「ドイツのハイパーインフレで富んだ人・損した人⇒W.1918年から1923年に頂点を迎える第一次大戦敗北、ワイマール共和国時代の有名なハイパーインフレ。
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上記の「23年の天文学的インフレ~~日本からの多数の国費留学生の体験記がある~~
市民生活には破滅的なものであったが、独占資本には再度の<原始的蓄積>とでもいうべきものを可能にした。」
解題①「23年の天文学的インフレは独占資本には再度の<原始的蓄積とでもいうべきものを可能にした」⇒W不明
解題」②第1次世界大戦敗北後の①を前提としたドイツ資本の強蓄積過程の推移が
「権力を握ったファシズム(W.イタリアのファシズムとナチズムの違いペイントした文書ではドイツナチズムをファシズムの究極形態としているが賛同できない)金融資本の最も反動的、最も排外主義的、最も帝国主義的分子の公然たるテロ独裁」に繋がった。
⇒W。世界戦争への道は2段階の歴史を辿る
高インフレ期<少数の勝ち組、多数の負け組>=巨大資本の再度の原始的蓄積⇔市民多数の生活圧迫、中小零細企業没落(偏狭ナショナリズム高揚)⇒世界市場分離現実化。世界戦争への道。
@解題①について
引用 ドイツのハイパーインフレで富んだ人・損した人
「貨幣価値の大暴落にまつわるエピソードは枚挙にいとまがない。
しかし、
実際、ドイツの1人当たり所得は、第一次世界大戦末の1918年から、ドイツのハイパーインフレの悪夢が最高潮に達した1923年にかけて、
>実質ベースで7.8%下落したが、イギリスの1人当たり所得は同期間にずっと大きく下落したのだ。
~~イギリスはドイツが見舞われたような財政的困窮にほとんど苦しまずに済んだ。ではなぜ、
⇒W.国内のとんでもない過剰資本、過剰生産状況、過少消費、富の一極集中。
>ドイツの生活水準の低下は集計上、イギリスと比べて緩やかに見えたのだろう?
ドイツのハイパーインフレが極端な負け組と勝ち組を生み出したから、というのが1つの答えだ。
とりわけ立場が危うかったのは、インフレのせいで名目上のペーパーアセット〔現金、債券、証券などの紙の資産〕が紙くず同然になりつつあった資産家たちだ。
逆に、レバレッジを活かして資産(工場など)を購入し、商品を備蓄することができた人々は、財を築いた。
>なんといっても、数時間後には価値が大幅に目減りするマルク建てで借り入れを行うことができたのだから。
当然ながら、この通貨の大混乱を目の当たりにした賢明な貸し手なら、その埋め合わせとして目も当てられないほどの高金利を要求するだろう。
しかし、政府の辞書に「賢明」の文字などなかった。
その割引率は、1922年初めの年率5%から、1923年初めの12%、同年9月の90%まで、確かに上昇したのだが、その段階になると、ドイツのインフレ率はとんでもないことになっていた。適当な数値を選び、後ろにいくつかゼロをつけ加えれば、そう遠くない値になる。
このような政府に紐づけられた不合理なほど低い金利で融資を得られた大企業は、事実上、たっぷりとお金をもらって借り入れを行っているに等しかった。
彼らの「債務」は数日もすれば帳消しになる。まるで、ハチミツ壺が無限に手に入るクマみたいなもので、そうした大企業とその経営者たちは大金持ちになった。
しかし、中小企業にとっては、日利30%などザラだった。
ドイツの多くの事業家たちと同様、彼もますます国内のボリシェヴィキの反乱に不安を募らせていた。
そこで、彼は反ボリシェヴィキ基金(Antibolschewistenfond)に資金を提供し、1920年には国会議員への選出を果たす。アドルフ・ヒトラー率いる新生ナチ党に資金を提供したのかどうかは憶測の域を出ないが、彼の共感はその方向に向いていたようだ。
しかし、議論の余地がないのは、ハイパーインフレの最中、彼が夢にも思わないような大金持ちになった、ということだ。
すでに正真正銘の国際実業家になっていたシュティンネスは、強い外国通貨を担保に独マルクの借り入れを行った。いわば、巨額の補助金を受け取って事業利益を追求しているに等しい状態だった。
最も極端な事例ながらも、インフレに関する不朽の教訓を与えてくれる。多くの者は負け組になるが、勝ち組に回る者もいる、ということだ。
インフレは、強力とはいえ完全に非民主的な富の再分配の手段になりうる。
>たとえ経済全体を破壊しなかったとしても、
>そのなかで暮らす多くの人々を破滅させる力を持っているのだ。」
引用終わり