反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

2012/10/14(日) 「反俗日記」掲載記事の反省。色川大吉のオランダ、フランス、イギリス各国史のイイトコ取り、得手勝手な民主主義論=ヨーロッパ中心史観への同調を修正する。

2012/10/14(日) 「反俗日記」掲載記事では色川大吉の見解に対して、
>個人の主体を基準に思考する色川さんらしい鋭い指摘である、などと結論付けているが、
他方で、前半部分は承認するが、後半の日本、西欧の民主主義の基盤比較はそれていいのか、という強い疑問を持った。
そのときに直感では、色川さんのいう西欧とはオランダ、フランス、イギリス、そしてその亜流のアメリカの民主主義の基盤なるものの、イイトコ採り、おいしいところのつまみ食い、しかも具体的な歴史的推移を踏まえることなく、超歴史的に飛びまわっているのではないか?
 
 そこで、この疑問を検証するために、それら各国とドイツの歴史を本とネットで調べてみた。
 
 そこで解ったことは、それらの国々には、戦争や王室同士の国際的婚姻など、さまざまな要因による交流、相互浸透の共通性は濃厚なものの、ハッキリと区別された固有の歴史があるという、当たり前の事実である。
同質性も大きければ、各々固有性があって、違いも大きい。
 そもそも、使用言語自体、大きく違っている(オランダ語、イギリス語は近親)
各々の固有性が際立っていたから、ヨーロッパはズット戦場に地だった。宗教、ゲルマンなど基本民族、人種の共通性が共通政治経済基盤の成立に開花したのは二つの世界戦争の戦場という大量殺戮を経た、たった今、のEU結成からであった。
 
 各々に西欧などと一括するにはあまりにも違いが大きすぎたのである。
 
 色川さんは都市と民主主義の論理の西欧なるものを一括するために、各々の固有の歴史の推移を飛び越え、つまみ食いしていると思った。
 
 確かに我々が過去の歴史に学ぶとき、次のような観点をいつも念頭におく必要がある。
「1)歴史学習では、往々にして暗記した年代、事項そのものが、解答でありえた。
だが、コレ以後必要とされるのは、現代以前の歴史的事象を学ぶ一方で、
2)現代とその現実を見つめつつ
3)個々が自身の理解なしは解釈を、導き出そうとする姿勢であろう。
4)云うまでもなく、解答は無限にある。
5)現代中国の歴史は欧米をはじめ世界の歴史、特に日本の歴史のそれと従来以上に密接にかかわっている。」(中国史概説、はじめに、より引用)
 
 色川さんの西欧という一括による解釈には、その土台中の土台である
1)の年代事項の歴史の時空を飛び越えた勝手な編集が前提となっているようだ。3)の歴史解釈に余分な各国の重要歴史事情は排除されている。
西欧一括解釈は取捨選択された歴史事象を抽象的に編集したものである。
その上での、4)の無限の解答の解答のひとつである。
 
 このようにして導き出された西欧なるものの一括「創出」史観は独自に導き出されているが、敗戦後日本の底流にある西欧史観の共通項を代弁しているものとも言える。
またそれは敗戦後一貫して流れる庶民の漠然とした欧米観でもある。
その源流をたどれば、明治維新の急進的脱亜入欧=西洋化、近代化、近代国家建設に行き着く。
 
 そういう戦前戦後の日本人の奥底に刻まれた漠然とした潜在意識が自分たちの歴史の曲がり角に、突然浮上してきて、TPP開国論を上から叫ばれたとき、なんとなくその気になって己の意識世界が現実から浮き上がってしまう。
勿論、その意識にはアジアで率先して西洋化することで恩恵を得てきた戦前の、あるいは何はともあれ、敗戦民主化によって経済発展によって、個々人と家庭が恩恵を甘受してきた、というしっかりとした物的基礎の反映でもある。
 
 そして、支配層の継承してきたイデオロギーの、日本人の強固に刻まれてきた潜在意識をくすぐる政治感覚は健在だったのである。
 
 他方で、それらに一見、反発するかのごとき、靖国神社内、遊就館の次のような歴史観がある。
 
 加藤紘一「テロルの真実」より引用。
「展示は基本的には事実を伝えるものであるが、歴史の解釈としては、<押さえるべき事実を意図的に外して>展示し、独自の史観に基づいた説明を強行しているところが多く見受けられる。
歴史を捏造しているとまでは言わないが、解釈としてはあまりにも偏りがあるものではないだろうか。」
 
>双方の歴史観はで一対であり、表になったり、裏にずれたりしてきた。
なかなか融合し辛いのである。
 
 村上春樹さん的世界と司馬遼太郎的世界の違い程度であれば、世界観の重複はある。
 
 >同質性、共通基盤の存在が民主制の大前提である。
ワイマール共和国では階層、政治党派的対立の深化による政治分裂によって、民主主義の大前提である同質性が乏しくなった。故にナチズムの民族排外独裁全体主義に収斂していった。
この歴史認識は当時のナチス系学者カールシュミットから社民党系学者までが行き着いたの共通する結論であり、生の報告論文がある。現在の極右台頭するヨーロッパの最先端の政治認識と理解する。
日本において、反ファシズム、反ナチズムの表面的理解では政治思想としてマッタク浅い。
 
 色川さんの指す西欧民主主義と都市の論理が一番よく当てはまるのは、オランダであり、同族同言語の都市国家の連合体である。
色川さんが具体的に指摘する民主主義と都市の論理が確かに史実として確認できる。
が、それだけでは、民主主義と都市の論理の抽象的立証には不十分。同族都市国家連合オランダの歴史には全ヨーロッパ的ダイナミズムに乏しい。
 
 そこで、フランスからはフランス革命によってもたらされた<国家と市民社会(公的秩序と私的生活)の分離、個人主義の発達>
イギリスからは公共のモラル、議会制民主主義の成立を時代を超えて持ち出してくる。
 
 おまけに色川さんはアメリカ、プリンストン大学客員教授に招かれていたこともあってか、個人主義の発達という意味に関しては、イギリス王政を打倒し一時的に共和制をもたらした清教徒の脱出先のアメリカも念頭においている気配がする。
 
 それらの国々の固有の歴史において、色川さんの都市と民主主義の論理に当てはまらない部分を一々上げたら切りがないほどだ。
 
 他方。
>>西欧と強引に一括される(それらの共通性は重々承知しているが)比較対象はただ、日本一国のみである。
 
 確かに東アジアの歴史の中で色川さんが冒頭に指摘するように日本は恵まれた地政学上の位置にあって
その歴史に固有性は強い。
 
 が、韓国中国との結びつきによる相互交流の結果の日本歴史という側面も考慮して、論を立てていくのが現在を生きる歴史家の務めではないか?
 
 ただ日本歴史を単独で取り上げて、そこに都市と民主主義の論理の欠如を証明するのは、一国主義であり、今の時代に相応しくない日本中心史観である。
ただただ、不当に西欧歴史を一括して日本歴史の特殊性を際立たせて、読者の目の前にポ~ンと投げ出しただけである。
 
 西欧と一括するのであれば、比較対象日本の歴史の中に東アジアの歴史と交流がなければならない。
そこにおいて初めて、日本歴史の固有性が(云うところの西欧)との比較対象で明らかになる。
 
 大学の授業で使用されている「中国史概説」によれば、古代中国歴代王朝の首都は完全な城壁都市である。
朝鮮でもそうであると理解する。
 
 が、それらがなぜ?専制国家体制に行き着いたのか?
それは東アジア的な統治機構の独自発展深化の道でなかったのか、どうか?
西欧を上位にもってくる理由は、近代以降の歴史の経験に立って過去を裁断したものであって、はたしてそれ以上のものがあるのか?東西交流の実質が乏しい以上、歴史における別ルートの統治形態の進化はありえたのだ。インカ帝国と西欧の違いの次元ではさらさらなく、歴史的な発明は中国で行われた。文化も比類するものがあった。
 
 >日本の古代天皇制はその遅れた亜流でなかったか?
そうであるが故に、日本において、古代律令国家の王朝体制の早々の崩壊から、アジアに類を見ない封建分権性が萌芽し、成長発展しその内在的成熟が、団体の上への積み上げ、の社会構造となり、曲がりなりにも明治維新の急速な近代化の社会的基盤となったのではなかったか
 
 >そういう戦前戦後潜在的に継承する日本社会の基本構造の分母を色川さんのような云うところの西欧、都市と民主主義の論理で浮かび上がらせたところで、いったいどんな政治的意味があるのか?ないのか?
 
 実は小沢一郎氏の「日本改造計画」を貫く、問題設定も、色川さんと同種。
グランドキャニオンには柵がない。日本なら柵を作っていた。
 
「大の大人がレジャーという尤も私的で自由な行動でさえ当局に安全を守ってもらい、それを当然視している。
コレに対してアメリカでは、自分の安全は自分の責任で守っている~云々。」(米国の個々人の武装人権状態と比較しないでもらいたい。鉄砲配ってからいうべし。)
「一部例外を除いて外部との交渉の歴史を持たない同質社会の日本型民主主義(和、第一とその内部での保護)
は欧米型民主主義の理念を導入したにもかかわらず、同質社会特有の独善的な発想に陥って(戦前総括)が、この傾向は敗戦後も、冷戦構造の下でも温存され、今日に至った。」
「いまさら鎖国できない以上」などと、恫喝している。時代の表層しか見えていない。
こういう通俗的社会学者モドキの推認を己の政治哲学の基本にしているところに政治原理的欠陥が垣間見える。創造なき破壊といわれるのである。
 
 以下掲載記事の該当部分の前文を引用する。
コレらに民族は文化水準の高い、比較的温和な民族であって、気象の荒い騎馬民族でも砂漠的人間でもなかった。
日本はそうした恐怖の震源から隔たっていた。
中国朝鮮が緩衝地帯になってくれたのだ。
北方民族は中国朝鮮に侵入支配力を振った。偉大な中国民族は万里の長城を築いて、防戦したがしばしばその支配に屈した。(この認識は単純すぎる。相互浸透を考慮していない。漢民族の海に取り込む力軽視。)
だが、その中国朝鮮が積極的に島国日本に侵略を仕掛けた事は一度もなかった。
 
 日本人は異民族のせん滅戦に備える城塞を作らなかった
国内の争乱は絶えなかったが、それは同文同種の内争であり、サムライ同士、領主団同士の殺し合いであっても、
富の源泉たる住民の殺戮であるはずがなかった
従って、日本の城は領主の戦闘の道具としての身発達した。」
 
以上地政学的特殊性の認定。
以下、都市と民主主義の論理抽出による日欧比較の本論。
 
>日本の都市は共同の防衛を義務付ける城塞や掘割を作ることはまれだった。
その結果、自衛のために結束しても、自由と民主主義の母体となる<都市づくりに。日本人は情熱も関心も失っていった。
逆に支配者の側は自分の城を守るため街に火を掛け、住民の家を焼く払い事をためらわなかった。
 
>日本の都市住民にとって、「城とはそういうモノであり、それから献身や奉仕を求められるいわれはなかった
(WACWAC。長屋のハッツアン、クマさんはほぼ、無税状態の替わりにお上からの公共サービスもなく、武力と市場原理でコントロールされた放置状態と理解する。分類は町人ではなく細民。武力管理の希薄な大阪の町人社会は市場原理徹底(西鶴参照)
そのためかえっての農村の住居様式がそのまま都市に持ち込むことができた。
西洋や大陸諸国の様に厳しい市民の資格や共同の規制を要求されることなく、集合住宅の不便な共同生活を強いられることはなかった。(意味不明箇所)都市の長屋はどうか。
>西欧における<国家と市民社会(公的秩序と私的生活)の分離>とか、
公共のモラルや個人主義の発達とか
議会制民主主義の成立とかはこうした都市を基盤とした
<<実際の民衆の生活経験そのものからの所産>>であって
決して風土論的生態学的特殊性から説明できるものではない
(この黄マーク箇所が長々とした批判該当箇所の真髄。この結論部分に至る彼流の西欧解釈に問題がある。)