土一揆の理解の前提条件は二つある。
従って幕府権力は有力守護大名の連合政権、勢力均衡政権であり、様々な要因が重なると、連合政権の勢力図は不均衡になり、大きな内部対立を引き起こす=分権型封建体制の典型。
争乱を忌避したいボケた予定調和論であり、いつ何時でも支配層の統治能力はキチンとあってもらいたい、という隠れた願望による土一揆を材料とした洗脳工作等しいものである。
言い過ぎかもしれないが、こういう指導するものされるもの、整然とした組織的戦いの思考パターンは大衆闘争にとって害が大きい。戦いに行きすぎ、間違いは付き物。
「一揆軍は京都と外部の連絡を断った上で、酒屋、土倉、寺院を襲撃した。一揆勢は地侍の指導の下、組織的な行動をとり、勝手な略奪を取り締まった。
土一揆のパワーの源はそんなところにないと考える。
神田千里もそういう面の事実に触れているが、人民闘争の自然発生性の特性をよく踏まえた記述をしている。
こういう描写は一見、もっともらしいが、大衆闘争否定の理屈に繫がって行くものである。
1441年段階の土一揆に軍略はあったが、自然発生的要素を重視すべきである。
その時代の制約の中で常態化している事態と、それを記述したものを当たり前に取り上げて欲しい。余計な脚色は止めて欲しい。)
>ウィキ本論
さらに、管領細川持之が土倉から賄賂一千貫を貰って保護の為に出兵命令を出したという事実を知った守護大名は出兵を拒否。畠山持国に至っては一揆に自分の被官が混じっていた事から鎮圧に反対、事態はさらに混乱した。
7代将軍足利義勝は要求を受け入れ、差し押さえられてから20年未満の質物の返還など、山城一国平均での徳政令を発布(嘉吉の徳政令)。正長の土一揆では遂に公式な徳政令を出さなかった室町幕府が徳政令を出したことにより、その権威は大きく傷ついた。
その2。「戦場の村の民俗を行く」藤木久志著。ー成人と刀指の祝いー
「武器は自前<武器自弁>というのが、武装する村の建前だった。(W。古代ギリシアの市民の密集方陣形軍団もそうだった。+武器自弁のできない市民階層の戦艦漕ぎ手多数参加はアテネの民主政を拡大した。一考に値する。)
その若者たちの武装を、ポルトガルの宣教師ルイス、フロイス<日本史>は、「日本では今日までの習慣として、農民を初めとしてすべてのものが、ある年齢に達すると、大刀、小刀をおびる」といい、「彼等は普段の果てしない戦争と反乱の中に生きる者のように、武器を所有することを、すこぶる重んじている」
同じく、ホアン?、ロドリゲス「日本教会史」も子供の成人祝いには、①名前を変える、②刀を差す、③前髪を切る、という3点セットだった、と証言していた。
遅くとも戦国期には<農民を初めとした全ての者>の成人祝いに、烏帽子着<戴冠式>よりも刀指し<帯刀式>が重んじられるようになったいたらしい。
(W。このヒトはフロイスの入れ替わりとして、ポルトガル大使?の通訳になったが、信長、秀吉、家康への食い込み方=人間的な魅力、豊富な知識や、貿易活動への関与、辞書作成、少年時代の来日、滞日してからの入信、滞在年数、などフロイスを遥かに凌駕しており、当時、一番、日本を知っている外国人だった、思う。)
>藤木久志の本文へ。
どれも職人や商人の息子の成人祝いに、院主は刀や名前や小袖を贈っている。
コレをフロイスは<日本では少年が新たに帯刀したり、名前を変える際に、代父を選ぶ」といっていた。
(W。正式な元服の儀式はこうだったのか。)
大名の民兵動員令も、<似合いに持つべき得道具>といい、<自前の弓や刀、槍のないものは、鎌や鍬でも手ぶらでもいい。分に応じた武器を」と村々に呼びかけていた。
村の少年が若者になる、成人の祝いで見につける<腰さし>にも、村ごと家ごとに、<カタナサシ>から<カマサシ>まで様々な格差があったらしい。
成人して身につける刀や脇差は、村人の生命や安全を守る、一人前の男の誇りであり、自立した人格の神聖な標識とされた。
>だからもし脇差を奪えば、村追放の重罪とされた(W。確か、元摂政、九条政基の日根野庄の現地下向管理日記、1500年ごろ{旅引き付け}にも刀が盗まれたといって、村中が大騒ぎになる場面が生き生きと描かれている。)
農民の子も成人すれば刀と脇指しを帯び、戦争の相次ぐ時代、彼等は武器を心から大切にした」
<いわゆる秀吉の刀狩>ウィキ引用。
~秀吉は刀狩と並行して、武器の使用による紛争の解決を全国的に禁止した(喧嘩停止令)。
それまでの日本では多くの一般民衆が武器を所持しており、特に成人男性の帯刀は一般的であった。
また、近隣間の些細なトラブルでさえ暴力によって解決される傾向にあった。この施策は江戸幕府にも継承された。
そもそも当時は厳格な身分制度は確立しておらず、武士と一般民衆の区別は存在しない。
W。なるほど刀狩を封建身分問題にもって行きたいわけだ。
<その後の刀狩の展開>ー農村の膨大な武器の完全消滅はGHQの占領政策ー
しかしこれも身分表象としての二本差し帯刀の規制による象徴的なものに留まり、農村に蓄えられた膨大な武器を消滅させるには至らなかった。
ただし、内戦状態が解消して安定状態がもたらされた江戸時代には、表向き禁止された百姓の一揆が結成され、それによる権益要求の示威活動(強訴)が行われても、一揆側で真に戦闘時に威力を発揮する鉄砲や弓矢といった飛び道具の持ち出しは自粛されており、一定の妥協が成立していた。
W。不可解な点も多い見解。刀狩以降の農村に存在した膨大な武器という指摘は何を持って実証できるのか疑問。
ただし、武器規制の流れはなんとなく解る。日本人の政治思想のあり方にも大いに影響を与えている。
網野喜彦「日本中世の百姓と職能民」引用。ー上記のウィキの刀狩身分創出論の大本はこんなところにあるのだろうyか。ー網野喜彦に関しては余計な大風呂敷を広げる前に、こういった問題を深く追求して欲しかった。
「平民身分から職人身分の区別の確定を古代社会と異なる中世社会の特質とわたしは考える、として~。
そして、<平民。の武装はもとより自由であり、決して禁止されていたわけではないといえ、武装、戦闘が<平民的な生業でなくなり、その日常から離れていく方向が、ここに明確になった。
が、平民と武器論にサラッと触れ<注釈40>とした後で例によって、得意の差別論に突入している。
それで、注釈39、40はこうなっている。
柱釈、39「(事例を挙げて)中世の平民見武器は自弁だったと思われるが、兵糧米については、動員者が調達用意する必要のあったことを示す事例が多く、動員者に依存していたと考えてよかろう。土一揆の流湯賊行為のの大本は兵糧自己調達の原則。
W。戦前日本軍の補給線、蔑ろの遊撃戦方式のルーツか?現地調達せよ。500年経っても軍隊の本質は変わっていなかった。」
注釈40「この点は日本人の民族的体質とも、深く関連してくる。日本の共同体の特質は、このこと(W。平民の日常が武器から分離される傾向)を考慮にいえれて考えなくてはならない。
W。煎じ詰めると、中世日本とヨーロッパのヒト、モノの対外交流の量の問題、東アジアの縁辺であるという地理的条件の問題。中華的中央集権制の残滓などの列島を内外の絶対条件の問題に尽きる。
>この年代表から読み取れる特徴を次のように解説している。
1)応仁の乱1467年~1477年の以前の1450年代1460年代の期間に歴史に名を留める土一揆は8回頻発しているが、応仁の乱の10年の間は2回であった。応仁の乱終了以降の1480年代、1490年代の土一揆頻発回数は実に、14回にも及ぶ。
<土一揆の恒常化>
「頻発する飢饉により活路を求めて京都に向かい、さらには大名や武士に組織されて戦場へと向かう流民の巨大な流れがあった。」
「また、足軽と土一揆との行動は事実としても余りにも似通っており、両者を同質のものと見ることは極自然といえよう。足軽の行動として目立つのは戦場での果敢な戦いとともに、兵糧米、兵糧料徴収を大義名分にしての略奪であろう」
「二つの集団の紛争が、たやすく実力構想に発展しかねないのが、中世の現実であった。
支配者に訴訟してその裁断を仰ぐ、という紛争解決のやり方は限られた場面で行われるものであり、むしろ多くの紛争が当事者間の、実力行使を含む駆け引きで決着することのほうが一般的であった。
このような解決法は自力救済と呼ばれており、中世は自力救済の時代であった。
しかし自力といっても層簡単にじめあの軍事力を調達できるわけが無い。武力抗争には、傭兵が必要とされるのが、現実であった。
悪党と世慣れるいわば専業の簿力集団が存続する余地がここにある。」
山科七郷の徳政行動
土一揆への適応
「自分たちではどうすることもできない幕府や土一揆という存在と、いかに対応していけば生き残れるのか、
町や村の住民たちの関心はここにあったと考えられる。
<適応>という言葉を用いるのは、彼等の行為が<戦闘、抵抗、防衛、和睦、服属>などのいずれをも含むと同時にいずれとも異なるからである。
全線で武器を持ち、全存在を戦の勝敗に賭ける戦士の行動様式ではなく、むしろ戦だからといって日常を離れるわけにも行かず、敗北したからといって死ぬわけにも行かない、いわば銃後の生活者の行動様式だからである。
権力に対して敢然と蜂起するような華々しい行動ではない。
しかしこうした適応の果てに自治を基軸にした村、町体制が成熟して言ったことも留意する」
W。何だかこの辺はアジっている感じだが、一応、素直に聞いておく。
ではなぜ<土>が省略されたのか?
「戦国大名の出現により、大多数の武士が大名中に組織され常時その一員になったために、戦争のたびにわざわざ一揆を結成する必要がなくなった。層られば戦闘に際して、改めて一揆を結成する必要があるのは百姓身分の村民や雑兵くらいのものとなろう。
かくして一揆とはもっぱら<土民。のものに限定されるに至った」
戦場に向かう民衆
大名の戦力
省略
百姓は草のなびきー戦国時代のことわざー
「戦乱の時代の民衆は積極的に戦況に介入し、有利なほうに味方しようとした。戦乱の時代にひたすら戦争を避けるだけでは済ますことはできない。
<百姓は草のなびき、という戦国時代のことわざ>
地域の住民は勝利を制下武将の方に味方するということではあるが、この時代、どちらの武将が勝利するかの判断を誤らずに従軍することが以下に重要であったかを問わず語りに示している。戦況によって願えることも常識に属することであった。
言い換えると村とその一揆は、大名や武士にとっても、当てにせざる得ない重要な戦力だったのである。」
同時に戦国時代は生産力の発展した時代でもあるにも拘らず、田畑の検地=年貢確定作業は滞っていた。
領主側も戦略的基盤の足元を固めるために強収奪を継続することが困難だったのでないか?
通常の年貢の割合は出来高の40%にも及んだ。ここまで吸い上げられ、おまけに天候不順の続いた江戸時代の人口停滞は当たり前である。
百姓は平和時代になって、むしろ、領主に心置きなく搾り取られるようになったのではないか?
<京都、京都周辺土一揆年表>
年代 土一揆発生年
1420年代 1428年
1430年代
1440年代 1441年 1447年
1450年代 1454年 1457年 1458年 1459年
1460年代 1462年 1463年 1465年 1466年 1467年、応仁の乱始まる
1470年代 1472年 1473年 1477年、応仁の乱終了
1480年代 1480年 1482年 1484年 1485年 1486年 1487年 1488年
1490年代 1490年 1493年 1494年 1495年 1497年 1499年年 戦国時代1993年~
1500年代 1504年 1508年
1510年代 1511年
1520年代 1520年 1526年
1530年代 1531年 1532年 1530年
1540年代 1546年
1550年代
1560年代 1562年
1570年代 1570年
<追記>
用意していた事項を展開する時間も能力もなかった。
著者は土一揆の解説に際して東寺に保存されている古文書に依拠しているようだ。それによれば、東寺は一揆側の一種のアジール(中世的無縁所=一種の聖なる治外法権の場所)として機能していたようにも思える。一揆勢は東寺の境内を占拠し、中世の人々の心の聖なる場所を放火蹂躙すると脅かして、洛中と対峙した。
今現在においてアジールは何処に行ったのだろうか?無くなったと言い切っていいのだろうか。
奈良坂を登りきったところに位置する般若寺も土一揆衆の結集場所になったが、この近辺には親寺、西大寺の(えいそん)が開設したハンセン氏病患者の収容施設があった。1万5千人もの収容者がいたという(延べだと思うが)。
奈良坂は非人宿であった。土一揆を地域的な視野から見ていく情報も少し収集したが知識不足でこだわりきれなかった。この時期に天下=京都の町と近郊の惣村のリアルな関係、京都の生活者の実態も調べたかった。
放置されたままの課題が余りも多過ぎて、上滑り、想念が沸かなかったのはどうしたことだろう。知識を積み重ねるために、日記を書いているつもりは無いのだけれど、コレが現実だ。
上記の土一揆年代列記をあえて書く必要はなかったが、時空を超越して鎮魂を込めて記した。