第5節。政治的統一体、民主主義及び多元主義。筆者パスキーノ。
「多元主義者は次の様に主張している。
イロイロナ忠誠義務の間で避けることのできない葛藤、例えば、一方の労働組合や経営者団体に対する忠誠義務、他方の国家に対する忠誠義務、と云う両義間の葛藤に陥った場合は個々人は自分一人で解決するに違いないと。
ところがその葛藤は社会的なものなのである。すなわちそれは私的な枠組みに関係しないのであり、社会的な状況と云うモノは個人の嗜好によって変更できないものなのである。
従って個人の自立について上の様に主張する多元主義の理論はその主要な関心事、つまり<社会的な集団>は有する具体的な権力を強調することができなくなってしまう。
現実に置いて、国家が決断するのでもなく、ましてや個人が決断するのでもなく、集団が決断するのである。」
「同意が権力を生み出すだけでなく、見直も同意を創出する」
「政治的統一体が(他の統一体や団体によりも)優勢なのは<それが絶大な力を持って命じたり、他のすべての統一体を水平化したりするからではない>むしとそれは、政治的統一体の下位にある何らかの統一体が、その同じ統一体に属する他の統一体に敵対関係を表明する可能性を許さないからである。」
「民主主義の前提条件は<実態的な同質性であり、しかも、それを保持するために、結果として生じる<異質なもの>の排除を伴う<実態的な同質性>である。
従って、厳密には民主的同質性は政治的統一体にとっての実質的社会的基礎なのである。
<異質なるもの>の排除と内乱の除去が同時に行われるならば、この事は紛争の発生の事由が根絶されたことを意味する。
その様な同質性の社会の内部では、もはや敵対関係に至る様な著しい分裂が発生することはあり得ない。
同質性は主権にとっての、そして民主主義秩序にとっての基盤になる。」
「同質性は歴史的経過の中で様々な内容を持っている。19世紀以降、とりわけ、一定の国民への貴族の中に、つまり国民的同質性の中に存在している」
「国民とは何よりもまず、個人が己を取り巻く世界と対峙しようとする決断、つまり個人の実存的な在り様なのである。
個人が己を取り巻く秩序の中に埋もれている時、すなわち個人の存在そのものが秩序にあらかじめ織り込まれている時、個人はどこまでも自然的で原始的な世界に一要素に過ぎない。
この個人が秩序を相対化しうるためには、その秩序から<外へ出てー立つ。しかない。そうすることによって、この秩序は個人と対峙する。
国民国家とは、こうした個人の実存的な決断に支えられなければならない。」
「ナショナリズムが高度な精神と原始的な心性に基ずいていると云う時、それは国民たろうとする実存的決断が繰り返されなければならないことを意味している。
なぜなら、この日々の実存的決断は常に個人がそこから抜け出そうとする原始的心性を前提としており、この心性からの脱出が国民コカと云う新たな秩序そのものだからだ。」
認識態度としては左の中に同時に右の契機を見る。」
「決断としては現在の状況判断の上に立って、左か右かどちらかを相対的に良しとして選択すると態度である。
従って、複眼主義に置いては、決断した対象が絶対化されることはない。もし右を選択したとしても、決断者はその中に左の契機をキチンと見据えなければならない。」
「それゆえ決断は絶対的なモノではなく、暫定的に留まる。
この暫定性を<決断なき決断>に陥れない唯一の方法は、<絶え間ない決断の連続として主体を位置付けることである。」
「決断としてのナショナリズムは脅威にさらされた状況における独立したすなわち<孤独な個人の決断>としての実存的自由である」
「政治も持つ悪魔的な性格は政治が前提とする人間の性悪から由来するもので、それは<取扱注意の赤札を付けられた問題的存在として人間をとらえることを意味する。」
「それゆえ、政治を巡る思想と行動の課題は、こうした<政治化の煉獄を潜りぬけ>なければならない」
「帝国日本はこうした政治下の煉獄の敷居さえ到達していなかった。」
「権力政治に、権力政治としての自己認識が在り、国家利害が国家利害の問題として認識されている限り、
底には同時に、そうした権力行使なりの、利害なりの、<限界の意識が伴っている>」
「コレに反して、権力行使がそのまま道徳や倫理の実現であるかのように、道徳的言辞で語られれば、語られるほど、そうした限界意識は薄れていく。
道徳の行使にどうして限界があり、どうしてそれを抑制する必要があろうか」
「原子論的思惟方法は非歴史的機械的とか云ってすこぶる評判が悪いが、あそこまで徹底的に人間を環境から切り離して考えてこそ、根強く絡みついた因習や歴史的慣行を断ち切る主体的エネルギー生まれてきたんだ」
なぜかというと、民主主義つまり人民の支配と云う事は、コレは永遠のパラドックスなんです。
どんな時代になっても支配は少数の多数に対する関係であって、人民の支配と云う事は逆説的なものだ。
だからこそそれはプロセスとして運動としてだけ存在する」
丸山は
次回、当該個所を引用し、考える。
「ここ数十年で日本人は余りにも多くの事から自由になった。そしてあたかも糸の切れた風船の様に、中空5メートルくらいに処を漂っている。そうした風船が日本中に何十万、何百万、何千万と浮かんでいる。
そういう中でみんなが何か帰属するモノ、頼るべき価値観はないかと求めている」
こうした現状を踏まえたインターネット社会は
「一人ひとりの考え方はタコつぼ的になり、極端なモノに傾いてしまう」
「それをナショナリズムでけん引すると、一気に坂道を転がって行きかねない」
ここも次回に回す。