サテ、中東特集は、前回でひとまず終了した。もっと単刀直入に書くべきところはあったのだが、徹底して宗教と縁遠い道を歩んできて、関心をはらったことがないものが特定宗教について、断定してはいけない。無知に基づく断定は偏見を生む。宗教に関心を払う予定は今後とも一切ないので、慎むべきである。
そのために、宗教も含む、あらゆる意味で従属地域としての刻印が、国家ーグローバル資本複合体の跳梁跋扈している時代趨勢において、消去されていないために、パラドックスを含む痛々しい事態が進展している。
アラブ春、以降の事態はその典型である。
ただし、日本でも、似たような事態が、日本内外の環境に応じて、目の前にある。
国家ーグローバル資本複合体のショック、ドクトリンと低強度戦略が
民主党新政権下の米国バブル崩壊直後の日本経済の他の先進諸国に見られない異常な落ち込み(韓国でさえ、そこまでのGDP急落はなかった。原因は経済長期低迷を受けた小泉政権の特定産業輸出主導型金融経済政策にあり、ソレはアベノミクスに拡大踏襲されて、不能化に至り、増税から当面、外敵創出、オリンピックなどイベント資本主義で乗り切るしかない。)尖閣列島中国船長拿捕、拘束裁判化、韓国朝鮮以上軍事事態、東日本大震災ー福島原発事故に向けて発動され、結果、日本国家機構政治史の重大な結節点として決定づけられた。
アラブの事態を日本の歴史や東アジア史を視座に置いて総括することも可能であるが、コレも慎むべきである。世界は広い。多重多発的な様相を呈してきているので、そのような一国主義的歴史比較はグローバル時代に適応できなくなっている。
2016年初夏には参議院選挙が控えている。日本の議会圏政治地図の底流に蠢く実態を特定するのは、自分にとって不可欠な作業である。
今回以降、前回の2016/2/20(土) 午後 2:08の末尾の
「日本では中間層と社会の底辺が同時的にじわじわと崩れてきているのである。←W。注① 21世紀の資本 - Wikipedia の解説を自己流に改変して、読み込み、ソレを元ネタにする。ピケティーのやっているのは、いわゆる財の分配論、資本の生産過程には<搾取>という市場の「平等な交換」を前提とした経済概念が成立する。
21世紀の資本の解説jの最後の方に載っているサマーズの云う、
>「資本を増やすことによって得られる利益は少なくなってゆくものであるから(収穫逓減の法則)は、マルクス資本論第3巻に示されている、利潤率の傾向的低下の法則 - Wikipediaの公式と同種類の意味であろう。日本などの先進国で資本の大規模投資が回避されるのは、この圧力が働いているからだ。
>また、日本の中間層のおかれた環境を購買力平価で、国際比較するのも大事なことである。
ピケティーの21世紀の資本にはこの観点がない。経済学の始原より、資本と市場は世界的存在として原理的に位置づけられている。
同時に「21世紀の資本」に沿った階層分解についての専門家らしい絶好の自作の図表も交えたページを見つけたので、セレクトしながら読み込んでいく。
ネット上に出ているこの分野の簡潔かつ詳しい解説では、おそらく最高のものである。
↓W。写真は無関係。ピケティーの問題意識にそった記事は一連の末尾から始まり、最上段は最終回
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下記のWの主張は実践的脚色の過ぎたところはあるが、ネットでいろいろなものを読む限り、主旨は間違っていない、と考える。ただし、もっと深める必要がある。間違っているところは修正する。
「日本では、
>世界各地で中間層が苦しみ、解体されている<歴史過程>が最悪なことに、政治主導によって、歩みを速めている。
W。トッドの云うフランスの中間層は、第二次世界大戦前から存在してきて、戦後、より肥大し、官僚的組織性を高め、労働者階層の上に立って、政治の実権を握り続けてきた。フランス官僚政治はこうして実現してきた。
>戦前日本に層としての都市中間層は、未成立で、敢えて云えば軍部がソレを団体的に代行してきた。
したがって、日本の中間層は、戦後世界体制の安定を前提とした特殊日本的状況において、1950年代後期から始まった高度経済成長によって、戦前から潜在的流動的過剰労働人口を抱えてきた農村の解体、都市化の人口流動化の中で、
端的にいえば、日本の中間層は冷戦構造の安定化が生み出した戦後日本の特殊な歴史過程で、労働者階層の上中層が中産階級化したものであって、
その下の膨大な未組織労働層こそが、本物の労働階層であるという意味では、日本では、フランス的中間層の存立基盤は、本質的にぜい弱であり、トッドの次のような指摘は正しい。
「それに日本の文化には平等について両義的な部分があります。
戦後、民主的な時代を経験し、だれもが中流と感じてきた一方、
人類学者として見ると、
もともと日本の家族制度には不平等と階層化を受け入れる面がある。
問題意識をもっと詳しく議会圏の政治(投票行動)地図に沿って調べていきたい。2016年初夏には参議院選も控えている。
次のように書きながら、実証しないで、あてずっぽうのよなことを書いている、と意識した。
「政治浮遊の避けられない彼らは国家ーグローバル資本複合体の国体政治化に物的に実現できない救いを求め内外に憎悪の対象を作り不平不満の憂さを晴らし、足元の直視を回避したいのだ。
こうした軽信が政権維持の数の論理の突出を形成していると認識する以上、←W。注② 小泉政権時代のA、B、C、D層議論に立ち返って、参考資料にあたってみた。次回掲載。
アベ等の真っ当な政治を超えたパフォーマンスは不可欠となり、その負荷は国民全体が背負うことになる。
W。日銀、マイナス金利策動は参議院選挙対策である。端的には、自己過信の政治浮遊層の眼前に株価上昇などの見せかけの経済指標を突き付け、アベノミクス実行中の表象によって、その政治判断を無力化することである。←W注③ 注①の図表を更に深めて考察した見解がある。詳しくは次回以降に取り上げる。
無党派層は今では、巨大な層形成しているとして、消極的無党派層<基本的に選挙に行かない、政治や社会に関心がない>*寝方15%とするところは、Wの選挙観と似ている。W。80%を有効投票率の分母にしている。
と積極的無党派層<政治意識の高い層>としているが、後者の政治意識構造について突っ込みが足りない。
高学歴(何を持って高学歴とするか?偏差値?資格?)=政治意識高い。
果たしてそうだろうか?要は、政治判断の物差しを所持しているかどうか、物差しの種類の問題とWは解釈する。
政府のやることなすこと全てが、経済的合理性という最後の「信仰」さえ脇に置いて、国家ーグローバル資本複合体の国体政治化の方向に突き進んでいる。
トッドの指摘する日本の文化(狭く云えば政治)の戦後的両義性の良き側面は~戦後、民主的な時代を経験し、だれもが中流と感じてきた~は「経済的合理性という最後の「信仰」によって」最初は押しつぶされ、やがて「もともと日本の家族制度」の「不平等と階層化を受け入れる」ことが支配的イデオロギーになってきている。
<高学歴?、政治意識の高い?従順>
日本的政治アパシーとは、政治に背を向けた私的領域への閉じこもり、と云うだけではなく、「不平等と階層化を受け入れる」従順に落着する。←W。高学歴(何を持って高学歴とするか?偏差値?資格?)=政治意識の「高い」従順は大いにありえる。
>政治は結果だ。政治意識は最終結果とその時点で見通す能力だ。
>本人たちにその自意識は欠如。ここを問題にする。