反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

2013年歳末から、改めて2011年3、11東日本大震災を想う。

 2011年3、11東日本大震災で3万人弱の方がなくなった。勿論、被災はそればかりでないことはいうまでもない。
 普段マスコミ報道に接しないので、被災現場は動画でしか知らず、想像するしかなかったが、亡くなった方々のその瞬間のもがき苦しみを想うと、胸に迫るものがある。
例えば、中国の総人口は日本の約10倍だから、換算すると約30万人弱の方が一瞬にして、列島の地上から消えてしまったことになる。地方の県庁所在地の都市の総人口に匹敵する方たちが、あの大津波に飲み込まれてしまった。
 
 海と大きな川が身近にある地方で育ったから、水の怖さは身をもって体験している。
台風後のまだ濁流の残る川に入って遊んでいると、突如、足元の川底の取っ掛かりを失って、急深の川下に流されてしまった。まだ十分泳げなかった小学校学年のころだった。
 無我夢中で川水を飲み込みながら、(浮力を付ける術を知らず逆のことをやっていた)やっと届く川底を蹴って岸に近づくことができたが、
この事態には大事なことがあった。
急流に足をとられて、流される一瞬、傍にいた近所の同級生の手を掴んだか、体にしがみついたか、して深場の急流に引っ張り込んでしまった
 
 結局、二人とも同じように溺れながら、大量の水を飲み込みながら、必死で川底を蹴って、川岸の浅瀬を目指し、何とか、助かった。
大量の水を飲み込み咳き込みながら茫然自失で横たわっていると、ようやく足の裏の痛みと大量の出血に気づいた。川底の鋭い瓦礫や牡蠣で足の裏はザックリ割れていた。
友人も同じ状態だった。自分には命拾いをした安心感があった。
同時に、一瞬の事態の前後関係がフラッシュバックし、物心付かない子供は、自責の念に駆られた。
 
>が、友人はそのことについて一言も語らなかった。
溺れるものは藁をも掴むとは、今想起すれば、大人による事態の結果解釈、合理化で、子供心は単純素朴に自分の行為を善悪と判断としたのだ。
神は路傍にいる、自分の心の中にも時折、訪れるのか?
 
 海なら近場に広がっているのだけれど、どういう成り行きか実家からかなり離れた外海の海水浴場に遊び仲間たちと初めて、行くことになった。
潜ってみると夏の日差しに照らされた明るい海中に、キラキラ光る白い粒子が一杯、浮かんでいた。今まで見たことも無い不思議な海中の光景だった。
心なしかいつも泳いでいる汽水域と違って外海は塩分濃度のせいか身体に浮力を感じた。
勝手が違う!
 
 もうそのころになると泳ぎは達者で、一眼の水中眼鏡で大きな石を抱えて、川底を歩いたり、ゴムバンド付きの銛で魚を狙ったり、流木でいかだを作ったり、舟の櫓を漕ぐこともできた。
自慢は小さな伝馬船の側面につけた櫓を漕ぐことができたことだ。小回りを利かせるために船側に櫓をつけているのだ。船外機を横付けしたらどうなるか?前に進まない。その原理を横につけた櫓の操作で小船を前に進める。それなりの技術がいる。教えれれたことは1回もなく、大人がやっているのを偶々、みて櫓の操作を掴んだ。野球のバットコントロールと要領は似ている。スナップ操作の要領がいる。
 
 ところが、勝手の違う波打ち際で想わぬ事態が発生した。
頭上から被さってくる大波にあっという間に飲み込まれ、海中をまるで巨大な洗濯機に放り込まれた人間のようにぐるぐる回しにされ、放り出されたところが浜辺だった。
水中眼鏡など、海中で洗濯されている間にどこかに行ってしまった。
このときは、さすが泳ぎが達者だけあって、自意識はあって、このまま外海に持っていかれると察知していたから、沖方向の逆の浜辺に転がされた瞬間、幸運と感じた。
が、波の持つ思いも及ばないパワーに驚愕した。
 
おそらく地元の者や大人は知っていた当たり前のことを、生意気盛りの子供は知らなかったのだ。
井の中の蛙だったのだ。
 
 川の急流に溺れそうになった一瞬、友達を掴まなかったら、どうなっていただろう
最初に急流に流されている時、お互い至近距離で支えあっていたように想う。
最初の段階で踏みとどまれたから、一気に流されずに済んだ。
直ぐ下流は泳げない子供が絶対に近寄らない深場になっていることは知っていた。
一人っきりで遊んでいたら、地方新聞の三面記事になっていた確率は高い。
 
 そうすると、その後の人生をいったいナント解釈するか?
生きている確率は現時点で生きているから、切迫して、想像できないだけで、本当の偶然的要素はモット高かったかもしれなく僅かな生存率に自分はは引っかかったのが真実かもしれない。
 今の年齢になると死の遅延の問題に煎じ詰められるとも想定できる。
自己認識可能物体がほんのちょっと遅延して生存している、ただそれだけとー。
 
>それでも、原因について、何も言わなかった近所の同級生に助けられた事実。
 
 
 このブログ記事でシコタマ、福島原発記事を粗製乱造してきた。
が、時折コレでいいのかという想いが過ぎる事があった。
巨大ツナミに一瞬にして飲み込まれた方たち、という確かな絶対的現実が念頭にあった。
 
 大震災に連動した原発事故被害について、不可知で断定できない部分があると、自分は当初から主張しており、わからないとはっきり書いてきたつもりだが、
最終的判断は事故現場やチエルノブイリ原発事故当時のソ連社会の社会情況を加味して、下してきたつもりである。ただ断定できる知識も資料も無くあくまでも想定である。
ただし、異論は多くの方にあるだろう。 状況分析の方法論の違いもある。
わたしは自分の得手である現場状況から、放射能汚染を判断するが逆の立場も十分ありえる。
 
 これ以上この問題に深入りするする時間がないが、一つだけハッキリしていることが自分にはある。
宮台真司さんも講演で言っておられたが、3、11の超異常事態に直接間接に遭遇した個々人が、異常事態に突き動かされて、何らかの形においてキャッチアップし、途上において何かを感じ取ったにしても、結果として以前と同じ地点に着地するならば、大震災ー福島原発事故はその人にとって、何もなかったに等しい。
 
 このような精神のありかたは、重大事態に直面した後の日本人特有の思考形態を突いた言葉とは想うが、熟考すれば、客観的歴史的物理的にそういうことはあり得ない。
特に日本及び世界の動きがスピードアップ加速状態にある大状況においてそういうことはありあえない。
 
 猪瀬東京都知事の辞任を受けて、知事選出馬に前向きな姿勢を示しという前日弁連会長の宇都宮健二さんは講演会で<ピンチをチャンスに>という主題で語ったらしいが、私の感触では、猪瀬東京都知事を圧勝させた東京都民投票者の過半に、宇都宮さんの言う意味のピンチという意識は無いのではあるまいか
 
 宇都宮さんの現状及び将来認識を文字タイトルから拾えば、このままでは東京オリンピック中国不参加の事態もあり得るとしているようで、何だか自分の東京決定、直後の記事の中身と同種の考えを持っていると感じた。
(中身はマッタクしらない)
 そういう認識で諸々の具体的な都政の政治情勢も加味すれば、止めなよ、そんな徒労は、「行きたいところ」にいけばいいのサ、といつもの自分流思考パターンを基準にしたが、二段構え、三段構えでの状況対処をしようと決めている身にとって、状況を政治的に集約して、都知事選出馬もありかなと一応しなければならぬ、しておいた。
 
>ただ、宇都宮さんと猪瀬前知事を圧勝させた都民の政治認識のズレは非常に大きいと見る。
 
 結局どういうことかといえば、先に触れた宮台真司さんのいう3、11事態にも拘らず、あるはずもない元の定点着地、いやもっと悪く言えば、反動、退行、スルー現象が過半であるまいか?
コレはもういいとか悪いとかも次元の問題はない。
また、何度の繰り返しているように政治意識が所謂、<遅れている>とも想わない。
ただ、状況の推移任せであること間違いない。ということは、具体的に言えば、アメリカ、中国の状況へのリアルな対応任せである。
そこにコントロールが効く訳がない。
 
>ただコレだけはハッキリさせおく必要がある。
この種の大衆政治現象を以前の記事では、3、11事態という日本支配層の敗戦後の経済成長政治路線の根幹を揺るがす状況に慌てた支配層とその暗黙の意を受けたマスコミが連日連夜、手を変え品を変え、巧妙に<がんばれ日本>、<日本は素晴らしい国>宣伝を刷り込んでいるうちに、国民過半の社会深層心理は短期間に一変してしまい、日本政治はコントロールのきかない大状況の偶然性にゆだねられていった。
勿論、民主党政権交代後の事態も大衆的なリアルな政治体験の乏しい国民にとって、二枚三枚腰で対処できなかった。小沢さんのような現実政治行動で毀誉褒貶の激しい政治家が曲がりなりにも最近まで中央政界に影響を及ぼしてきた事実は先進国ではあり得ない。
小沢一郎の決定的な場面での政治行動の点と点を線で結ぶと、彼が現実的に破壊し、あるいは国民に現実的に与えてきたものが、一体なんであったかくっきりと浮かび上がってくる。
 
 マスコミはアメリカ中国北朝鮮の内部事情と大状況への規定力の中身など、ホントのところ解るはずがないのにはずがなのに、わかった振りをして、編集力を発揮して、危機感、強欲に駆られた自己流政治イデロオロギー解釈に過ぎないものをあたかもトータルを総合した真実であるかのごとく伝え、<がんばれ日本><日本は素晴らしい国>とブレンドするから、国民政治意識をミスリードしてしまった。
そもそもが日本主体のあり方如何を含めた、可変的な状況説明が間違っている。
マスコミ、政治家総体の底が曝け出されてしまった、見ている。
 
 やつ等はもう戦争事態を折込み済みの次元にまで到達している。
そうすると定点着地の安心志向は他にその類の共同政治幻想の錬度に長けたものが見当たらないのだから、アベ等自民党流儀の伝動ベルトへの着地と結果する。
 
 しかしその内外政治戦略は眼目はグローバル資本制とマネー主導の全地球市場席巻のための環境づくりであり、この巨大強固な接着点において、世界支配層の利害は共通している。
 
 そうであれば、我々、日本庶民も自己利益最優先の冷ややかな戦争理解に到達すべきじゃないのか?
古今東西、「民主政」と戦争は必ずしも対立するものでもなかった。