反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

敬愛する近藤勝重、毎日新聞責任編集委員の「正しい、と云う言葉が世間に声高に叫ばれる世の中になっているが、100人、人がいたら、100人の正しさがあっていい」と云う言葉について考えてみる。

 タイトルの冒頭、「敬愛する」としたが、リベラリストとして筋が通っていると云う意味で、大橋巨泉さんの言葉に耳を傾けるのと変わらない次元。ネット上に巨泉氏の週刊現代に長く連載されている「遺言」が公開されているが、なかなか面白い。
 
 好きこそものの上手なり。遊びだからこそ、手を抜かず一生懸命やる。
理系出身の管直人元首相は国会答弁で理系の研究生活の神髄にも遊びの本質があると云っていた。
 
 その場合、高度な最先端の研究、芸術文化、スポーツ、社会経済活動を保障する条件は何かと云う問題になる。
 漫然としか解らないが、社会的経済的成熟を基礎としたアソビとか余裕の中から、最高のモノが生まれるのではないか。一見回り道をしている様だが、もはや現代の高度工業社会の先端はそういう次元に突入している。
 
 近藤勝重さんや大橋巨泉さんなどは、こういう事を解りきった上で日常生活、仕事で実行できる立場にある。
 
 >近藤勝重さんの高倉健さんとの対談がネットに掲載されているが、健さんの6年前の映画出演をした際の中国ロケの貴重な体験談を見事に引き出している。
 
 中国の内陸部のロケでに豚を一頭、殺して家族料理でお礼すると云う現地少数民族の少女や健気なスタッフの対応に日本人が失ったモノを実感したと云う。
 
 「中国のロケで教えられました。日本では、お礼といえばモノを買っておしまい、というのが当たり前なのに。もう参りました、って感じです。そんなことをつらつらと考え始めたら、ぱたっと仕事ができなくなっちゃったんですね。」
 
 健さんポルトガルの話も納得できる。前から多分そうじゃないかなと漠然と思っていた。
 
 高倉。 「日本人は、フランスやイタリアには皆行きます。でも僕は若い人に必ず言うのです。ポルトガルに行きなさい、ってね。
 仕事でポルトガルに行った時、食事に誘っても、運転手さんがなかなか一緒に食べようとしない。どうしてだろう、と彼が一人で食べているところを見に行ったら、それはぜいたくな食事でしてね。食前酒を飲み、お魚を注文し、白ワインを飲んで、食後酒まで。ほほ〜、と思いました。この国の人たちは、自分の生き方を貫き通すんだなあ、と。」
 
 近藤。 生き方の流儀、でしょうか。
 高倉。 東京・六本木では、若い連中がフェラーリなんかに乗ってます。一方、ポルトガルにはそんなのは一台もない。でも、何とも言えない豊かさがある。何百年も前に豊かさの極限を知ってしまった民族というんでしょうか。落ち着きます、ポルトガルって。
 
 最後に健さんは云う。
僕たちは何か合うものがありますねえ。こんなふうに仕事でお会いしたくなかった。どこか別の所でゆっくりとお話ししたいですねえ。
 
 近藤勝重さんは、今は亡き大阪毎日放送ラジオの発足当初のレギュラー出演者だった。
番組が進むうちに東京本社に転勤になって、責任編集委員と云う事になって、レギュラーではなくなったが、時折、出演した時の言葉はなかなか含蓄と説得力があった。
 
 タイトルの発言は「種まきジャーナル」後の「幸せの雑学」というラジオコラムでの発言である。
タイトルの観点を野球のランナー二塁に置いたバッターにベンチを出て耳打ちする監督が仮にランナーを返せ!云った場合のという正しさに例えたり、様々な正しさの在り方を引き合いに出して、100人がいたら100通りの正しさがあっていい、と今の正しさが声高に叫ばれる風潮へのアンチテーゼにしている。
 
>私もその精神に大賛成。
 
 ヒトは十人十色、といつも思っている。
 
 が、自分のブログの目的は別枠の探求であるからには、本質過剰論、抽象論に陥るの仕方がないと割り切っている。
 
 このブログを始めなかったら、丸山真男、カールシュミットは遠い存在で、そのまま、内容を知らずに、あの世行きだった。
 
>以上の私的立場からすると、近藤さんに、ハイ解りました、で済ます事が出来ない。
 
近藤さんの100通りの正しさ論は一方向の正しさの洪水のの逆流に抗する、草食系の反対意見である
人間は考える葦で、洪水に張った根で、上手にしなって、流されずに我慢ができるかもしれないが、あくまでもそれまでの存在である。それは洪水状態への適応論である。
 
草食系は100人が100通りの意見状態で争いは起こらない。
 
処が肉食系の100人の100通りの意見状態では、欲と強烈な自己主張が絡んで収拾がつかなくなる。
 
 コレがホッブスや丸山、キムファングの想定する自然状態であり、おそらくアングロサクソン系的な在るがままの人間状態なのだと想う。今の日本もまとまりがあると云っても、それに近い経済的分岐が潜在している。
この際限のない争い状態から、一つの合議体が生まれると想定して、コレを国家生成の根源とする。
 
 しかし、まだこの時点は実際の戦闘は起こらない。個人間の強烈な利害対立、一つの獲物の奪い合い、である。
 
国家の成立の契機は個々人の強さや工夫、を大きく超える他からの脅威が襲来し、個々人が絶え間ない恐怖に晒された時である。こうして成立した国家の目的は個人的に対応不可能な脅威にさらされた個々人の恐怖心に基ずくセキュリティーの保障である。あくまでも個人対応を超えた脅威が個人のの恐怖心を呼ぶ状態を前提に国家成立の根拠がある。
 
 今の竹島尖閣領土問題に対する一般的な国民感情に個人のセキュリティーを痛切に脅かされる根拠があるのだろうか?
そこまで切迫したモノはない。個人生活は領土問題で韓国や中国に脅かされていない。勿論、一部のナィーブな方は別でそれは個人的政治集団的イデオロギーのなせる技だ。
 
 また、日本にとって、韓国中国との経済関係の比重は余りにも大き過ぎる現実が根底にある。
こちらの具合の方が本当は日本国民の個人的生活に影響を及ぼす。
 
>とすれば、領土問題の騒擾は日本人個々人に脅威を及ぼすからセキュリティーの向上の要請が即自的にあると云うよりも、
 事の本質は、諸個人に振りかっていない騒擾事態の実態にもかかわらず、
各々の国家担当者や随伴装置がそこに、国家への脅威と云う価値観を常日頃から宣伝扇動することで、個々人を政治的共同幻想に巻き込み、イデオロギー的に統合しようとしている。
 
 そうした政治的共同幻想によるイデオロギー的国民統合で諸個人の政治意識を湧き立たせる根底では其々の国におけるグローバル資本体制による、あらゆる分野の格差拡大の事実が着々と進行している。
 
 この様な物的根拠を持った国民の分裂を領土問題などに集約される始原的共同政治幻想による国民のイデオロギー統合で何とか覆い隠そうとしている。
 
 まさに近代国民国家始まって以降の危機的状況における支配層の古くて新しい政治手法ーー足元の支配の実態から、国民の目をそらす為に、そうした手法が絶対不可欠であった。
 
>>「諸君!大砲を撃て!しからば国民は団結する!」
 
 こういった調子の宣伝扇動によって、ヨーロッパのまっ平らな平原上では血みどろの陣取り合戦を繰り広げられてきた。
その過程で民族と国家が国民意識も基に先行的に市民革命を伴った国民国家として固定されたのも歴史的事実。
 
 が、その国民国家と排外主義の挙句、二回も世界戦争の震源地になってきた。
 
>東アジアの中国、北朝鮮、韓国が物心両面の近代化を迎えたのはつい最近と云わねばならない。
 
 日本にしてもこの点では怪しい、不可解、不確定要素が根幹にある。
だから領土騒擾に多くの国民がいとも簡単に靡いている。
この宣伝扇動を支配層は決して手放さない。国民支配の最高の道具だと知りぬいているからだ。
 
>そこに歴史的に弱体化している米国の悪あがきの出たとこ勝負、成り行き任せの世界戦略が強烈に加味される。
 
>内外騒擾状態はこのままほぼ永遠に継続するとみる。
 
1)、 「日本人は昔から、自然的地理的境界が同時に国家なんですね。で、どうも自然状態ってものがイメージとして浮かばばないんですね」
2)、 「もし浮かぶとすれば共同体ですが、共同体の自然状態ではこれまた暴力の制度化と云う必要の切実さが出てこない。そういった日本の歴史条件だけから見れば、無数の内乱と制度のイメージが広がる事は絶望的に困難」
 
>1)はホッブス的国家論の根源説の提出。
>2)はホッブスの時代17世紀以降に登場した原始的共同体の生産力発展と余剰の発生とその私的取得から原始的共同体の分裂を想定し、富の私的所有層の出現に国家機構出現の根源を見る唯物史観に一般的な見方。
 
 両方の意見を提出する丸山は賢明であり、どちらも正しい。
 
 それは兎も角も、日本人が領土騒擾に個人次元のセキュリティーのリアルな視点を欠如させ、国家への脅威の宣伝によって、国家と個人の関係を相対化しないで、直結し、簡単に国家政治共同幻想に統合されてしまうのは日本の古代より、置かれてきた地政学的歴史的条件が大きく左右している、からと想って間違いない。
 
 朝鮮半島、中国を大陸側に望む島国日本は北方侵略民族の脅威に直接、晒されることがなく、原始的共同体の自然的延長に国家の成立が在るように錯覚を起こし、その祭政一致の古代同族団の主催者の族長に天皇家を見る史観が成立しやすい。
 
 朝鮮半島の古代、中世の国家統一の歴史は一方に置いて、漢民族満州族、モンゴル強力侵略民族との戦いでもある。さらにそこに倭と称された一部日本が一時期、若干、介入したのも歴史的事実。(日本書紀は創作の分分が多過ぎるが)
 
 朝鮮半島中国の様な絶え間ない外国勢力との戦いの歴史、さらには戦後の国内戦争と民族の分裂の歴史体験のないと言い切ってよい日本人には、個人のリアルなセキュリティー意識を根底にすえる国家意識は熟成する条件がない。
 
 言い換える、日本の場合は戦前の様に危機的事態に陥ると、リアル、公平な国際感覚を喪失し、同族団的国家観の延長線上で安易に一方的な固有のイデオロギーで国際関係を処断しやすい。
 
 次に、城塞都市とその中の住民の関係に置いては、住民は相互関係に制約を課し城主との関係に置いて納税はもちろん事、義務を負うが、いざと云う時兵士となって戦う準備をしておかなければならない。
 
 故に、城内の構成要員として権利を主張する。
ここにおいて国家は相対化し、城主と住民の間に義務と権利関係が生じる。
城主(国家)の住民の関係に置いて、物的精神制度的相対化の義務と権利意識、言い換えると民主主義の根幹が発生する。
 
 日本の都市は堺など一部を例外として農民生活の延長にあり、城塞都市における権利義務関係は生じない。
城主にとって住民生活は放置した治安対象に過ぎない。
 
 従って、戦争にによって城の維持が危うくなると城主は軍事作戦優先から、城下に簡単に火を放つ、焦土作戦に転じる。
これでは城下の町民にとって城主に守ってもらえるセキュリティーは常日頃からなかったに等しい。
だから農民生活の延長線上で、利害打算で都市に集住していたにすぎず、国家意識の萌芽も、ましてや民主主義の発生原理とは別世界にいた。
 
 現に明治維新の江戸内乱を恐れた東上した維新軍の江戸制圧作戦の肝は上野に立てこもった彰義隊の市中放火作戦防止である。
江戸の放火の焦土作戦はそれだけ軍事作戦として現実味を帯びており、それをやられたら戦後の首都統治がやり辛くなる。
 
 余談だがGHQの日本占領統治もこういった日本人の戦乱の手法を汲み取った側面がったのだろう。
悪いが特攻隊もこういった側面からの再考の余地がある。そこまで考慮しや上での是ならば、思想である。
 
 と云う訳で、日本人の個々人と国家の関係は国家意識肥大で分別なくし、暴走しやすい本源を有している、と見る。
 
 なるほど日本国憲法は、こういったに日本人の特性をよく踏まえている。
間違いなく戦後経済成長に日本国憲法は国家基本法として貢献した。そこいリアルな日本人論が隠されている。
 
私の立場は近藤さん的100通りの中の一つに過ぎないが、正しさなんて突き抜けた次元にあると想っている。
 
>個人の所作としては<習うより慣れろ!>
国際政治は、信念、思想の世界ではない。