反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

日本史講座ー中世の形成、5)東アジアの武人政権ー高橋昌明を批評する。

 日本型律令制命名する以上、中国、朝鮮半島律令制のあり方を念頭においている。
それとの比較で日本型律令制門閥貴族の支配ヒエラルキーの家職独占体制の特性を浮かび上がらせる必要がある。
 古代中国君主、貴族、官僚中央集権支配国家のコース(漢、唐)。君主の一元的官僚専制支配体制(宋)に展開。
 1)攻撃的な破壊的軍事力を持ち、体制の富を収奪する外敵の脅威、2)広大な領域における複数の力の均衡した領域国家の争闘関係、3)付随する人民蜂起。
そういう内外環境において「中国」では、古代的官僚中央集権帝国の歴史発展コースが徹底して推進されてきた。それは古代ギリシアの民主政(奴隷制)の先駆性の徹底化、高度化が周辺地域に強い波及力を及ぼしたことと同じ位相である。
日本列島の社会構造は海を隔てた縁辺として、中国の古代君主、貴族官僚中央集権体制の影響を受けた。
それが日本型律令制門閥貴族の家職独占ヒエラルキーの特性となって現れた。
 
 古代中央集権制の文官統治の律令制度において、(中身は支配層限定であっても)中央官僚の選抜に不可欠な科挙制度が日本ではまるで問題にならなかったのは、家職の継承である門閥貴族の支配ヒエラルキーの独占体制にとって、イデオロギー的選抜制度は不必要、或いは敵対的な制度だったからである。
貴族政治は、氏族支配の残滓を残した家職化した貴族門閥とコレに連なるモノどものプラグマティズムにゆだねられ、人民統治の政治イデオロギーで中央集権支配体制を補完し人民支配を強化する必要な生まれなかった。
 
 そういう古代中央集権体制の緩い政治環境の中で、必然的な生産性の列島規模の高まりから、大規模な争乱が発生すれば、貴種の下位に属する軍事貴族の存在価値が高まり、やがて自律傾向を帯びるのは当然のことである。
 
 現実的に、律令制下の在地において実務を担っていたのは旧支配層を出自とする郡司であった。
そこに、治安維持の目的で天下った中央軍事貴族が地方に定着し、領主化すれば、元々、日本では律令制の施行の実務と担当してきた旧支配層の出自を持つ郡司層の力は弱まり、当然、公地公民、班田収受の実態の怪しい建前は、脆くも崩れ去っていく。
元々日本型律令制に孕まれていた古代中央権力の地方支配力の不徹底が前面化し、中央と直結する地方官への無責任な徴税と治安維持の<丸投げ>ような事態が生じるのである。
国司側からは、徴税と治安維持を請け負っているということになるが、当然、国司の過剰収奪私腹肥やしと、中央支配の影響力の弱い、地方では現地の武装勢力に依存、コントロールして、強権的に徴税をせざる得なくなり、現地支配層の間の軋轢、住民の強烈な反発を呼ぶ。古文書に書かれていない騒動は全国規模で一杯あった、と見る。
 
 その後の権門体制の長期持続は武人政権にとって、寺社と結合した古代の貴族支配層を一掃する必要が生まれなかった、という単純な政治軍事力学によるものであって、それ以外のなにものでもない。
 
 イロイロ込み入って難しいことを書き立てている学者センセイが次のような平凡極まりない結論に達するのは仕方がない。
引用。「日本中世史講座ー中世の形成。5、東アジアの武人政権」ー東大出版会刊ー
この項目を担当した高橋昌明さんは中世史の方面では有名なヒトと、調べていくうちにわかった。
よくよく考えてみると当たり障りのないことを述べるよりも、自分の考え方をはっきりと前面に押し出し、問題提起をしている。歴史観に一貫性がある。立派な学者さんである。
 
 「日本では天皇と貴族との間に厳しい緊張感は存在せず、天皇藤原北家御堂流(W。ナニそれ?)に包摂され、王家の自立そのものが院政期を待たねばならない。
 
 中国では、門閥貴族支配の動揺??に勢いを得て科挙制度が確立していったが、日本では、平安末期の内乱や平氏政権の成立と没落、あるいは承久の乱といった政治的激増の時期が、同時に貴族の家格秩序の最終的完成期であった。
W。動揺?唐の貴族は全国人民蜂起の内乱の蜂起軍によって大量殺戮され経済基盤を破壊され、この時点で途絶している。日本で言えば京の中央貴族の大量殺戮。
また北宋王朝は北方民族女真満州族の前身)の金の首都占拠によって、奴隷や売春屈に売り飛ばされている。
それほど王朝支配を維持する内外環境は苛烈だから、中央官僚支配体制を徹底化して対処せざる得ない
W。貴族の家格秩序の最終的完成期であった。コレは理解不能
承久の乱後鳥羽上皇壱岐に流された、事変か?コレを境に鎌倉幕府の全国的な軍事主導権が確立。
歴史事件に和号を一々当てはめるのは事態の中身が見えないようにラップを被せているようなもの。中身を表現すれば後鳥羽上皇の乱とか何とか。
西洋史のように人物、事態、等々で統一した方が解りやすい。役所関連が和号に拘っているのと同じ。
ここで天皇陵の発掘問題まで持ち出すことはないが、日本の歴史家は本質的に保守的。
いい加減でもある。戦前には皇国史観に屈服していた。コレは戦前の庶民の戦争協和と別次元の責任問題が発生する。
その和号も必ずしも天皇の即位期間と一致しない。とにかく、歴史考察に利点は少しもなく、邪魔になる。)
 
 巨大な農民反乱もマッタク経験がない。むろん科挙制度は遂に登場しなかった。門閥を超えた立身は、寺院社会に部分的に見られるだけだ。(W。中国では農民反乱にの荒波にのって皇帝まで上り詰めた者が少なくとも二人はいる。漢の初代皇帝。宋の始祖。)」
 
「中国では~マックスウェーバーのいう<家産官僚制>(W。ボンヤリとしか解らないが古代中世の官僚制はヨーロッパでもドメスティックではないのか。科挙制度などやっていたのは中国と朝鮮だけ?)既に秦観帝国においてかなり整備された段階にあり、以後歴史ともに充実発展し、宋朝にに至り君主独裁制を支える重要な支柱となっていく。」
 
 この官僚制は、多くの民族を抱え気象条件、生産力、文化伝統、さらに言葉などの地域格差の大きい中国にあって広大な版図を皇帝にに結び付けてる機構として、その機能を果たし続ける
(W。この歴史観は所謂、内藤湖南の提唱した唐・宋変革論。日本の平安後期を王朝国家と規定することもこの理論的枠の応用?。歴史の激変の中で貴族の集団指導体制に支えられた君主から、王の一元的主導体制へー王に最終選抜された超エリート官僚中枢、巨大な王直属の中央軍=禁軍の形成=戦時体制への転回)。
官僚制が機能し続けるという点はは今の中国にも当てはまる。
日本の官僚制民主政?も日本の歴史風土によるものか?
 
比べて日本では、氏族的秩序が解体しきらない段階で、国際的緊張から中国に習った統一的な国家機構が早熟的に形成された(W。外圧事情優先にして、内部事情にそぐわない制度を先進に影響され、上から無理に押し付けるのは、対外関係の重視される時期の日本の政治法則になっている思いがする。背伸びしている段階に留まっていればいいが、やがて爪先立ってバランスを崩してくる。)
 
 このため、古代国家の軍事、行政など一般的共同業務の遂行機関は、氏族制度の残滓を随伴せざる得ず、氏族長の後裔たちによって多少とも氏族的に執行された(W。天皇行事そのものが古代祭政一致政治の残滓を神秘主義的に前面化し、諸々の氏族を束ねた族長の役割を意識している。)
律令制が日本的に変容し始めるに従って(W。変容したのではなく、最初から、実態は日本的律令制だ。こういう論法ではここまで日本の律令制を中国、朝鮮と比較してきた意味が無い。学者さんは手堅く資料に依存するから保守的になる。)
 
それらの国家業務は収益権と一体化し、(W。難しい表現。国司の地方徴税請負?)私的に分割され氏族解体後の官僚貴族のイエの家業となっていく(W。なるほど!=官職イエ請負~イエが高官職を請け負う、独占する。すごい官位と職の排他的固定化、私物化だ!その洗練されなさは原始的。そういう貴族層が周りを取り囲み馴れ合って、利益共同体の中心に日本的君主が存在する。
ただし、日本の中世封建武人政権の自らの秩序維持のためのこうした古代貴族制の利用は、日本支配層の発明した特技ではなくて、ヨーロッパ中央の各ゲルマン人王朝のローマ皇帝とローマ教会の権威の利用に相当する。そういった日本史の継続の中で、近代市民革命による市民社会の国家からの自律性がなければ、今の日本政界の如き、国会議員職のイエ請負=家職化。国会議員だけではなく、支配的管理的民間職も、家職傾向になる。古代ギリシア、ローマの時代が中世に反転したように、歴史は前に進んでいるけれど、中身が大きく後戻りすることもある。)
 
地方行政機関(国衙)の機能、業務も在庁官人(武人を含む)なぞに私的に分割された。
荘園の激増も、この動向の土地制度上の表れという面がある。」
 
>続いて、権門体制の説明になっているが、歴史の結果から、都合よく解釈しているだけに思われる。コレでは歴史のダイナミズムはマッタク無い。省略。
 
    <武人の肯定的評価という指標>
「日本における科挙制度の不在と、儒教の浸透度の弱さには対応関係があろう。
原始儒教は倫理、政治の説を中心とするものであったが、漢の時代、世界の本源についての形而上学的思惟が形成され、(W。理解できないが、プラトンアリストテレス的哲学領域のことだろう)宋代に至り朱子学の~空前絶後の哲学倫理体系を完成させていった。」
 
「日本の古代中世では形而上学はおろか、倫理政治の理論も貧弱で漢籍は主に史書、文章(詩)が親しまれた。」
「中国の貴族社会や科挙で~<文章は経国の大業、普及の盛事という場合の<文章儒教倫理的な<立言>、すなわち後世の戒めとなる立派な言葉である。
それはまとまった著述によって示さねばならず、脱政治の別名である日本の<文学>などとは別物である。」
 
「日本では儒教を精神の背骨とする高位の貴族は菅原道真藤原頼長など一部の例外を除いて見られなかった」
「日本の古代中世の社会で、儒教儒学、それも主に博士家の家業の形でしか存在しなかったし、個人と社会を律する強固な規範にはなりえなかった。」
文運隆盛に見える平安期宮廷でも、中国的な意味の<文>は未確立、といわざる得ない
 
府兵制から募兵制へ転換した中国では、軍人は職業になった。しかし職業倫理は遂に形成されなかった
日本では
自力救済の慣行を背景にW.将門の世界はその典型)平安期武士の世界に生まれた<武者の習><兵の道>は、後世の武士道と異なる即時的なものであるが、職業倫理の芽生えといえば言えるだろう。」
 
「この国では中国のように武を卑しいものみなす精神が定着し、当然視されることはなかった」
「武や武士を忌避しなかった日本社会は、その後、政治勢力としての武家の伸張が著しく、やがて名実ともに知者として君臨し近世社会を迎える」
 
「中世以後の日本の政治構造、イデオロギーは、東アジア諸民族とその社会人間観からいえば、異様なものであった」
 
「3度にわたる契丹と高麗の迎撃戦は、極めた大規模なものであった。例えば、第三回目の1018年~19年に侵入した契丹軍は10万、迎え撃つ高麗軍は20万8千人、連戦連敗でかろうじて生還できた侵略軍は数千であったという。(高麗史)
 
 比べて、外敵の脅威のがなく、大農民反乱の経験も無い日本には、強大な常備軍を維持する必要が無い。
実際、平安初期に登場した武官系武士は王権守護の警察軍の将校に過ぎなかった。
平安時代の武士は数的にも限られていた。
 
 巨大な武力の必要が無いにも拘らず、平安後期になって武士が「成長」し、あげくには鎌倉期以降、武人政権が存続した秘密にいかに迫るべきであろうか。
(W。反面ではなぜ、古代的貴族制の残滓を引きずっていたのかともいえる。
東アジア諸民族では特殊な日本の政治構造、イデオロギーが武士を育み、武士政権を発展させたが、ヨーロッパ歴史の概念でいえば、貴族は元々武人なのだから、日本の武士は貴族に該当するわけで、徹底した貴族文官支配の歴史発展コースを歩んだ中国歴史が異様とも言える。
 それは古代ギリシアアテネが民主政を歩んだことと同じ位相であり、歴史における先駆性の徹底化、高度化とその周辺への波及の問題である。
そういう風に考えると、日本の武人政権の存続したのは秘密でもなんでもなくて、経済の自律展開の無い時代の政治軍事優位性という歴史条件の中で剥き出しの武が統治するという普遍的権力構造が継続した。
しかも、日本の武人貴族政権は東アジアの文官支配体制の影響を強く受けた古代日本的貴族制を一掃する必要もなく、その権威を利用した補完関係を継続してきた。)
 
 一つの回答の仕方は、作られた北方の脅威の存在だろう。
武官系武士は、奈良平安初期に陸奥国司や~鎮守将軍を経験し、蝦夷(えみし)と直接戦火を交え、その抑止に当たったものが少なくない。
また、10世紀後半から11世紀はじめの陸奥で、平氏や秀郷流藤原氏(W。藤原秀郷は将門の領地の北方にいて、乱を鎮圧。その末裔)といった軍事貴族が、蝦夷の押さえや北方世界との交易のため、鎮守将軍になった」
「前9年の合戦に取材した<陸奥話記>は、源頼朝陸奥守ではく将軍として強く押し出し、安部氏側の人々を蝦夷の観念で描いている。
コレは彼を、中国の<辺境。出戦った<将軍>の再来復活と印象付ける狙いがあったと解される」
W。確かにそういう列島内の辺境治安維持の軍事力学が軍事貴族の自律、政権樹立に働いたが、元々、朝廷権力に列島を統治するシステムは備わっておらず、対応力なく、武人が実権を握っただろう。