反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

第2回。シュミット、レーニン民主主義制のぜい肉そぎ落とした骨格むき出し<権力への道><達成すべき国家機構論>と丸山真男の抽象的日本戦後民主主義。

 自分に根付いてきた安直な民主主義観によってシュミット議論の核心を批判してきた。
 
 ファシスト党ナチス党は1920年~30年代経済社会情勢が生み出した時代に刻印された特殊運動形態と権力構造である。
日本の軍国体制は民主主義発展の後進のアジア的な半封建的社会経済状態の刻印を受けた国家行政機構が外的な危機的情勢への対応に置いて、予防反革命的に<なし崩しで強権、軍事支配に転換>したモノである。
 
 前者は階層間の激烈な争闘に置いて、政治危機にある支配層に支持された反革命運動とその政権獲得の勝利によって改変された国家機構である。
 
 後者に階層間の激烈な争闘による支配体制の危機はなく、元々、半封建的軍事的天皇制の国家行政機構が1920年~30年代の世界市場の争闘戦激化に対応して、<なし崩しでより強権的軍事的支配機構に転換>したモノである。
 
 丸山真男の敗戦直後、発表された一連の日本型ファシズム批判は的を射ているが、ドイツ、イタリア型のファシズムが発生した社会経済基盤と日本の軍国体制の経済基盤の両方をキチンと分類区別して、定義付けているとは言い難い。
 
 両者の政治思想の在り方を丸山的近代主義の観点から、比較して、ナチス党に比べて、軍国体制の政治思想的後進性(権力行使者の政治責任回避のための天皇の権威経由の無責任体制)をジャーナリスティックな視点で浮き彫りにしている。
 
 丸山は日独のファシストの相違を次の様に表現する。
 
 ドイツ権力政治の枠外から生まれた、ならず者集団のナチス党はならず者がならず者のまま権力の頂点に達した。
自分流に言い換えると、それだけ労働者人民の闘争力の圧迫が強く、支配層は最後的にナチス党的政治脱出口しか見いだせなかった。
 丸山には、こういうリアルな政治力学の視点がないから、ドイツ政治思想の伝統的論理性の美化の観点からのナチス論になっており、事実上ナチス評価論である。
 
 日本の在野のファシストは権力機構に近づくにつれて、旧来の権力に準拠する。
丸山流に云えば、神輿=天皇を担ぎあげている集団に近づくに従って役人的支配層の所作を理解し、自らの政治的出目に相応しい立場に留まり、直接の担ぎ手の遠巻きとなり、目先の利得、権力、快楽で充足する。
 
 以上は端的に云えば、独伊はファシストが直接、権力機構を掌握したが日本のファシストは旧来の権力機構のなし崩し的軍事的強権的強化の補助要員であったにすぎない、と云える。
 
 5、15事件、2、26事件。その他の日本型ファシストの蠢動と既成権力機構の関係を検証すれば一目瞭然である。
 
 この論法をモット煎じつめると、在野ファシストが目指した既存の日本権力国家機構のそのもが、独伊と比較して十分ファシズム的であった。
 
 なぜなら、日本国家機構は天皇制国体を基礎に置いていたから。
その点に置いて、美濃部達吉天皇機関説や大正リベラリスト天皇国家論(この部分が戦後日本国憲法天皇条項の精神と云ってよい)と天皇国体と国家機構を一体化する論者、及び天皇制家族国家論者は同根である。
 
 だから、国家機構が支配層の人民支配の道具であるとすれば、支配層は日本国内政治の要請として、在野の
ファシストに入れ替える必要は全くなかった。かじ取りの方向を変えればよかった。
 
 丸山は日本型ファシストと日本国家機構の関係を今、私が書いている様なリアルな権力分析として、やらなし、やる必要を認めていない。
 
 私が示しているのはファシストの権力への道、ファシストの国家機構論であり、前回のシュミットの議論の中核も同じ次元を扱っている。
 
 そして、1917年ロシア革命、1918年11月から始まったドイツ人民蜂起、を直接の原因とするワイマール憲法状況の1920年代から、32年のナチス政権獲得までの時代に、シュミットのファシストの権力論は一方の極にあり、他方の極にはレーニン的労働者人民の独裁論が並列していた。
 
 同時代に両極として並列していた政治思想は共に帝国主義の危機の時代における、既成の権力政治の枠外の政治団体のリアルな権力への道を指示し、獲得した権力機構の内容を示している。
 
 資本制民主主義制のぜい肉がそぎ落とされた状況で、国家暴力装置の支配権をめぐる争闘が深化すれば、自ずから、権力闘争の暴力的骨格が剥き出しになり、シュミットやレーニンの政治思想に共通する普遍性がリアルな処方箋となる。
 
彼らの政治思想にぜい肉はない。骨格が剥き出しされている。
両者はそれを美辞麗句や曖昧な表現で隠そうとしない。
タブーなき論理を自信を持って力強く、突きつめていく。
有史以来の人類の政治軍事の倫理と論理に忠実であるともいえる。
政治組織と個人、国家の本質論がそこにあるから、後々まで影響力を持った。
 
 丸山真男の日本型ファシズム論はそういった深淵を回避している。
 
 丸山の民主主義観の神髄は以下の言葉にある。
 
「僕は永久革命と云ういうものは、決して社会主義とか資本主義とか体制の内容について云われるべきじゃないと想います。
もし主義について永久革命と云うモノがあるとすれば、民主主義だけが永久革命の名に値する。
なぜかと云えば、民主主義=つまりは人民支配と云うことは、永遠のパラドックスなんです。
ルソーの云いぐさじゃないけれど、どんな時代になっても支配は多数に対する少数の関係であって、<人民の支配>と云う事はそれ自体逆説的なものだ。
だからこそ、それはプロセスとして、運動としてだけ存在する」
 
 こういう永久革命の論理を内在させなければならない少数の多数支配を本質とする民主主義社会では
「思想史に置いても、政治行動に置いても、一つの原理の下に収れんされうるものだが、それこそは
<現に行動している個人のみ>を<社会の唯一の実在>とし、その行動の中から社会制度をとらえる~」
 
 以上の60年安保闘争における発言は丸山が自らに課した戦後の課題である<日本における近代的思惟の成熟過程>の意味するところらしい。
解り易く云えば、こういう永久革命の諸個人や団体、組織、制度政策がキチンと実体としてビルトインされていてこそ、成熟した高度資本主義としての日本が保持される。
共産党などがよく宣伝していた日本国憲法の精神を職場に地域に学校に、ということか。
 
>が、60年安保闘争を一失業者、歴史学者として戦った色川大吉さんは云う。 (わが60年代より)
 
「政権を倒し安保を破棄しようと願った私たちにとって、この運動は敗北に違いなかった。それを人民への教育的効果があったとか、下からの民主主義の芽生えが確認され、運動は成功した、などと称して合理化した竹内好丸山真男等を私は許せなかった」
 
>色川の丸山らへの反発は60年日米安保改定による在日米軍軍事力の東アジア、アジア地域への拡大の意味するところを鮮明にした岸政権を打倒、安保破棄の戦い、として本来、あるべきモノを岸信介政権の強行採決と戦犯をイメージ的に重ね、独裁をイメージさせて、戦いの主題を独裁か、民主主義かの戦後民主主義の問題にすり替えた事にあった。
 
>その後に続く彼の60年安保改定における岸の米ソ冷戦に乗じた日本独立の契機、評価論を見ても、どうも、跡付け理屈に過ぎないように想われるが、彼の当時の丸山等への直感から来る反発にはリアルな根拠がある。
 
彼には安保阻止国民会議社会党総評?や共産党の、お焼香デモと云われた整然たる国会請願デモへの繰り返しへの反発と、そうしたデモをする労働団体構成員の個々人の生活の高度成長経済発進に伴う非政治化のリアル現実に対する冷めた視線があった。
当時、歴史学者の卵として、社会の底辺にいるとの錯覚さえ生む一失業、未組織者として手弁当で日々のデモに参加していた立場だからこそ、その様な日本経済の曲がり角の組織された労働者の現実生活と政治の関係を見透かしたのだろう。
 
>実際その後、60年安保の隊列の分裂とその後の高度成長経済の本格化は国民政治意識において、丸山らの云う、成熟した高度資本主義に相応しい成熟過程は成立したとはいえまい。
 
>丸山民主主義永久革命必要説、現に行動者している個人のみが唯一の実在論は美しいが、実体を伴った政治思想とは言い難い。
だから、カールシュミットのファシズム思想で援用しなければならなくなる。
 
 安保反対デモの急進化を受けて、マスコミ各社は一斉に、暴力反対を前面に掲げ出した。
 
コレに対して色川さんは云う。
 
全学連の学生に中に<韓国に続けの声が起こったのは当然だった。李承晩ー岸ととらえていたら、猶更であった。この点では、岸首相を倒す為に強行突破を主張した全学連主流派に賛成だった。
特に6、4国鉄スト以降、主権者の多数支持を確認した段階で、ますます実力行使は容認されると判断した。
私は議会制民主主義の多数原理に絶対な価値など認めていなかった」
 
>ここまで言い切らないと丸山真男の民主主義の永久革命や行動するモノが唯一の実在は日本では実質的に機能しない、と想う。
 
 日本だけでなく先進国の民主主義は、ここまで進む事を根底に成立している。
今、日本で大きなデモが起こらない我々側の原因は、丸山真男的民主主義抽象論、神棚祭り上げ、行き過ぎへの過剰な躊躇にあると想う。