反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

「土一揆の時代」神田千里。稀有の支配層の相克の歴史ではない土一揆、から百姓一揆、明治新政反対一揆、パリコミューン、<現代の象徴としての武装の消滅、メッセージ力の消滅>までを論じた稀有の問題提起の書。

 前回の記事で取り上げた日本軍事史で唯一、軍事史に記述されていたのが、応仁の乱前後(1567年~1577年)に当時の日本の天下であった京の土倉(どそう。端的に言えば、質物預かりの蔵に象徴される質屋)を巡る借財減滅を巡る諸階層の経済闘争である「土一揆」であった。
そこには、秀吉刀狩や百姓一揆、さらには、明治維新前後のそれまでの百姓一揆に無い武装を前面に押し出した一連の一揆群がないことに大いに不満だった。
 勿論、日本軍事史は古代から現代の安保ガイドライン設定までの通史であるから、各章を担当した歴史家の共通の歴史認識として、それらは論じるスペースがないと判断されたものといえよう。
 
 ただ唯一、土一揆だけが)従来の定説(戦後史観に基づくもの)とB)新しい研究成果を付け加えて、アウトラインが示されている。
  引用。「日本軍事史」ー土一揆の簡潔、適切な解説でもあるー
「1450年代以降になるとほぼ3年おきに土一揆の蜂起が見られるようになり、連年、京都が襲われることもあった。
幕府は大名軍を派遣して鎮圧や防御に努めたが、幕府軍が破れ京都の町が土一揆の略奪に晒されることも度々あり、土一揆の軍事力が相当なものであったことが伺われるA)土一揆の実態は京都の周辺の惣村であった。
15世紀半ばに相次ぐ天災により飢饉が頻発し、京都周辺の村々は京都の金融業者(土倉、酒屋)からの借財に苦しんでおり、そうした苦境を打開するためにA)´惣村が軍事的に結集して京都を襲ったのが土一揆であった。
 しかしB)土一揆勢中には大名の被官や幕府に使える下級武士なども含まれており、土一揆の構成や性格は複雑なものがあった。」
 
 仮に自分が日本軍事通史を書くとすれば(そんな能力は絶対にないが)江戸時代の250年間、約4000回に及んだ百姓一揆明治維新前後の殺傷武器を所持、使用した一揆群と、勿論、秀吉朝鮮侵略政権による刀狩の吟味に踏み込んだであろう。
(江戸時代の百姓一揆の資料総覧は<青木(名前の漢字読めない)編「編年百姓一揆資料集成」三一書房、1979年刊(記憶では1巻~10巻はあったと思う。
当時、必要があって一揆に興味があったので買っておこうと思ったが、カネが乏しく中止した。その後、古書フェアーでも見かけたことがないが、文書記録と簡単な解説が付きの一揆を論じる際の研究者必須の書であるらしい」
 
  理由は簡単である。
公式に書かれた歴史は支配階層の歴史(と、断定!)であり、歴史資料、文献として各所に原本として残され、職業的歴史家はそれら読み込み刷り合わせて、歴史像を形成せざる得ない、と思うが一庶民として現代に生きるわたしは、彼等の研究成果を尊重しながら、自分の立場で歴史観を形成して行きたいと常々志向している。
  簡単な実例を挙げる。
その1。この科学的検証の大切な時代に天皇陵の発掘できない日本歴史学に疑問を持つ。
勿論、墓暴きに固執するような低次元の問題でない。戦前の皇国史観(コレも極端に走った支配層の歴史解説)をいくら否定しても、現実の物理的政治力に配慮して、異論があまり出ないのはどうしたことか?
しかも、そうしたサンクチュアリ状態が日本史上一貫しいるのならまだしも、主催側の管理放棄に基づく盗掘、庶民の遊山の場への転化など放置状態が余りにも長期に渡って、目ぼしい遺物はほとんど、残っていないと想定されのである。いうなれば、中身が空っぽの儀式、形式など外形のみをサンクチュアアリ状態にして、イデオロギー的支柱にした明治の近代国民国家形成の根幹の検証を試みない。
それで他所の国に行って、他国の王の墓暴き、探査を考古学と称して、やっており、国民規模でもその陥穽にまったく気づかない。
>空中戦に精を出しても、地上の戦い突破力がなければ上滑りになる。その欠陥は歴史の曲がり角で噴出する。
 
その2。その1の姿勢とも密接に繫がるが、例えば、ウィキの<大化の改新>。
概要の最後尾は次のように書かれている。つまり考古学の実証に基づく、論争の結論である。
1967年12月、藤原京の北面外濠から「己亥年十月上捄国阿波評松里□」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡が掘り出され郡評論争に決着が付けられたとともに、改新の詔の文書は『日本書紀』編纂に際し書き替えられたことが明白になり、後世の潤色があることが判明している。」
 
 ところが日本の歴史学らしい肝心な問題に関する、折衷主義による曖昧な落としどころがキチンと用意されている。
 「しかしながら、大化の改新とは、645年から650年までの大化年代だけの改革に限定せず、~専制統治化を通して行われた一連の改革のこととする説が最近では根強い」
律令制度が完成したのは、大宝律令からであり、その大宝律令と重ね合わせて解りやすく日本書紀』には記述した可能性が高い。これは藤原不比等が、父親である藤原鎌足の功績を高く評価させたためとも考えられる。」
 この解説は最近、登場したものと思われる。それ以前は概説の「後世の潤色」との断定は、大化の改新があたかも日本書紀の記述通りにあったかの解説と併記されていた。その点の修正に今度は訳のわからない、落としどころが用意されている。
>概説の結論で後世の潤色とし、大化の改新の疑問点とまでしているのだから、当然、唐の律令制に倣った日本型律令制の出発点の特殊な支配構造も記述しなければならないはずであるが、立ち入った説明は無い。
こんなものは自分の判断では現代版皇国史観に属する解説である。
日本型律令制を見方次第では、その後の武人政権の歴史的位置付けも大きく変わってくる。権門体制論と東国武士政権の画期的性とその後の武士政権の評価の違い。
最近の権門体制論は現代天皇制擁護論に密着する言説が目立ってきているが、かつて実質的提唱者である有名な歴史家の黒田俊夫さんの論文集の記憶では、論の骨格、筋書きは、戦後史学の荒っぽい中世史の論述の中身を補強するものであったように思う。
つまり、後代の研究者が唯物史観が否定されたからといって、彼の体制論という枠組みだけを抜き出して、現状維持を読者に納得させる解説に摩り替えている。一種の予定調和論の出来上がりである。
 
 その3。同じく、ウィキ。1923年関東大震災に際しての朝鮮人大量虐殺事態。
以前は、はっきり警視庁公安幹部(役職名はそのようなものでなく、きちんと指定されていた)の正力松太郎という人名を、デマ情報の出所と明記していたが(歴史的文書から明らかになっているものと思われ、自分もなんとなく知っていた)治安機関の動向の解説に重点が置かれ、しかも最後は問題の所在を一般的な流言飛語に治めグレイゾーンにするかのごとき工作が施されている。
 
 ウィキの歴史解説は肝心なところでほぼ、こんなところに落着させている。
そういうグレイゾーンの幅が広くなれば、今現在の人間としては、当然の思考として本当のところが知りたいと欲するはずである。
日本人ほど歴史に興味旺盛な民族は少ない、とみる。
 さらに、史実とかけ離れた歴史物語の公然流布の余地が送り手受け手双方に生じる。
国営放送局は一貫して、ちょんまげ物語をゴールデンタイムに垂れ流し続けている。何時頃からそういうことをやり始めたのか調べると面白いが、あり得ない事態と考える。
終いに材料に事欠いている有様で、一種の洗脳であることは間違いない。近年の送り手はそのつもりでやっていると思う。
 
 最期に、歴史解釈と政治行動の中身、あり方は直接の関係が無い。
しかしながら、自分の得手の方向から事に当たっているに過ぎない。
 
 >という以上のような長い前説が、この課題を民衆史観を確立するという大それた立場から取り扱う場合、どうしても必要なのである。
 
 したがって、「幕府は大名軍を派遣して鎮圧や防御に努めたが、幕府軍が破れ京都の町が土一揆の略奪に晒されることも度々あり、土一揆の軍事力が相当なものであったことが伺われる」という支配体制に軍事的に強く影響を及ぼした切り口からの、指摘した百姓一揆などの歴史事象の省略はあり得ない。
 
パックストクガワーナの過半の時代総体を次のように軍事論として総括する歴史観には賛同する。
江戸時代研究は何時の日か甘い方向に刷りかえれれて行った、と見る。
徳川の平和と近世軍団 徳川時代は巨大な軍団が全土に駐屯した如し~(このサブタイトルはW作)。
 近世軍隊における軍事的役割は近世身分編成の原理となり、武士と奉公人、百姓や職人を基本的に弁別するものとなった。
コレは近世的な兵営国家であり、あたかも巨大な軍団が全土を支配するため駐屯したごとく、抑圧的で専制的な支配体制が固められていった。」
となれば、この時代における百姓一揆は例え武装程度がそれまでの土一揆のような武士並みの殺傷力のある武器を携帯していなくても、一揆する百姓にとっては命を掛けたものであり、今風の改良闘争やデモ行進とは次元が異なっているいわなければならない。
また、承知のように江戸初期を除く中期後期は日本歴史上、稀に見る異常気象(小氷河期?)に見舞われた時代であり、列島に駐屯した巨大な軍団を養っていくためには惨禍を民に強いた。
そういう彼我の関係が続けば、自然と相互の理の相互了解事項も出来上がって行くものである。
つまりは、結果的に百姓一揆の役割の性格付けも、相互に認識されるようになる。
それが、相互の武器の制限と時代条件に沿った生存維持を賭けた改良闘争としての百姓一揆の定着と結果する。
「百姓は生かさぬように、殺さぬように」が支配層再生産の常道あれば、「水のみ百姓」は飢餓に直面し、そんな境遇のものが、集住すれば、命がけで立ち上がろうとする。人間生命体としての当たり前のどうりである。
 
 現在の愛媛県宇和島市三間町の戦国時代の武士領主は海を越えた大友勢や近隣の土佐勢の収穫期を狙った乱捕りや天候不順による領域内での飢餓者の続出、山中の蕨焼きの根っこを当てにする住民の生活状況に至って、初めて、城内備蓄の兵糧放出を決断したことを大英断のように記しているが、そのような領主の基本姿勢がパックストクガワーナの全土巨大軍隊駐屯状態において、自ら改められたとは考えられない。
 
 住民には生きんがためにの戦いが必要だったのである。
そしてその対象が現地駐屯の絶対的軍事勢力であれば、当然、いくら彼我の間で常態化いているとはいえ自らの戦いに自己規律と攻撃的効果を含めた軍事的配慮を働かせないわけには行かない。
著者の次のような江戸時代の百姓一揆の認識には疑問がある。
「既に島原の乱で見たように戦乱に際しての村の行動を統括していたのは庄屋層である。(W。土一揆の時代は惣村のまとまった自治機能を基盤とした蜂起というよりも、軍事鍛錬をしている中核部分の指導する群衆蜂起。その意味で島原の乱は最期の土一揆だが、村側には既に庄屋層による土一揆適応体制が戦国時代の大名の村住民最上層の取り込みによる軍事動員体制を経て形成されている)
~だが戦乱が遠のいてみれば、コレまで庄屋層が一般村民に対して持っていた式や始動の権限が過剰な鑑賞に見える事態は容易に想像できる。村民たちは庄屋、年寄りとの新しい関係を求め始めていたように思われる」
>「領主思想もまた、平和な時代に相応しく~村民の集団行動に対して力づくで弾圧することなく、ことに百姓一揆が鉄砲を武器として使用しない限り、鎮圧する側も鉄砲を向けないとの原則があったことを指摘されている」
W。こんな当たり前のことをことさら、確認する政治感覚を問う。が、大規模な百姓一揆の指導者の斬首と参加大衆の軽罪による放免の分断戦略があり、結果的に一揆作法は統治システムに組み込まれたが、一揆という流血と生命をかけた本質は変わっていない。
百姓一揆のほうも鳴り物としては鉄砲を使用していた。領主が村民に銃を向けるなど、よほどのない限り、起こらない事態だったという事情が伺える」
 
「このような時代に一方で、武装を事とする一揆は非合法なものとして無条件に禁止されていた」
 
>「明治5年、1872年岩倉使節団随行してパリを訪問し、~江戸時代の伝統的観念の中で育った久米にとって、プロイセンとの妥協を図るティエールの政府に反逆して武装蜂起したパリコンミューンは、まさしく<一揆>であった」
W。久米の前年のパリコミューンの感想は著者に記す限り、次の通りであり、そこから、上記のような結論を抽象化できるものか?疑問である。
「その後、コンミュンの乱とて国内一揆起こりて、政府に抵抗し、不忠の大乱となり、そのときの民党の一揆ども、大砲を乗せて砲台となして北に向いて~射て拒戦なしたるゆえに、政府やむを得ず、砲をかけて払いのけたり」W。以上の文言から受ける印象は大争乱にける彼我の軍事判断による武器使用を出るものでない。
 
>それを<江戸時代の伝統的観念>から逸脱した事態への驚きという方向に理屈をもって行けば、以下のような袋小路に思考の陥る。
 
      <象徴の武装と殺戮破壊>との小題をつけた論考の思考の袋小路。
「以上のような社会状況の変化を背景として(パックストクガワーナの強収奪を語らない彼我の一揆作法の時代条件に沿った、必然的な変転)民衆は土一揆ないし一揆と決別??したと考えられる。」
「訴訟を企てる民衆も、コレに対処する支配層も、直接的な殺傷破壊を目的とした(W。直接的という言葉の使用によって、首謀者の斬首と参加者の分断の常態化を摘出していおらず、完全な現代平和症候群=裏返しの戦争危機症候群)武力行使することは例外的な場合しないという傾向が、日本人の乱世からの脱却を切っ掛けとして社会の様々な場面で浸透していったと考えれる。
そして均整問い言う時代を通じてこの傾向はおそらく支配的だったと思われる。」
W。こうして現代風平和症候群=戦争危機症候群によるパックストクガワーナ解釈という江戸時代総括は完成した。パックストクガワーナは東アジア規模の鎖国と一体のものであるはずが無視されている。それで明治維新との歴史のつながりはどうなるのか?
 
 著者は江戸時代の一揆を<象徴としての武装>という無理な解釈を施して、強引に1960年代の街頭デモに連想させていく。
「しかし社会のある部面では、戦後の高度成長期に至るまで日本では行き続けていたとも想像され、1960年代の街頭デモ、象徴的武装を強調??した学生デモなどに共通する思考を持っていたように想像される」
 
そういう認識から現在を考察すれば、
>「20世紀末に向かうにつれ武装の象徴的意味は無視され、暴力はあくまでも武装でしかない、問い割り切った欧米風の思考??が日本のみならず世界を席巻するようになった。」
W。相当強引な事実を蔑にした決め付けが必要になる。
 
さらにその論法で<<米国流のテロとの戦いの現在の日本流の抵抗闘争の当てはめ理解の現状>>に主題を進めるとこうなる。
「非常手段?に訴える自己主張はなんであれ、非合法な暴力ないしはテロとみなされ否定され、公然たる言論以外の正統なものとみなされるkとはないからである」 
W。欧米の現状では今も実力闘争は現存しており、こんな極端、矮小、極度、の自己規制の大衆運動観には至っていない。
 
>「このような世界的風潮の中で(W。日本事情の特殊性ではないのか?転倒。)日本の社会もまた百姓一揆の思考から脱却していったものと想像される」
 
>そして日本の大衆運動事情に対してリアルな説得力ない次のような空論にいたる。
「20世紀後期移行の、日本人の行動様式はまた変化の時代を迎えつつある」
W、仮に欧米化によって百姓一揆的大衆運動の行動様式が衰退していったとしても、その欧米の先進国の大衆闘争の賑やかさ行動力は日本の比ではない、のはどうしたことだろうか?
むしろ、日本だけが別のところに進んでいるといって過言で無い現状だ。
 
>最終結論は行動力がないにも拘らず、「言葉やメッセージの力はかつてなぜか(W。著者のような弩壷にはまる思考パターンも加担しているようなもの!)に比べて目に見えて衰弱してしまった」
「暴力は単に暴力でしかないとの思考が支配する、21世紀を迎えた現代社会を見ると~
その代わりに残虐で大規模な殺傷、破壊のみを目的と下物理的暴力が却ってその分だけ、より大きな力を発揮し始めたような錯覚すら覚える」
 
>やはり著者にとって江戸時代中期後期の百姓一揆は象徴的武装としての一面的な理解しかないようである。
武装による中世の自己主張??と17世紀半ば頃から決別し??<象徴的武装>による行動様式を獲得して言ったはずの日本人は、このような世界の潮流の中ででどのような未来を迎えるのだろうか」
 
>ちなみに著作の本題である土一揆の現代風理解=適応は次のようになっているが、ヤッパリ何処かヘンだ。
ただ、強かな知恵等々のところは共感する。
「コレまでの歴史学では、民衆は絶対的悪である戦争の、一方的被害者として考えられてきたことが多かった。
しかし戦争が状態であるような時代、民衆は経害の嘆き行きどうっている暇はなかったし、大名の軍隊の非人道的行動を批判したりする余裕もなかっただろう。
 むしろ生き残るために自ら戦争に関わり、苦闘の中で獲得した知恵を次の次代に伝えていったように、思う。
<百章は草のなびき>という戦国時代のことわざも、情勢に単に受身の形でしか関われない民衆を意味するのではなく、戦乱に関わる際の、強かな知恵を暗示しているように思われる」
 
>この著書に立ち行った考察は次回にするとして、項のような人民闘争の一方向の視点からの通史を歴史学者としての課題として取り上げることの難しさは大いに配慮すべきである。
その証拠に、コレ類する書大きな図書館の書棚に見当たらない。
課題は巨大であるが、研究史の蓄積が無い。
また、当然にもいわゆる、唯物史観で纏め上げても情況とは大きな齟齬をきたす。
 
>その意味で前人未到の領域に踏み込んだ著者の具体的な論考はそれなりにキチンとしており、新鮮な指摘があり、よく知らないがこの分野での、2004年刊で、今や常識化になりつつあるのではないか。
一揆の主要な変節と中身の実証をするために時代背景や支配層の動向の省略している欠陥はあるが、仕方がなく、ある意味で通常の歴史書にありがちな回りくどい説明を省いているところに、この分野の書に興味を持つものに一気に読ませる迫力を生んでいる。
 
>著者は1949年生まれの段階の世代、1960年後半の大衆闘争のリアルなあり方を身をもって経験したであろう見地が遺憾なく発揮された箇所が随所に見受けれる。
土一揆の群集組織方法の解説は全共闘スタイルを念頭においているものと思われる。
都市型の影響力の強烈な大衆行動は分散と集中、指導と個人意思の結合、柔軟な戦術による一挙的行動力の発揮など古今東西、あのような方法でしか創出できない普遍的なものと考える。
 
>著作の中身については次回以降にする。
大きな流れとして、民衆の日本歴史舞台への初登場の事態が土一揆であり、応仁の乱は裏面では、支配層が民衆暴力の直接的暴力に一番依拠した京の天下を舞台とする「内乱」であった。
であるから、その主要プレイヤーは古い時代のものとして、民衆暴力が足軽、百姓最上層の軍事的取り込みとして機能的に組織されていった戦国の乱世にほとんど淘汰され、滅んでいった。
民衆の大衆運動はリアル具体的に語らねばなるまい。
抽象化すれば、硬直した見解になる。
歴史論と政治思想は区別しなければならい。