反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

「日本軍事史」高橋典幸、山田邦明、保谷徹、一之瀬俊也著、吉川弘文館、2006年刊のキーポンをを引用、解読する。ー土一揆、応仁文明の乱以前は除外ー

             鎌倉幕府の成立
 反乱軍の頼朝側は、追討宣旨を利用した軍事動員はできなかったから自分に臣従を誓った武士のみで内乱を戦わざる得なかった。東国は河内源氏の勢力基盤であったが、それまでの主従関係は緩やかなものであったから、内乱を戦う武力としては期待できなかった。当時何らかの?事情を抱えた武士たちが改めてより共に臣従を誓い状況打破をかけて内乱に参加して言ったのである。
   
 <中世武士軍事政権樹立に向けてのな内乱勝利の原理>戦士主従の土地給与を媒介とした緊密な関係 桃太郎のキビ団子家来形成組織戦略だ。キビ団子もないのに戦争の布陣をするのは阿呆!アベ等。
 彼等にとって<敵か味方か>のいずれしかなかった
味方に付くものはより共に臣従を誓い、そうしないものは敵とみなされ攻撃された。
イ、内乱の展開と共に頼朝を中心とする主従関係が形成されていったが、それは主人と従者の関係がより緊密で強力な点で、従来の主従関係とは質的に異なるものであった。
ロ、また、所領を媒介とする点でもこの主従関係は特徴的であった
。すなわち、臣住したものは味方とみなされ、その所領を頼朝らにって攻撃されないという保障を与えられる一方で、敵とみなされ攻撃されたものの所領は没収され、頼朝に味方したものに分け与えられたのである。
内乱の中で頼朝は所領の給与(もしくは没収)を媒介とする強力な主従関係を作り上げ、それを主たる戦力にして内乱を戦い抜いたのである
 頼朝と主従関係を結んだ武士は後に御家人と呼ばれるが、
反乱軍として一見不利な条件が、こうした主従関係、軍事編成の形成につながっていった。
 
 こうして内乱記に頼朝が築き上げてきた私的主従組織は国家的な制度と位置づけを与えられるようになったのであるが、コレは国家軍制上が気的な出来事であった。
 平氏は諸国に治安維持という権能を独占的に請け負いながらも、既存の国家機構に依存する段階に留まっていたのに対して、鎌倉幕府は軍事的な権能と手段を丸ごと請け負うことになったのである
それは曲がりなりにも朝廷の管轄化にあった国家的な軍事機能が、鎌倉幕府によって自律的に掌握されるようになったのであり、武家政権としての鎌倉幕府の画期性もこの点に認められるのである。   
   
     
      土一揆から応仁文明の乱へ 人々は時代の条件にあった戦いを敢行するのだ!
 1450年代以降になるとほぼ3年おきに土一揆の蜂起が見られるようになり、連年、京都が襲われることもあった。
幕府は大名軍を派遣して鎮圧や防御に努めたが、幕府軍が破れ京都の町が土一揆の略奪に晒されることも度々あり、土一揆の軍事力が相当なものであったことが伺われる。土一揆の実態は京都の周辺の惣村であった。
15世紀半ばに相次ぐ天災により飢饉が頻発し、京都周辺の村々は京都の金融業者(土倉、酒屋)からの借財に苦しんでおり、そうした苦境を打開するためにそう孫が軍事的に結集して京都を襲ったのが土一揆であった。
しかし土一揆勢中には大名の被官や幕府に使える下級武士なども含まれており、土一揆の構成や性格は複雑なものがあった。
 
   
      応仁、文明の乱(1467年勃発~1477年先の戦争で焼けてしまいました。京都人。
 戦闘そのものに目を向けると大名同士が本格的に交戦したのは最初の数年のみで、乱の大半は京都における略奪に終始している。
コレは大名たちの戦力の中心が足軽たちであったことと無関係ではない。
彼等にとって東軍と西軍の対立や両派の頭目である細川勝元山名宗全のしはどうでも良いことであった(いずれも1473年)。飢饉という極限の状況からどのように生き延びるかが彼等の最大の課題であり、その手ごろな解決策が略奪だったのである。
応仁文明の乱は、東軍対西軍という名を借りた<土一揆>でもあった。

      
       徳川の平和と近世軍団 徳川時代は巨大な軍団が全土に駐屯した如し~。
 近世軍隊における軍事的役割は近世身分編成の原理となり、武士と奉公人、百姓や職人を基本的に弁別するものとなった。
コレは近世的な兵営国家であり、あたかも巨大な軍団が全土を支配するため駐屯したごとく、抑圧的で専制的な支配体制が固められていった。

     
      外征軍隊としての「国民軍」の建設
 1874年奈良の山中の一農村、田原村から徴兵令による最初の兵士が入営の日を迎えた。(精神の未開地に残った記録がこれから参考になっていく)
しかし彼等の旅立ちは決して後のような盛大なものでなかった。
村人たちは彼等を「大阪鎮台に云ってくれるて、ご苦労なこちゃ、~コレも弟(長子徴兵免除)だったら行くとこやが「鎮台はお武士のことやから。」、とまるで他人事のように送り出したのである(帝国在郷軍人会田原村分会、「従軍記録」)
村民たち、そしておそらく当の兵士たちにとっても戦争とは武士の仕事であり、いきなり当事者意識などももちようもなかったのである。(東アジア的な国と住民の意識のニ分解で悪いことではない。余計な政治意識なら、意識的個人の原理による政治無関心の方がマシ。問題は近代意識欠如の自我の白紙状態が支配者にとって、白いキャンバスになった、ということであるが、責められない。政治思想のと政治あり方の問題に絞られる)
 ところは行くたびかの対外戦争を得て戦士の見送りは熱狂的なものへと変わり、やがてその熱狂の中で日本は世界を相手の大戦争に突入、筆舌に尽くしがたい惨禍を国内外にもたらした。
なぜ、そのようのになったのか。
戦争シンドローム的思考形態で間違い。民主政には戦争はつき物である。その中で民主政を維持コントロールしていく。コレが実情だ!)
   
           
       士族反乱西南戦争
 明治政府は四民平等を建前に、武士の特権を徐々に奪っていった。
徴兵令で戦争に担い手という存在意義をうばられ、
~身分に応じ国債が渡されたが、要するに手切れ金であり、特に下級のもの額が少なかった。
政府に対する士族たちの不満は高まって言った。そこで彼らの不満をそらそうと政府部内で唱えられたのが征韓論である。
 朝鮮を侵略支配して欧米列強に備えようという議論は吉田松陰のように幕末より存在したが、士族に活躍の場を与えるためにコレを進めようとする西郷隆盛と、内政優先の立場から反対する大久保利通派の対立が高じ、結局最後裏が下野する事件が起こった。1873年。未開武士のリアリズム感覚濃厚
 
 1874年、明治7年、日本は台湾に漂着した琉球漁民が原住民に殺害されたため、その報復、漁民保護を口実に台湾に出兵した。
清国は大久保利通が北京に乗り込んで外交交渉の結果、日本の出兵を義挙と認めて賠償金を払ったため戦争にはいたらず、琉球の日本への帰属が確定した。
>>1878年、明治11年、琉球半を廃止し、沖縄県を設置した。
  
            
       軍政ー軍令機関の変節
 1878年、陸軍は普仏戦争に勝利したドイツに倣い、従来の陸軍省外局、参謀局を廃止して参謀本部を設置、軍政機関から軍令機関を独立させた。
作戦に関しては機密保持迅速を帰さねばならないというのが理由
であったが、作戦に対する政治介入を退け、軍の独善性を招いたとして悪名高い統帥権独立の端緒となった。
   
 
        対外戦争への軍備拡張
 1890年、明治23年、金鵄勲章が制定された。償還から兵卒まで先行を上げた軍人に終生年金が付いた。
広い意味での対岸戦争の準備と見ることもできるだろう。
 >徴兵令も服役年限延長、免疫事項縮小の方向で数次に渡り改革が行われた。
1879年、明治12年第1回大改正では服役年限を10年(常備軍3年、予備軍3年、後備軍4年)に延長、免除条項も例えば戸主は国民軍以外、免役にするなど縮小された。
1883年には服役年限を12年(現役3年予備役4年、後備役5年)に延長、現役志願制を導入した。従来戸主などに広く認められていた免疫性は身体上の理由によるものを除きは廃止、徴収猶予制へと改められた。(まるで兵営国家だ!)

           
        日清日露戦争
 前出の奈良県田原村では戦後一兵卒から立身して従軍、3人の清兵を切って凱旋した村出身の憲兵中尉のために盛大な歓迎会を行った。中尉は席上で実践談を語り、最後に
今後日本はまだまだ他国と戦争せねばなたぬと想うから、お互い国家のため、不断の努力を怠ってはならぬと想います」とのべたという。(帝国陸軍在郷軍人会田原村分会)
徴兵令20年、もはや戦争はかつてのような「お武士ごと」ではなかった。
日清戦争では全国各地で義勇兵志願者が相次ぎ、天皇のしちょくでようやく収まるという一幕もあった

>初の対外戦争勝利という高揚を通じて軍人は郷土の誇り、英雄となり、人々は国家の運命と事故のそれを一体化させて考えるようになっていったのである。(何しろ白紙のキャンバスですから)
   
             
       銃後の諸相と戦争体験の語り方
 奈良県田原村出身の陸軍工兵Ⅰ等卒は、「シナに渡りて、もっとも深く感じたのは、弱国の悲哀ということです。それが自国を戦場とされたシナが、広大な耕地を蹂躙されながらいとことも不服を唱えず、なお私たちの使役になり用材の運搬等に従事したことです~
弱国の国民に対して深く同情し、わが国民の幸福を感じました」と述べている。(このイデオロギーパターンは今も普遍。そこに留まっているうちはいいが、内向き独りよがり排他的になる。)
確かに彼は戦争を悲惨なものとして語った。ただしそれは、「だから戦争は決して負けてはならない」「わが大日本帝国はありがたい」という文脈においてのことであり、聞くものもそう受け取ったであろう。
戦前日本社会の末端で、どのような戦争像がいかなる経緯で形成されていったのか伺わせる
、興味深い事例といえよう。
当時の社会末端における戦争体験の語られ方とは、戦争は「悲惨だからしてはならない」というのではなく、「悲惨だから負けてはならない」というものだったのである。(今も根っこは、変わっていない。悲惨だからしてはならないということもあるが、最終的なマイナスの付けは国民が全部被る。誰のための戦争なのか)
   
             
       兵士たちの軍へのまなざし
 日露戦争という実戦経験をその反省の中で、捕虜となることも兵士にとっての禁忌とされていった。
例えば1914年大正3年、陸軍は既存の「野外要務令」を陣中要務令と改正して緊急の場合、味方の負傷者を敵にゆだねて退却することを認める規定を削除した。
市販教科書の「歩兵教程」では、「不慮は博愛の心を持って取り扱い決して侮辱虐待するべからず」と教えている。
 現代に一部イメージと違って戦前の兵士は捕虜の扱いをまったく教えられなかったわけはがない
ところが同書は続いて「われありて断じて敵軍に降伏し俘虜となるが如き大恥辱、大卑怯の行為あるべからず」「瓦となって存せんよりもむしろ玉となって砕けよ」と教えている。
約30年後の太平洋戦争の随所で見られた玉砕の思想はまさにこの時点で芽生えていたのである。
さらにいえば、自ら捕虜となることを恥辱視した軍隊が敵軍のそれを「博愛に心を持って取り扱う」はずもなかった。
>重要なのは、こうした改革が日露戦争という<教訓>に即して行われ、ゆえに合理的であると信じられたことである
   
          
         第一次大戦の衝撃とシベリア出兵
 ヨーロッパの戦場では、当初こそ伝統的な歩兵の銃剣突撃が行われた。
しかしそれはたちまち機関銃や重火器の弾幕で一掃されたため、両軍とも塹壕を掘ってにらみ合う長期戦に突入した。又海でも潜水艦が通商破壊に活躍するなど、戦争はその国の工業力の相対的質量を競ういわば総力戦の様相を呈した
急速な進化を遂げた飛行機が相手の年を空襲し、前線と後方の区別もなくなってしまったが、日本軍はこうした流れから取り残された。
このため政府も国家総力戦体制構築に向けて政策をいくつか行った。
>1918年、大正7年、戦時の政府は工場、土地家屋、従業者の使用供用、国民の召集徴用を命じる軍需工業動員法を制定、
>1927年には、人的物的資源の統制運用を行う資源局を内閣の設置したが、ほとんど戦争らしい戦争をしていない以上、総力戦の前面開花は昭和戦時期(日中戦争)を待たねばならなかった。
   
             
       
       反軍平和思想への対抗
 この時期強調されたのが日清日露戦争という歴史の記憶であった。
日清日露戦争という栄光の過去を、軍隊の存在理由を忘れがちな同時代への対抗策として象徴化する発想とそれを受容する真理基盤が存在していた。
   
 
       建艦競争と海軍軍縮
 1921年大正10年度の国家予算のうち陸軍予算は16,5%。海軍予算は31,6%。合計の軍事予算は国家予算の実に48,1%に上っていたのである。
このような建艦競争はどの国にとっても、国家予算を破綻させかねない危険性をはらんでいた。そこでイギリスは日米仏委に主力艦の制限条約を提案、1922年ワシントン海軍軍縮条約が結ばれた。
  
            
       軍縮期の陸軍とその社会観
 第一次大戦戦後の陸軍も、軍縮を求める世論の前に、大規模な軍縮を強いられた。
1927年、昭和2年、りくぐんは明治初年以来の徴兵令を兵役法と改めた。現役服役期間は2年と明記した。
青年訓練所の課程(4年教育)を終えたものは1年半とする得点が与えられた。
1929年、廃兵などの処遇する軍事救済法改正。
この時期に陸軍は社会との融和を通じて危機乗り切りを図っていたことが読み取れる。
   
 
        満州事変
1933年国際連盟総会は満州における日本の既得権益は認めつつも、満州国を否認する内容のリットン調査団報告書を採決、日本はコレを不服として連盟を脱退した。
代表の松岡洋介は意気消沈して帰国したが、待っていたのは国民の熱狂的な歓迎であった。国民は事変を<国益>の確保として支持していたのである。
  
               事変期の社会と戦争観
 岡田退役陸運中佐、文芸春秋1932年刊<軍事科学講座、軍事政策>
日本が今後の戦争をどう戦うべき議論がなされている。
大維持自体戦後の平和な雰囲気を引きずる社会には、平時の兵員数を極度に減らして軍備を節約し、その余力を持って産業を振興し、有事の場合には国家総動員を粉って、大群とコレに要する
軍需品を作ればよいとする論者もあるがこれは不可能であると断言する。
日本軍は欧州の線上に直接参加しなかった結果、列強に比して著しく装備も工業力も劣ったままである。
 隣国特に露米両国は国土が広大で、その政治産業の主要地を奪取して続戦の力を奪い、速やかに屈服を強いることは地理的に不可能である。
だから線上に現れる敵国軍隊艦隊を殲滅し、戦闘力を根底から崩して戦意をくじくより他に方法はない。
つまり速戦即決しか国力の劣る日本が勝利する道はないと主張する。
(時代に即したまともな戦争観とは思えない。コレは遊撃戦の戦争観であり、将門の時代と本質的に変わらない)
 日本人口は年々増加しつつあるにも拘らず、移民に適当な地域では、不自然な排斥を受け商業的発展を阻止されつつあるし、国民生活に必要な資源さえも海外に仰がねばならない状態にある。
「だから世界側が民族に対して現状維持をしうるならば、我等は生きんがために世界に向かって生存権を主張せねばならぬ。コレがために武器を取らねばなたないならばそれは余儀ないことである。」
(勝手な自衛戦争論)
彼がここで主張しているのは疑いもなく満州事変の正当化である。
そうした考えは決して国防方針のような極秘のものでも、軍部だけの独善的なものでなく、人々にとっても馴染み深く納得しうるものであった。
1945年の惨状などこの時点では誰も知らなかった。
田原村従軍史録
内容 土民も皇軍になつき云々~宣伝臭強く、取り上げる意味なく、省略
従軍者にとっても事変は疑いもなく正義の戦争だったのである。
  
                 
        日中戦争 コレを結節点に大きく内外情勢は変わっていく。全ての客観的な資料が物語る。
 1937年7月7日。北京近郊で夜間演習中の日本軍舞台に何者かが発砲、コレをきっかけに日中両軍は全面戦争に突入した。政府の不拡大方針を無視する形で現地軍は戦闘を拡大、南方の上海でも戦闘が起こった。
コレに伴って戦争の名称も北支事変からシナ事変へと変わったが、結局、正式な宣戦布告はされなかった
宣戦布告してしまえば、アメリカが中立法を発動し、日中双方との必要な物資の輸入ができなくなってしまうからである。(名和統一のアメリカ、英領、蘭領アジア、占領地を含めた日本経済圏の相互循環貿易構造論はよくまとまっている)
陸軍は12月国民政府の首都南京を陥落させたが、この課程で南京虐殺事件を引き起こした。
   
       
       銃後の諸相と兵士たち
 1937年、軍事救護法が軍事扶助法に改称され、困窮遺族家族の生活援護を行った。
在郷軍人会や国防、愛国婦人会による出征兵士見送りや、戦死者の市町村葬も極当たり前の光景となっていった。
戦線の拡大に応じて陸軍は1940年ー135万人、41年ー210万人へと急膨張したが、それは現役兵より高齢で家族と仕事を抱えた予備役兵を大量動員した結果であり、結果的に軍全体の質の低下を招いた。
1939年、全国市町村に銃後奉公会なる団体が設立された。
会長は首長、会員は区内各戸主として会費を徴収、地区ぐるみで国家の援護を補完すると共に兵士や遺族を慰問激励しその士気を高めようというのである。
  
             
       対米戦争に向けての海軍拡張
 1937年海軍はワシントン、ロンドン両条約を破棄を向かえ、急速な戦力増強を図った。
両国の計画がそのまま実現すれば、41年には日本が対米7割の戦力を確保できるものの、それ以降は急激に差が開き、45年には対米4割にまで低下すると予測された。
質だけでその差を埋めるのは困難とみなされ、そのことが{開戦するなら早いほうがいい」との考えを海軍内に芽生えさせた。(結局軍人は単純思考)
   
                
         対米開戦の決意
 対米戦争が広大な太平洋上の戦争である以上、海軍が不可能といえば本来は戦争はできないはずだった。
しかし海軍はそうは言わなかった。一部の強硬派を除き多くのものが内心では勝利の見込みに乏しいと想っていたのだが、長年アメリカと戦うからといって多額の予算を獲得しておきながら、いざとなったら戦争はできないなどとは、官僚機構の存在意義にかかわることであり、到底いえなかったのである
 そんな海軍にとって血液とも言える石油の禁輸は重大な意味を持った
このままでは備蓄を食い潰し、対米建艦競争においても差が開く、という切羽詰った認識の中で、9月6日の御前会議で、12月上旬までに要求貫徹のめどが立たなければ、直ちに開戦を決意するとの決定がなされた。
 対米戦に内心反対でありながらそれを押しとせなかった近衛首相は10月16日、内閣総辞職の道を選んだ。
1941年11月、佐賀県佐賀市地区婦人会報、記録集、<嗚呼忠烈>記載、国民学校校長。
蒋介石政権は言うに及ばず英米の如き敵性国家群をことごとく粉砕して、大東亜の新秩序を建設し、わが国三千年の歴史をして永遠に光輝あらしめなければなりません
   
                      
        太平洋上の玉砕
 陸戦においても彼我の火力の格差は明らかであった。
例えば、日本軍の38式歩比重、99式小銃は一発撃つたびにレバーを動かしてから薬きょうを排出する操作が必要であったのに対して、米軍はそれがいらない半自動小銃M1小銃を採用していた。
「相手は自動小銃。打ち合いをしていたらこちらは負ける」「ジャングルがあり、これを子くれみのに敵に近づき、油断しているところを突然攻撃して、さっと引くから戦争になっていた」
(第6師団の終焉)
   
                   
       1943年9月絶対防空権設定
 戦線を小笠原、マリアナ諸島、西ニューギニア、スンダを結ぶ線まで縮小させる代わりにコレよりうちに米軍を一歩も入れないとの決意を示した。
マリアナを失えば日本レットノン大部分は米軍の重爆撃機B29の空襲圏内に入り戦争継続は不可能になることがわかっていたからである。
  
                       
       サイパン陥落と本土空襲
インパール攻略作戦ー44年春
 相次ぐ太平洋方面での敗北の中、どこかで1勝をあげたいという焦りもあって開始された作戦は当初こそ順調に進んだが、豪雨と当初から危惧されていた補給の欠如、対するイギリス、インド軍の圧倒的な火力、補給力、航空戦力のため、参加兵力10万人中、死者3万人、戦傷病者4万五千人を出して総退却という惨憺たる敗北に終わった。
44年4月中国戦線(大陸打通作戦
 約41万もの日本軍が約2000キロの距離を南下、中国軍との激戦の末、各地の飛行場を占領、12月味方の南方軍との連絡を成立させ作戦は一応終了しあものの、
ここでも補給の軽視貧弱な衛生施設のため多数の戦傷病者、餓死者を出した
しかし作戦終了以前にマリアナ諸島が失陥、米軍は同地に飛行場から多数のB29を日本本土に発信させていたから戦略的には無意味な作戦だった。
>この日本軍補給軽視は全線戦に共通のものだった。(速戦即決の遊撃戦程度だから、仕方がない)
日中戦争、太平洋戦争における広い意味での餓死者数(栄養失調ー体力低下に伴う病死も含む)は、全戦死者230万人の実に過半数、140万人に上ったとの推計がある。 
   
             
       フィリッピン戦(レイテ島の海陸戦闘)と体当たり攻撃
>レイテ島戦闘ー大本営の過大な戦果発表に自縄自縛された作戦立案の典型。残存大艦隊に丸ごと自決を強いている。自暴自棄は日本大本営。日本人のイデオロギーのあり方がよく出ている戦局。

 米軍は44年10月20日レイテ島に上陸した。主としてマニラのあるルソン島の攻略にための航空兵站基地の建設が目的。大本営陸軍部は関東軍の精鋭、第一師団、戦車第二師団の増援部隊を派遣、
 現地軍の戦力集中するルソン島決戦の要望を退け、レイテ決戦に踏み切った。
 
>その理由は海軍航空隊のの超過大戦果発表(米空母11隻、戦艦2隻撃沈、に煽られ「米軍のレイテ島上陸は自暴自棄的なものであるから一気に、ここで叩いて1勝をあげたいと考えた」としている。
実際の戦果は重巡洋艦2隻大破。
>陸軍に連動して海軍も艦隊航空隊の総力を挙げてレイテ島の輸送船団の攻撃を図った。
残存空母部隊を囮にして米機動部隊をフィリピン北方に誘い出し、その間に3中将の指揮する3艦隊が各方面からレイテ島を目指す作戦。
(レイテ湾突入を目指すというのだから、戦艦大和の沖縄出撃の前哨戦のような作戦企画。が、帰還する燃料を積んでいるから、湾内に突入するはずの主力艦隊のUターン戦線逃亡が発生した。)
>結末は囮作戦にこそ成功(?壊滅!)したが、肝心のレイテ湾突入は栗田中将率いる戦艦大和長門以下主力艦隊が反転、退却したことで失敗に終わった。
作家大岡昇平は退却は恐怖心にかられたとしている。(レイテ島戦記は綿密なレイテ戦争の記録。途中で読書放棄。名作「俘虜記」はレイテ島で栄養失調マラリアの身で彷徨し捕虜になる結末までを描いている。生き残った作家として、レイテ島戦記は書き残して起きたかった執念の作。)
>囮作戦だけが成功の結果ー囮部隊4空母撃沈(当たり前)。
その他、被害甚大で、連合艦隊はもはや海上戦力として体をなさなくなった。
>神風特別攻撃隊
 敗戦まで6000人余りが出撃し二度と返らなかった。(人間魚雷<回天>小型艇<震洋>を含む)
しかし逃げ回る敵艦船に飛行機で体当たりするには高度な操縦技術が必要であるにも拘らず、技術未熟者を多数特攻要員にしたため、命中率は必ずしも高くなかった。(当たる以前に接近する途上で撃墜!)
よしんば命中したとしても、特攻機の搭載した爆弾では十分な破壊力は得られなかった。本来爆弾は航空からの水平爆撃、又波及効果爆撃によって十分な加速をつけない限り、敵艦の走行を貫通できなかったからであり、
事実、戦艦や正規空母など大型艦船は敗戦までついに一隻も沈めることができなかった。
>(そもそも、大半は艦隊に接近する時点で、対空砲火やレーダー作戦無線完備、航空機の防空体制によって、撃墜されていただろう。)
    
     
              降伏
日中戦争から太平洋戦争にかけての日本人死者は軍人軍属230万人、民間人約80万人、計310万人にのぼった。線上となったアジア諸国の死者は約2000万人との推計がある。

         
        朝鮮戦争 
 日本はこの戦争を通じて米軍に多額の物資や労役を提供、コレが後の高度成長の端緒となった。
だが、日本駐留の米軍が多数朝鮮半島に出動していたため、治安維持国土防衛の観点から開戦直後の1950年7月マッカーサーは日本政府に7万5千人の警察予備隊を設置することを許可した(事実上の命令)
警察予備隊は旧軍人を排除して文民を幹部としたが装備は米軍のものを供与され、指揮権も米軍の軍事顧問団が握っていた。
 
 又このとき、海上保安庁(1948年5月創設)の8千人の増員も指示された。
海上保安庁朝鮮戦争時、北朝鮮海域に極秘のうちの延べ1200人の掃海隊を派遣して機雷処理に当たり、一人に死者を出した。