反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

「天皇陵の謎」矢澤高太郎、(元読売新聞考古学、古代史、文化財担当記者)文藝春秋2011年刊。要約抜粋。

 宮内庁との押し問答。(以下、著書からの引用に個人的意見を追加した)
陵墓古墳の問題の~最後に行き着くところは<どうして学術調査ができないのか>と云う単純素朴な疑問である。
昭和、61年私の取材に対する陵墓課長の問答。
Q、調査できない最大の理由は?
A、陵墓は皇室の祖先の墓として、現在も継続している神聖な場所。奥の院、御身体と同じで、そこへ管理者以外たち入れないのは当たり前。
Q祭*(この漢字読めない)が続いていると云っても、中世から江戸時代までは放置されていたし、墓の大部分は明治初期に定められたものなのでは
A、祭*をしていなかったことを証明する文献はあるのか?墓まで行かなくても家で拝んでいれば、祭*といえないか?(WACWAC、公式的には天皇家には私的空間、領域は存在しなかったのではないか。都合のいい、戦後民主主義的解釈である。
 
 天皇、皇族の衰退の実情をリアルに活写した文献は私の知っている限りでは
応仁の乱の時代の摂政関白、最高レベルの貴族、九条政基の「政基旅引き付け」である。(政基日記の原文と数冊の研究書が出版されている。)
関白を引退した政基は所有する、なけなしの日根野荘園が武士や僧兵の切り取りに会い、直接統治するために現地に出向く。
その現地の1年余りの実情が日記形式で記されている。
自らの武力を持たないモノは戦乱の世において、権威だけでは領地の維持はできなかった。
多分、その後、激化の一途を辿った戦乱で、当該領地は消滅したであろう。
私は日根野現地に出向いて、日記に記された地形、風土を想起している。なお中世の日根野荘園を描いた概略図は昔の高校日本史教科書にも載っていた有名なモノである。
天皇皇族勢力の領地が最後的に失陥したのは応仁戦国の150年だった。
 
 その後の豊臣、徳川の武力全土制圧に伴って、自らの封建暴力支配の隠れ蓑として、リアル政治で完全に無力していたが故に、人畜無害のモノとして古代的権威が利用されるにいたった。
ただこの時代の天皇、皇族の生活実態を明らかにした文献は存在しない、と想う。
そうした表現行為は政治行為になる恐れがあるから、武士政権によって事実上、禁圧されてたのではないか。
従って、豊臣、徳川の時代になって、天皇皇族は武士政権を強化するための「象徴」的付属物化していた、と云える。
幕藩体制の動揺期に徳川政権側は政権維持のために積極的に、天皇皇族を利用しようとした。
この時期に陵墓の大掛かりな修復作業や天皇神話の利用があった。
が、一貫して武士政権によって抑圧されていた天皇皇族側の急進分子が反幕藩体制サイドに積極加担するのは当然の成り行きである。
 彼等は豊臣徳川武士政権の時代には疎外され、生活条件の保障も乏しく、政治的無力だった。
伝統の催事を継続する事が唯一の存在証明だった。その意味で、この時代にに彼等の存在は政治的虚飾が剥ぎ取られ、「宗教的」純化を遂げたのである。
 
あなた方だって、墓参りをしていなくても、祭*をしていると云うでしょう。
(WACWAC、この後の問答は陵墓の歴史的具体的事実関係に立ち云ったモノで省略するが、天皇陵と称されている陵墓を立ち入り検証できないと云う条件の下ながら、利用できる研究対象の資料から推察すれば、どう見積もっても被葬者が正しい天皇陵は40分の5)
 
日本の古代は文献資料が極端に乏しい。>
中国や朝鮮半島と異なり、日本の古墳には墓誌を入れると云う風習が見当たらない。
我が国の古代人は文字に執着を持たなかったのか、全く別の理由によるものなのか。
(WACWAC、古代国家体制が未確立<階級分裂の進行とそれによる支配層の定着=国家形成が遅い。>凶暴な外敵が日本列島には基本的に存在しないのだから、古代国家機構の形成を急ぐ必要はなかった。日本古代史の特性である。
 
 だから、日本古代支配者は文字による己の統治を正当化する必要がなかった。支配者の支配者としての自己認識が乏しく、その支配形態は古代氏族社会の延長である広範囲古代共同体国家?の域を脱していなかった。
 従って、日本に置いて、古代国家の体制が一応、整ったのは記紀が記された8世紀初頭といえよう。
 
 それも、中国朝鮮型の完成した律令中央集権国家体制ではなく、地方の豪族支配の取り込み、温存は濃厚。
 
 この古代律令中央集権国家体制の未成熟こそが日本中世社会における武士勢力の中央権力掌握に繋がった。同時に武士勢力の全土軍事制圧の権威付け政治的利用のために古代族長的祭政一致天皇家はフリーズしたまま温存された。
 
 凶暴な他民族の外敵は大海と云う天然の要塞に阻まれて、日本列島と、住民を蹂躙する機会はなかった。日本列島が大陸と地続きだったら、中世武士政権と寺社天皇勢力との共存した歴史スパン<権門体制>は、極端に短縮されていたであろう。天皇家、皇族の様な自らの武力を持たず、古代的権威に依存する政治勢力は武力支配を推進する国家統治者による支配形態の合理化の必要性から、早々と一掃されていたであろう。)
 
>このため、日本は自国の誕生の歴史が曖昧模糊とした、世界でも稀な国なのである
(wACWAC、民族の歴史を遡って、神話化するのは、韓国高校検定教科書もやっているが、その場合の対象期間は、BC2000年まで遡る荒唐無稽なモノであり、普通に読んですぐそれと解る。<檀君神話>。
古代朝鮮半島を最初に統一した新羅の統一過程も文献資料等々でほぼ明らかになっている。
日本の場合、大和朝廷の支配地域の拡張過程が文献資料に置いて、整理できないと云うグレイゾーンが余りにも大き過ぎる、と著者は云っている。)
 
>当時を知る僅かな手掛かりは「古事記」、「日本書紀」だが、コレらが編纂されたのは8世紀初頭の頃の事。
400年も300年も前の国家誕生(私に言わせると、先に指摘した様に国家誕生の国家の中身の問題)
まつわる記述は神話によって彩られており、残念ながら事実としてそのまま信じることは難しい。
 
 そこで次に頼りになるのが当時の東アジアの超大国、中国の史書の中に記された日本に関する記述。
処がそれらも十分な解答を与えてくれない。
 
 「魏志倭人伝」ー邪馬台国卑弥呼が魏に最後の朝貢の使者を送るAC247年。~~空白期170年余の間に著者は大和朝廷による国家?誕生としている。そのシンボルである前方後円墳の築造、始まる。
 AC421年。「宋書倭国伝」。倭王南朝の宋に使者を送ったと云う有名な<倭の5王>の記述。
 
>そうすると著者は追の様に結論付けるほかない。
 
 記紀もダメ、中国の史書も頼りにならないとなれば、日本国家成立の謎を解明するため残された最後の手段は、この時代に築造され、今に残る古墳を徹底的に追及する以外にない、と云う事になる。
古墳の分布、その規模、形態、石室におさめられた副葬品の克明な分析によってのみ、それが可能となる。
古墳は当時の政治状況と権力構造が直接的に具現されらモノとみるべきだろう。
 
>ところが
我が国の天皇陵を中心とした陵墓896基のすべては宮内庁の管理下にあり、<禁断の聖域>として一切の立ち入りを禁止されている。
>しかも、古代の天皇の陵墓の9割近くが別人の可能性が高い。
>さらには中世から江戸期に及ぶ長い期間に渡って、陵墓は放置されたままだったため、そのほとんどは盗掘されている。
 
>WACWAC、陵墓を立ち入り調査しても、高価なお宝の類は、盗掘によって盗まれているから、出土しないだろう。
また、例え貴重なその種のモノが出土したとしても、毎年1回公開されている正倉院の宝物展の物品の様子から類推すると、古墳時代の陵墓に世界的価値のある宝物が埋め込まれているとはとても考えられない。
ただし、出土品を鑑定すれば、古代東アジア史の中の日本史のグレーゾーンはかなり明らかになるだろう。
 
 以下の2012年10月14日付けの記事にある、色川大吉の指摘は何度読み返しても一面に真実を突いていると想う。具体的な歴史的事実がこの記述の中にピッタリと収まる場合が多々ある。
このヨーロッパ、東アジアの中の日本史及び民主主義の関係の抽象論を批判できる視点は、アジアの文明、文化の優位だった時代が過去にあった、と云う歴史的事実への注目と、民族史、国家史の固有性への注目以外にないだろう。
 以下は打破すべき歴史観
 
>>色川さんの「日本にとって隣国が朝鮮中国だったことが幸いした」。は非常に参考になる指摘だ。
「コレらに民族は文化水準の高い、比較的温和な民族であって、気象の荒い騎馬民族でも砂漠的人間でもなかった。
日本はそうした恐怖の震源から隔たっていた。
中国朝鮮が緩衝地帯になってくれたのだ。
北方民族は中国朝鮮に侵入支配力を振った。偉大な中国民族は万里の長城を築いて、防戦したがしばしばその支配に屈した。(朝鮮の北、満州にあり、朝鮮を圧迫し、侵略した満州族の後金こそが中国大陸を南下して清朝を作った)
だが、その中国朝鮮が積極的に島国日本に侵略を仕掛けた事は一度もなかった。
日本人は異民族のせん滅戦に備える城塞を作らなかった。
国内の争乱は絶えなかったが、それは同文同種の内争であり、サムライ同士、領主団同士の殺し合いであっても、
富の源泉たる住民の殺戮であるはずがなかった。
従って、日本の城は領主の戦闘の道具としての身発達した。」
>日本の都市は共同の防衛を義務付ける城塞や掘割を作ることはまれだった。
その結果、自衛のために結束しても、自由と民主主義の母体となる<都市づくりに。日本人は情熱も関心も失っていった。
逆に支配者の側は自分の城を守るため街に火を掛け、住民の家を焼く払い事をためらわなかった。
>日本の都市住民にとって、「城とはそういうモノであり、それから献身や奉仕を求められるいわれはなかった。
そのためかえっての農村の住居様式がそのままと死に持ち込むことができた。
西洋や大陸諸国の様に厳しい市民の資格や共同の規制を要求されることなく、集合住宅の不便な共同生活を強いられることはなかった。
>西欧における<国家と市民社会(公的秩序と私的生活)の分離>とか、
公共のモラルや個人主義の発達とか
議会制民主主義の成立とかはこうした都市を基盤とした
<<実際の民衆の生活経験そのものからの所産>>であって
決して風土論的生態学的特殊性から説明できるものではない
>自分のコレまでも記事で風土論的生態学的意見を書いてきた。
 
>個人の主体を基準に思考する色川さんらしい鋭い指摘である。