そうだったのか、と納得できた。
「この時のジョンのニヤッと笑う悪戯小僧の様な顔」(引用。」No.1106 / Royal Variety Performance 1963)には、背景があった。
 
TomGamerz97 3 週間前
The reason he smiled is because few days before he said to Brian Epstein "for the people in the cheaper seats clap your hands, and the rest of you just rattle your f***ing jewellery... they were expecting him to say it!! haha
ジョンのニヤッと笑う悪戯小僧の様な顔には訳があった。
安い席の人は手拍子を、その他の人(金持ち)は宝石をジャラジャラ鳴らして下さい!」のフレーズは数日前にマネージャーのブライアン、エプスタインに語っており、ジョンとエプスタイン(多分、メンバーも)は、演奏が始まる前に、ジョンがこの辛口ジョークを実際に云うのを期待していた。
つまりこの発言と仕草は、ロイヤルバラエティー出演前、に予め、ジョークとして、浮かんでいたのである。
 
>ジョンの微妙な表情を動きを動画でじっくり観察するとよくわかる。
一連のフレーズはfor the last namber~で始まった
>その前の一瞬、口元をわずかに引き締め、目線を下に向ける微妙な仕草。ここにあらかじめ決めていた辛口ジョークが始めるゾ、というジョンの心の動きが読み取れる。
 
そのあと、「ジョンのニヤッと笑う悪戯小僧の様な顔」が続き、それを受けて王室敢えて王室とした)の右手を軽く挙げた臣民へのロイヤルスマイルの反応が続く。
 
Alan S 6 日前
1963 Royal Variety Performance at the Prince of Wales Theatre and one of the greatest performances in rock history. The Queen Mum realised (that and) had the courtesy to stand up for them.
 
 当日、ジョンのハードルは我々日本国民(皇室臨席の行事の際の列席者の立ちふる舞い。引いて皇室と国民関係)が考えるほど大きくはない。あくまでも辛口ジョークなのである
 
 このシーンへのコメントは驚くほど少ない。つまり、ジョンの辛口ジョークと王室の反応は世界基準では、取り立てて云う程のことはないのである。ヨーロッパの王室と国民の関係は、このイギリスの関係よりももっとフランクだろうし(そのUKさえも変わってきている)世界じゅうのほとんどの国は共和制の国。(議会制民主主義か否かにかかわらず)
 
 この場面をイギリス市民革命の歴史的推移の王と人民との関係に、大ざっぱに例えると、ジョンはイギリス議会。安い席で拍手する人たちは国民、そのほかの宝石ジャラジャラする人は王室、貴族。ポラニー「大転換」によれば、19世紀のイギリス貴族層は台頭する市民層を取り込む術を知っていた、と。
 
 このロイヤルバラエティーショーを今の米国に移し替えると次のようになる。
PAUL McCARTNEY AT KENNEDY CENTER HONORS (Complete) 
クリントン大統領とヒラリー夫人の出席のケネディセンターオーナーズで、ブルーススプリングスティーがボブディランの「ザ、タイム、シズ、オールウェイズ、チェンジング」をディランスタイルのハーモニカギターでうたう動画は、クリントン夫妻の60年代的雰囲気で共感する雰囲気が良く出ていて秀逸なのだが、時間不足で探せなかった。
 
替わりに、
>Obama Sings Sweet Home Chicago With Mick Jagger, Jeff Beck, BB King 
楽曲は好みに合わないので割愛。

(B)そのあと、「ジョンのニヤッと笑う悪戯小僧の様な顔」が続き、それを受けて王室敢えて王室とした)の右手を軽く挙げた臣民へのロイヤルスマイルの反応が続く。
The Queen Mum realised (that and) had the courtesy to stand up for them.について~。
Wのトンデモ勘違い。
引用
「196311月4日、ビートルズは記念すべき大舞台に立ちました。
ロンドンプリンス・オブ・ウェールズ・シアターでのロイヤル・ヴァラエティー・パフォーマンスです。
エリザベス皇太后マーガレット女王(コレ王女の間違い)、スノードン卿が臨席し、ビートルズは出演した19組のうち7番目の出演だったそうです。
演奏曲は
・FROM ME TO YOU
・SHE LOVES YOU
・TILL THERE WAS YOU
・TWIST & SHOUT ..........の4曲です。」
 
W。つまり、右手を軽く挙げた臣民へのロイヤルスマイルをしているのは、今のエリザベス女王の母親のマザーエリザベス当人なのであり、The Queen Mum 父親のジョージ6世急逝によって、1953年6月2日にはウェストミンスター寺院戴冠式を行ったエリザベス2世女王はロイヤルバラエティーショーに出席していなかった。
Wは動画だけを見て、母娘があまりにもよく似ているので、エリザベス女王本人が右手を軽く挙げて、臣民ジョンレノンにロイヤルスマイルをしているのかと勘違いしていた。
家系図 W。本来、長男のエドワード8世が英国王になるはずなのに、、スタンリー・ボールドウィン首相らに退位を迫られ<注>(王位継承権放棄と云う意味)二男のエリザベス2世女王の父が王になった。そして父の急死で二人姉妹の長女のが女王になった。
ジョージ5世
エドワード8世ジョージ6世メアリーヘンリージョージジョン
エリザベス2世マーガレット
<注>引用、ウィキペディア 
「当時は、まだ若くて独身だった王太子エドワードおよび将来的に彼が結婚することにより生まれるであろうと思われた、その子への王位継承が期待されており、彼女の即位を予想する者はいなかった[9]
しかし、1936年1月のジョージ5世の死去を受けて即位したエドワード8世が、イギリスと対立しつつあった枢軸国に親近感があるような態度をとった上に、離婚経験のあるアメリカ人女性のウォリス・シンプソンとの結婚をほのめかしたことを受けて、スタンリー・ボールドウィン首相らに退位を迫られ、同年12月に退位することとなる(この一件は「王冠を賭けた恋」として知られる)[10]。そして、エドワード8世の弟でエリザベスの父であるヨーク公が即位して、ジョージ6世となる。これを受けて、エリザベスは一家とともにバッキンガム宮殿に移住し、Her Royal Highness Princess Elizabeth(エリザベス王女殿下)の称号を与えられた上で、王位の推定相続人となる[11]。この時点でもしもエリザベスに弟が存在したならば、彼が王太子となり王位継承順位においてエリザベスよりも上位に位置付けられることとなり、彼女は推定相続人としての地位を逃していたであろうと考えられる[12]