反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

第二回、幕末甲州天保一揆への道。~一揆、騒動の理論編終了~

      第二回、幕末甲州天保一揆への道。ー公的正当性と民衆の正当性ー
 
      百姓一揆と変革
W.ここで佐々木潤之助の語っていることのキーポイントは理想とする変革運動のパターンが日本にあって初めて成立する話。
それがないならば、どうしたら、作っていけたのか、その余地さえなければ、何処にその萌芽があったのか指し示すことが肝心で、彼の論法は幕末の改良闘争と世の中の構造を変える変革運動の机上の仕分け作業に等しい。
佐々木潤之助一揆論ー「世直し」(岩波書店)1979年)にピンと来なかったという批判がネットに載せられているが、もっともなことだと想う。
 
>一応、在地で問題があった場合の百姓の上訴の形態の区別をハッキリしておく。
 
    滋賀県江南市石部町郷土史、第4章江戸後期の石部 天保の義民と石部宿  百姓一揆引用
天保の義民
 天保13年1842年(170余年前)10月、甲賀、栗太、野洲の三郡(W。琵琶湖に流れる琵琶湖最大の河川、野洲川流域の村々、現在では栗東市湖南市甲賀市の各一部)の農民が野洲川三上村に集結して、幕府の勧請役人の旅宿に押しかけ土地見分けの10万日の日延べを要求した。(W。中止といわず10万日の日延べ。この政治センス、柔軟思考の知力は凄い。江戸時代のムラに凄い日本人たちがいた。しかも命を懸けて戦った)
 江戸時代に起こった百姓一揆は大凡3200余が数えらている。(百姓一揆総合年表→多分、三一書房の10数館の一揆掲載本に載っていたもの)
 
 一揆の目的としては年貢、小作料(W。小作としては両方合体してムラ役人から徴収されているが、全然別物。しかし幕府は年貢をスムースに収奪するため私的関係に基づく一括小作料徴収を容認している)の減免、賦役(労働課税)の廃止など封建諸負担の軽減を求めるところにある。
一揆は規模、組織、性格、請願の求め方などによって、様々で、請願の求め方から云えば、大凡次の七つの型がある。
①不穏ー集会だけに終わった場合
 
②愁訴ー所定の手続きを踏んで領主に訴える
 
③逃散(ちょうさん)-集団で居住地を離れる
 
④越訴=直訴ー直接領主に訴える。
 
⑤強訴ー徒党を組み、集団で強引に為政者側に、請願の内容を認めさせる。(天保一揆郡内勢がコレと一部⑥行動を含むが、一揆勢は甲府城下に入って、下層階層参加で闘争激烈化で地元に引き返す。)
 
⑥打ちこわしー領主に訴えることなく、豪農や富裕商人宅を襲い打ち壊す。
天保一揆、の大衆実力行動の担い手。⑦蜂起へ)
 
⑦蜂起ー農民が広範に集まって、領主と対決したり、打ちこわしを行ったりする。
天保一揆の郡内勢の大衆実力闘争は⑥の共同行動から、⑦人民蜂起に至った闘争に着いていけず、地元の山間地に引き返した。喧嘩別れしたわけではなく、一揆の頭取の装束を引き継いでいる。
この指導層の転換から、大衆実力闘争の激化に注目した解説は一揆の質の転換などとしているが、後に頻発する世直し一揆の先行である。
 
>佐々木「江戸時代論」
「~現実の体制を否定しつつも、その枠内での事態の解決を求める所謂、改良闘争と、現実の体制を否定することによって事態の根本的解決を求める所謂変革運動との大きく二分できるとすれば百姓一揆も騒動も改良運動に入るものであった。
 
 要求の主題から云えば、百姓一揆は年貢軽減に代表される、不当な搾取の軽減や免除を求めるのが主題だった。
騒動は豪農商や地主たちの不当な収奪の軽減や免除を求めるのが主題だった。
それらの不当さの追求は、それだけでは決して搾取や収奪そのものを否定するものではなかった。
(W。こういう論評の出所はイギリスなどの農民反乱の要求には封建領主の収奪廃止。
別のところを読むと、佐々木は島原の乱を現実の体制を否定する一揆と見ているようである。
 
 佐々木、引用
<この島原の乱一揆に収まりきれない広がりを持っており、それゆえ一揆ではなく乱なのである。>
W。島原の乱も最初は藩主の圧制に抗する一揆に始まり、宗教戦争の様相を呈した。
島原の乱一揆の代表である理由は、コレが国家の存亡に関わる妥協の使用のない戦争に展開したことにあった。その意味では、この乱が一向宗を想起させ、(W。鎮圧する側に)神国意識を想起させたことは騒然のことであった>
W、注。
真の一揆という項目で洋学者として知られる杉田玄白の論集「後見草」の引用があるので最後に、同箇所を引用する
現時点の日本国民よりも江戸時代の百姓が大衆行動でがんばっていたような気がするから不思議。
人々は与えられた条件に相応しい戦い方を選ぶ、のだが、民主制の現実は少数者の多数者支配の道具(丸山真男)。それを多数者の民主政にしていくためには不断の戦いが必要、(永続革命)としている。 
 
W。イギリス農民運動の要求は甲賀一揆の要求スタイルで言えば、見分け(検地)10万日日延べ=実質中止を領主年貢廃止に格上げしたようなもの)
 
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~問題は改良運動がどのようにして変革運動に転化しうるのかということにある。
歴史の展開の上では、騒動が展開することにおって、百姓一揆は変革運動の転化する可能性を持った。
 
 騒動の中で、追究され追い詰められることによって生まれた、あるいは自らの成長のために切り開いた論理と行動とが、封建制否定の運動の原点となり、封建制打倒のための民衆運動を展開するに至るという可能性もありえた。
W。アッ!ヤッパリよく読むと冒頭のわたしのエラソウな言説の答えはここにあった。
 まず、やられたらやり返せ!コレが原点。難しい理屈抜きでー。
実際にコレさえなかなかできない現状があるのだから。
大学者、佐々木潤之助はこの程度の原点から、「自らの成長のために切り開いた論理と行動」への飛躍を求めている。
江戸時代で云えば、この原点からの飛躍に可能性を見出せるのはこの人たち。
<<幕府の勧請役人の旅宿に押しかけ土地見分けの10万日の日延べを要求した。(W。中止といわず10万日の日延べ。この政治センス、柔軟思考の知力は凄い。江戸時代のムラに凄い日本人たちがいた>>
 指導者は全員殺されてしまった。その他多くの犠牲者を出したが、10万日の日延べを飲ませた証文は実行された。
この闘争で注目する点は、ウィキをよく読むと前段の戦いがあって、その中心人物が経験を糧にまた立ち上がっていることだ。諦めない粘り強い、ということもあるが力強く前を向いていること。大地に立つ農民の強さがある。
事件直後、黒船を横浜に見学に行った少年は自由党の県会議員から代議士になるが、息子たちはほとんど医者になっている。孫にも医者が多い。中には有名な医者もいるようだが、結局日本では昔も今も<文>の層が薄過ぎるのじゃないかな。小林秀雄なんて文芸やくざ紛いだと想う。文士とか、昔は云っていた。三島由紀夫石原慎太郎。ろくなもんじゃない。
10万日の日延べの江戸時代の無垢の素晴らしいアイデアは成長しないまま、途中でどこかに吸収されていった、消えていった。
いい土壌がなくては苗は育たない。
 
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 つまり百姓一揆と騒動という二つの次元の異なった改良運動が、変革運動に成長する可能性がありえた。
W。本気で考えているとは思えない言説。
わが国での現実の運動は、右の可能性を可能性で終わらせてしまった。
その問題の中心に豪農商の問題があることは云うまでもない。
 
          
               世直し騒動の特徴
 18世紀半ば、同じ封建制崩壊過程を進み、近代化を驚異として共感しつつ、ヨーロッパ的資本制の中に組み込まれていった東アジアにおいても、日本・朝鮮・中国それぞれに相当違った歴史を基礎に、それぞれの仕方で対応したのであった。
 
 わが国の封建末期の変革運動は世直し騒動であった。
それは遂に百姓一揆を変革運動化することができないままに、可能性のままに終わった変革運動であった。
そのために、世直し運動は中国の太平天国の乱や朝鮮での東学党の乱とは違った特徴を持つことになった
 
 それは世直し騒動がほぼ一貫して生活防衛運動であったことである。
借金棒引き、質地取り返しを主題とするその運動は激しかったが、そこまでであった。
ともかく新たな国家・社会を構想した中国・朝鮮とは、この意味では決定的に違っていた。
見方によっては、中国・朝鮮の運動のほうが進んでいたといえるかもしれないし、それも間違っていない。
(W。何を今更。
肝心の在地の政治意識の在りようが問われる一揆論に踏み込んだときに、自らの兵農分離による支配層の武士の都市集住、在地知識層の不在論を忘れたのかーここまでアカラサマナ表現をしていないが彼が云いたいことはこれだ。
在地の矛盾を引き受けた先進指導層不在であれば、運動には政治理念の足りない経済主義になる。仕方のないことである。瑣末な年貢の帳簿付けなど、村役人仕事に知識が集約されて、天下国家を論じるのは町方在住のサムライや町人学者。
 一方、都市に寄せ集められた武士支配層は在地の総人口の85%人の在地の矛盾を受け止めることなく、攘夷運動一辺倒に突っ走り、列強の軍事力を知って尊王運動と合体して尊王攘夷運動となる。
そして天皇家の血統に日本の歴史伝統を閉じ込めて、文明開花西洋化に突っ走る。
天皇神国論だから、当然、近隣民族への排外主義が前面化し、瞬く間に実力行使となる。
 
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>しかしそのような比較は余り意味があるとは言えず、やはり、コレまで述べてきたように歴史の個性であると見たほうが適切ではなかろうか。
W。?自分のそれまでの理論を一揆論に適応しないから中途半端な言及で中止する。一貫性をもて!

>そして世直し運動の主体は、半ば小作貧農としての農民でありながら賃稼ぎなどによって自分の労働を売って生活を賄わなければならない半プロレタリアであったから、
世直し運動のほうがはるかに単純かつ素直に要求を提示しているといえるのかもしれない。
W? 
   
              社会的権力
 幕府にして模範にしても、その権力を地域権力として確固たるものにしようとすれば、それぞれの地域で下から成長してきた社会的関係を把握しなくてはならなかった。
 その成長が徳作地主小作官益に基礎を置く地主小作関係であったとすれば、領主のそれへの対応は、封建領主的対応そのものでよかった。
つまりそれらの領主は封建支配者的な本質をそのまま維持して対応できたのである。
 ところが、そのような成長が商品生産・商品経済、およびそれらに基礎を置く貨幣経済の展開に基づくものであれば、それに肯定的に対応することは封建支配そのものの性格の変更が必要であった。
>そのような対応の変更を必要とさせる下からの権力が、社会的権力と呼ばれるものである。
 歴史的実態としては、17世紀に存在した土豪的百姓名田地主の本質を持っていた有力農民がそのひとつであったが、幕藩国家解体期においてはそれが豪農であった。
豪農は、小商品生産者・半プロレタリア層(半労働者層)の対極に存在する。
そこには商品生産・商品経済労働雇用官益という、封建制の支配や封建的社会関係では捌ききれない本質を持った社会関係が貫徹している。
 
>そして小商品生産に対しては商人で対応できるから、豪農を特徴付けているのは、半プロレタリア(半労働者)層である。
(W。変な表現。商人は小商品生に生産設備や原料を貸し付けて製品を買い付けて儲ける。
在地の半労働者は豪農に賃稼ぎで雇われるというわけか。)
 
豪農と半労働者層は、商品生産の展開に伴う社会分解の中で生み出される。
 
>W.以上は幕末の新しい階層分解の頂点=豪農商と最下層=賃稼ぎの半労働者層
>W.次はムラ方町方団体サン内部における幕末商品生産・商品経済のもたらした階層分解の特徴
 
>小商品生産者を含む小生産者が引き起こす様々な問題に対しては、ムラ・ムラ共同体がそれに対応できるが
その小生産の破綻から形成された半労働者たちは、ムラ・ムラ共同体から半ば自由である。
 
そこで民衆運動にこの半プロレタリアたちが参加し始めると、それらの運動は新たな性格を持つことになる。
 
それが一揆から騒動への転化の鍵になる
 
>従って、社会的権力は当面する国家社会体制に対しては、反体制・反国家的本質を持つ(W。大塩平八郎の決起には近郊の豪農門下生も参加している。自由民権運動の先駆けのような立場と解釈する他ない)
と同時に小生産者・半プロレタリアとの間に矛盾をきたす。
 
W.打ちこわしの対象になる豪農が、同時に、幕藩体制に対しては反体制・反国家的本質をもつというのか?
確かに一揆勢に酒食を振舞うことが記録されている。近江甲賀一揆を主導したのは庄屋層。
しかし、社会的な戦いは階層分析だけでは理解できない。内面のあり方が大きく左右する。
 
注。真の一揆
18世紀後半の社会変動については、洋学者として知られる杉田玄白もその論集「後身草」で論じている。
江戸時代の儒学においては、一揆騒動も天変地異の一つとされた。
政治が悪く天道にも取れば、天は天下を懲らしめるのであり、その懲戒の方法が一揆や騒動であるというのである。
W。今の保守的な考えよりもよっぽど、公平感がある。易姓革命論はないが、江戸時代の儒教思想の方がシンプル、まともである。
天明三年(1783年)は例外で未曾有の凶作となり、全国的な大飢饉となった。
それに7月浅間山噴火が重なって、上野国の各地の荒廃が酷く、人々は救済を求めて激しい運動を起した。
 
この騒動の様子を知った玄白は言う。
「近年、領主や支配者を訴える時には、訴える側の土民たちは、必ず徒党を組んで暴力を伴うのが慣例となっている。
そのため、領主や地頭たちの勢いはなんとなく衰えてしまい、実験が下々の手に移ったかのようになっている。
実に末世の有様ではないかと嘆いている人もいる。
 近年の諸国に起きている騒動は、皆土民たちが徒党を組んで、それぞれの領主に教祖するのであるが、この天明の上州騒動はそれとも違って、ところどころで群盗が乱暴している。
 心ある人も心無い人もコレは真の一揆の兆しではないかと、眉をひそめている。」
 
W。江戸時代の百姓はその条件に相応しい闘争戦術で戦った。
さて現在の日本住民はそうであるのかどうか?