反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

「グランドラ、小麦色の村よ」この歌を合図に国軍は蜂起しカーネーション革命は達成。19C後半~欧州大戦争、ベルエポック≪良き時代≫→1930年~1975年の特殊環境→第二のベルエポックの様相の解明。

*Amália Rodrigues - Grândol*Amália Rodrigues - グランドラ、小麦色の村よ
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>上記で転載されている<グランドラ、小麦色の村よ>LIVE動画
コンサートの最終幕、舞台上と観衆が合唱する。1974年、3月29日のコンサート最終幕の再現であり、この時すでに国軍武装蜂起は計画されていた。
ポルトガル革命を大切にする人々の歴史的意味が込められている。
            ↓
   <日本では日本国「憲法」と<君が代>になるンですか?>
>Passos Coelho interrompido por Grandola Vila MOrena 15 02 2013 
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世界には日本など、イロイロな<民主主義>があると良くわかる。
民主主義は庶民にとって戦いのためにある。
 
イメージ 2東京大空襲で多大な被害を受けながら、昭和天皇行幸に「申し訳ありません、こんな不始末を仕出かして~」と地べたにひれ伏す東京下町水天宮付近の民衆の絵図>を偶々目撃した堀田善衛は活写する=「方丈記私記」
今上天皇(産婦人科病院の上品な院長サン風)
東日本大震災福島原発事故の発生した次の年2012年、の「8月13日、突如として、米軍空襲で火の海になり、多くの犠牲者を出した下町の富岡八幡宮付近の住民との一時を持った。
方丈記私記」を記事で連載しているときに、偶々その光景を写した新聞写真をネットで発見して、今上天皇堀田善衛方丈記私記」を読んで、強烈なインパクトを受けて、脳裏に刻まれ内容から、突如、富岡八幡宮付近の住民たちとの一時を持つことを思い立ったと直感した。
方丈記私記」のシーンとしての圧巻部分昭和天皇が大空襲の被災地、富岡八幡軍付近の訪問に際に、堀田が、付き合っていた女性は既に焼き殺されているだろうと思いつつも、この近辺を彷徨っていたいて、偶々、焼け跡の片づけをしていた住民たちが昭和天皇に<大切なものを焼いてしまいました>と、詫びながら跪く場面に遭遇した実感とそこから政治思想的課題に発展させた評論を続けていくところにある
 
 その中には人間、堀田善衛の視点からの天皇制論や一部で有名な近衛上奏文 昭和20年2月14日
全文 と二つの解説 http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/konoe/jousoubun.html
を挙げての痛烈な批判があり、実に多角的重層的天皇(近親貴族ー日本軍(出身階層)ー民衆の相互関係論となっている。
 
堀田善衛が「広場の孤独」でいう。
恐怖は判断の基準についての確信を動揺させる。
>世界に共通の判断基準がなくなれば
>あらゆる議論は反対側にとって、考慮の対象ではなく、挑戦とみなされるようになる。
 
>そうなれば理性はその役割を果たさず、歴史は人間の思考及祈念を押しのけて自動的に破局へと転回していく』の問答が今において、真実味を帯びてくる。
***
「古代アッシリアの研究家によれば、古代アッシリアでは、従順は最高の美徳。良き生活とは従順な生活である」~古代ギリシア、ローマ学者フィンリー~
 
 反俗日記 2013/4/30(火) 午後 1:57
 
 民主主義の伝統的な原理が機能することは許されない、民主主義の先進国イギリス、アメリカという逆説。
「今日では~圧倒的多数の人々は、民主主義が最もよく知られ、考えられうる最良の統治形態であると認めている。
>それでいて、民主主義を伝統的に正当化した諸原理が実際に機能していないということ、
*さらには民主主義が生き残るためには
>それらの原理が機能することは許されないことを認めている。
>民主主義のエリート理論が取り分けて強力に主張されているのは近代の、経験的に最も成功した二つの民主主義国、イギリスとアメリカ合衆国においてである。
どのようにしてこの様に奇妙でパラドシカルな状況に我々は到達してしまったのだろうか。
 
 
 古典時代の民主主義はズット蔑ろにされ続けてきた。
逆転が起こったのは18世紀後半の<アメリカ革命>(W。フィンリーは独立戦争ではなく、革命という言葉を使用。)フランス革命だった。」
 
国軍の蜂起に、民衆が呼応したポルトガル革命から、2013年議会の傍聴席の沸き起こるグランドラ、小麦色の村よ!>の合唱へ。
この政治原理に普遍性がある。なお、<アラブの春の主体勢力>は新自由主義市民層と想定できる。
        ↓
  反俗日記 2013/5/3(金) 午後 1:09

 
*Amália Rodrigues - Grândol*Amália Rodrigues - グランドラ、小麦色の村よ
YOU TUBEにアップさているGrândol系の動画では、一番、ポピュラーで、完成度が高い。
W。アマリア、ロドリゲスは昔から好きな歌手。
行進する兵士たちの軍靴の音が、イントロから流れ、終始一貫、リズムを刻む。
4月25日の感動のスナップは国軍の決起の臨場感あふれ、かつ民衆との融合は赤いカーネーションに象徴されるナイーブな効果を発揮している。
吹奏楽の押さえた演奏と男性コーラスをバックに劇的に4月25日を盛り上げていくアマリアロドリゲスの歌唱力にファドの心をみる。この動画は、実にドラマチックで、芸術の域に達している。ポルトガルの歴史と伝統、文化の結晶である。
 

W。国軍武装蜂起の実相に近いスナップが多用されている。
Zeca Afonso(ゼガ、アルフォンソ)の歌声なのか?
この曲作りのGrândol*Amália Rodrigues - グランドラ、小麦色の村よーが一番多くアップされている。
 
 ②25 de Abril  W、1974年4月25日、00:20
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spacesis のポルトガルよもやま話  その40:抵抗の歌人・Zeca Afonso(ゼガ、アルフォンソ)
http://marie-mine.jp/image3/vira_o_vento_prog.pdf 引用部分は 記事半ば上
   ゼガ、アルフォンソの経歴
「:ゼカ・アフォンソ Zeca Afonsoは(1929~87)は:、
いわゆる社会派のシンガー・ソングライターで、特定の政党には入らず、ポルトガル独裁政権への反抗をつらぬきとおしました。1950年代末から活動をはじめ、しばしば投獄され、拷問を受けましたが、節を曲げずに訴えつづけました。74年の無血クーデターは、彼の曲がラジオで流れるのを合図にはじまりました。」
 要点 引用
「1974年3月29日、満席のリスボンのコリゼウ劇場で催された、Jose Afonsoを始めその他多くのミュージシャン共演コンサート最終幕で、彼の歌、が全員で高らかに歌われた。
>このとき会場には密かに準備されていた4月革命のMFA(国軍運動)のメンバーが聴衆に混じっており、革命の「カウンターサイン」としてこの「Grândla 」の歌を選んだと言われる。
 
W。選曲が逆だったら拙い。クーデターの全軍司令部も用意されていた。民衆に支持された蜂起は無血に終わることが多いが、タイミングが大事で、蜂起する兵士は命がけ、対抗軍事力との戦争事態も想定する。日本の1936年、2,26事態、チリ、ピノテェットのクーデターとは異なる。(5,15事件を引き継ぐ暗殺を伴う思想運動であった。)
 
>1974年4月24日午後10時55分、革命開始の合図として最初にPaulo de Carvalhoの歌、「E depois do adeus」(そして、さようならの後で)W→当時のポピュラーミュージックのようだ。Eurovision 1974 - Portugal https://www.youtube.com/watch?v=89LBNSX_vig がラジオで流され、革命は静かに始まった。
>約1時間後の翌4月25日真夜中00:20、ラジオルネッサンスで流された「Grândla 」は、「全て順調。行動に移れ」の二度目の合図で、これを聴いて左翼の若手将校たちが先頭になり無血革命の出撃が始まったのである。

4月25日朝、クーデターを知った民衆は続々と町へ繰り出し、リスボンアベニーダ・ドゥ・リベルダーデ(自由通り)は民衆と革命軍で埋め尽くされ、兵士たちの銃にはこの自由の勝利を祝って、民衆が投げたカーネーションの花が挿し込まれていた。
以来、ポルトガルではカーネーションは自由のシンボルとなった。

W。YOU TUBEの Grândola, Vila Morena 動画で、コンサート最終幕、歌手たちが舞台上にそろって、合唱する場面が多くアップされているのを不思議に思った。
*1974年3,29コンサート最終幕→4月25日、国軍武装蜂起の一連の歴史的経過を大切にしたという人々の想いは、受け継がれている。
>註:Grândla =グランドラは、アレンテージュ地方にある小さな町の名前。
Zeca Afonsoはローカル色豊かで素朴なこの歌でグランドラの人々の同胞愛を歌っている。
 ***
   
   りすぼんうまいもの日記  lisboeta.exblog.jp  
「ファドってリスボンコインブラの地方の民謡なのに、それをポルトガル全体で歌われているものとのイメージを固定化してしまうんじゃない?ポルトガル人の好きな音楽は暗い泣節ばかりという先入観を植え付けてしまうんじゃない?」 W。アマリア、ロドリゲスで一番好きな曲は軽快なメロディーだった。動画のどこを探しても見当たらなかった。残念!
 
大歌手のアマリア・ロドリゲスの後継者はこの人だと思っていた。ドゥルス・ポンテスは圧倒的な歌唱力でファドもポップもクラシックも歌う。
 
略図はポルトガル DOP アレンテージョ (DOP Alentejo, Portugal) のワインについて
イメージ 1>「暗いはしけ」 のオリジナル「黒い母」はブラジルの大農場の女奴隷が主人公。アフリカっぽいアレンジと数オクターブの声が雄大なスケールを感じさせる。
 
ポルトガルの文化のルーツの一つはケルト。特に北部にはケルト由来のバグパイプや太鼓を使った民謡や踊りが残っている。
ポルトガル公用語ポルトガル語の他に北部の国境の町ミランダ・ド・ドウロで話されるミランダ語がある。
Wナルホド。
*****
アレンテージョ地方の男性コーラスも好きだ。揃いの帽子とチョッキを身につけたおじさん達が力強く歌う労働の歌。そこから革命の合図となったゼカ・アフォンソ「小麦色の町グランドラ」が生まれた。
田舎者の代名詞となっているアレンテージョ人の中にもソフトで洗練された歌を聞かせてくれる人がいる。大海洋帝国だったポルトガルの凋落を詩的に歌ったヴィトリーノの「帝国の落陽」はしみじみ美しい。
 


        21世紀の資本 - Wikipedia引用。
  キーワード ベル・エポック Belle Époque 仏 ≪良き時代≫。解説者はピケティーの「21世紀の資本」の資本主義の分配の歴史傾向に対する、文中に登場するベル・エポックをキーワードにして解説したものと理解する。
 
「蓄積された資産は、子に相続され、労働者には分配されない。たとえば、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのベル・エポックの時代は、華やかな時代といわれているが、この時代は資産の9割が相続によるものだった。また、格差は非常に大きく、フランスでは上位1%が6割の資産を所有していた。」
 ***
 W。引用 2016/1/30(土) 午後 3:22  柄谷行人 - Wikipedia集5 岩波書店 歴史と反復 
                   表 世界資本主義の諸段階
 
             ~1810   1810年~1870  1870~1930  1930~1990     1990~
世界資本主義    重商主義    自由主義      帝国主義      高貴資本主義     新自由主義
資本          商人資本    産業資本主義   金融資本      国家独占資本主義  多国籍企業
世界商品       毛織物      繊維工業      重工業       耐久消費財       情報
国家          絶対主義     国民国家     帝国主義      福祉国家         地域主義
>W。産業資本主義の段階の資本の集中集積の結果、産業資本と銀行が融合した金融資本が形成、強蓄積肥大化し、国内過剰資本過剰生産に伴う生産と消費のかい離から、列強の世界市場の再分割が俎上に上る歴史段階、及び国民国家形成の事情から民族的排外主義を内在させている帝国主義国民国家の時代において、
各国政府の社会経済政策の基本は、金本位制自己調整的市場の運動に委ね、さらに植民地からの超過利潤獲得を追い求めていた
 
ベル・エポックの華やかな世相の底流では、①世界資本主義の不均等発展に基づく ②各国の階層間の経済利害の対立と ③世界市場の再分割が進展していた。
 
 
ベル・エポック(1800年代後半~ヨーロッパの大戦争)は平板な繁栄の時代ではない。
華やかなパリやドイツ資本主義の台頭、米国資本主義の興隆の一方で、産業資本主義時代の世界の工場、世界覇権国家、イギリスは、米独仏などの列強の経済発展の影響を受けて、
 
大不況 (1873年-1896年) - Wikipediaが続いた。←W。この解説を一読してその主旨がざっくりわかった人は大したものである。
歴史修正主義丸出しであることが、解説者自身、まったく自覚していない。アメリカ流民主政万歳のハンナ、アーレントなんか、大不況の時代の解説に直接関係はなかろう。
 
 解説より、一応、気になるところを抜きがいした。
長くなるが、いい加減な事実から離れた思い込みを排除するために、抜き書き部分は必要である。
 
1873年-1896年)に発生した世界的な経済危機を指す。第二次産業革命および南北戦争終結したことで力強い経済成長を遂げていた欧米に深刻な影響をもたらした。当時、この不況は「大恐慌」(Great Depression)という呼び名で呼ばれていたが、1930年代に入り世界恐慌が起こると、大不況(Long Depression)という呼び名へと変わった。
 
1873年に始まる穏やかなデフレと低成長の時期を通じて、1930年代の世界恐慌ほどの深刻な「経済の後退と劇的な崩壊」は起こらなかった。
   W.世界資本主義の生産と市場の連動性が強まっているということだ。
>英国はしばしば最も激しい打撃を受けたと考えられている
例えば、この期間に英国はいくつかの巨大産業で、欧州大陸国家に対して保っていた優位を失った
大不況のさなかでは、英国経済は1873年から最大で1896年までの連続的な不況が続いているという見方が多かった。
米国では、一般的に1873~79年の不況は、大不況(1873年のパニックに始まり1893年の不況がその後に続き、それら全期間をひとまとめにして広義の大不況)と経済学者に呼ばれている。
パニックに続いて起こった不況は、1873年10月から1879年3月まで続いたと定義している。65ヶ月間の不況というのは、全米経済研究所の分類では最長の不況であり、世界大恐慌の43ヶ月間の不況よりを上回っている。
>パニックの後、経済は急成長期に突入し、1870年代および1880年代の中で最も急速に経済成長を遂げた。

>この恐慌の真の原因は、
1870年の普仏戦争敗北によりフランスの経済が大打撃を受け、1871年のフランクフルト講和条約にてドイツに多額の賠償金の支払いを要求されたことにあるのではないか、という意見もある。W?以下、米国経済学流儀の分析が続く!
 
普仏戦争に敗れたことで、フランスは2億ポンドもの賠償金をドイツに支払うことを課せられたため、1873年の危機が発生したときには既に経済が傾いていたフランスは賠償金を支払いながら、意図的にデフレ政策を採った
1882年のパリ証券取引所での株価暴落によって、フランスは恐慌に突入し、「19世紀のどの国よりも長くそして深い痛手をフランスに与えた」と言われている。
***
*参考資料 W。こう云った完全なわき道にそれることも、第二のベル・エポックの時代を理解するため、新しい試みにチャレンジ中なので仕方がない。
■ ポール・ゴーギャン(ポール・ゴーガン) Paul Gauguin
1848-1903 | フランス | 後期印象派象徴主義
「1848年、熱烈な共和主義者のジャーナリストであるクロヴィス・ゴーギャン(父)とアリーヌ(母)の間にパリで生まれる。翌年、ルイ・ナポレオンの台頭によってフランス第二共和政が危うくなると、一家で南米のマリへと逃れる。
1855年までリマで過ごすも、祖父ギヨーム・ゴーギャンの死により、遺産相続のためにパリへと帰国。
1871年(23歳)からは株式仲買商ベルタンの店に勤め、才能を発揮。また同年から絵画を本格的に学び始める。
1883年、株式仲買商を辞め画業に専念することを決意(これが生涯続く困窮や妻との不仲のきっかけとなった)。W。1882年のパリ証券取引所での株価暴落によって、フランスは恐慌に突入し、「19世紀のどの国よりも長くそして深い痛手をフランスに与えた」と言われている。
 
ポール・セザンヌ Paul Cézanne
1839-1906 | フランス | 後期印象派
1886年、父ルイ=オーギュスト・セザンヌが死去。父が残した莫大な遺産により生涯の経済的不安から開放される。1880年代以降はエクスに戻り、プロヴァンスの風景画、人物画、静物画、水浴画など、後にセザンヌを代表する作品を制作することに専念。1890年代後半から次第に評価を得るようになり、晩年期には高額で絵画が取引されるようになったものの、糖尿病など健康状態が悪化。精神状態も不安定になり、対人関係が困難となった。1906年、偉大なる巨匠としての地位は確立されていたものの、エクスのアパートで肺炎により死去。 」
***
フランスの資本蓄積および外国からの投資は、19世紀後半以来フランスが経験した最低水準にまで落ち込んだ。
普仏戦争が終わった後、新規の投資銀行のブームが起こったが、危機によってフランスの銀行産業は崩壊した。この出来事は、20世紀初頭までフランスの金融セクターに暗い影を投げかけ続けた。
 
W.ベルエポックの時代は、華やかな時代表層と経済混乱、庶民の生活不安の混在する時代であった。

発展的波動(コンドラチェフの波を参照)の関与を指摘しており、
第二次産業革命によって多くの国の経済の重点が移動し、産業の転換コストが発生したことが、恐慌を引き起こす重要な役目を果たした可能性があるとしている。W。ようやく、マクロ経済学の一手法が出てきたが、米国流儀だから、それっきり、だ。
                   ↓
                     
   不況の進展 
*世界的には、1870年代、1880年代、1890年代は価格水準が下落の一途を辿る時期であり、それ以前および以後の時期の両方と比較して、明らかに経済成長率は低かった。多くの国では、恐慌前の19世紀前半および恐慌以降と比べて、経済成長率は明らかに低かった。W。経済運営は金本位制、と自己調整市場に委ねられていた。
  W。以下は時代を知る上で注目箇所
1870年から1890年にかけて、主要な粗鋼生産国五ヶ国の粗鋼生産高は、1,100万トンが2,300万トンへと2倍以上に伸び、また鉄鋼生産高は50万トンから1,100万トンへと20倍に伸びた
鉄道整備事業も活況を呈した。
      ↓
しかし、同じ時期に、いくつかの市場においては市場価格が総崩れとなった。
1894年の穀物価格は1867年の水準に比べて三分の一まで下落し、綿の価格は1872年から1877年までの5年間で半値まで下がった。

この価格下落によって農業従事者は大きな打撃を被った。この価格崩壊によって、多くの国(例えばフランス、ドイツ、米国など)において保護貿易主義政策が採られるようになった。
また、イタリア、スペイン、オーストリア・ハンガリー帝国、ロシアなどからの大規模な移民流入も誘発することとなった。
同様に、鉄の生産高が1870年代から1890年代にかけて2倍になった一方で、鉄の価格は半値まで下がった
W。重厚長大産業と大銀行の融合した金融資本による過剰生産、過剰資本、国内の生産と消費のかい離が原因であり、その結果は帝国主義の強化=世界市場の再分割の衝動に必然過程に至る。
大不況の影響で植民地化政策が復活した。
 
西洋の列強は自国製品の新たな市場を求めており、アフリカ分割に代表される新帝国主義の時代が幕を開いた。
政治学ハンナ・アーレントの著書『全体主義の起源』(1951年)によれば、「制限なき資本の拡張」に追随して、「制限なき力の拡張」が起こったという。
W.この女の言説を読むくらいなら、カールポラニー「大転換」を読んだ方が、良い。

 

 
   Growth rates of industrial production (1850s-1913) W。鉱工業生産の成長率。
      1850s-1873     1873-1890     1890-1913
ドイツ         4.3              2.9          4.1
イギリス       3.0              1.7          2.0
アメリカ       6.2              4.7          5.3
フランス       1.7              1.3          2.5
イタリア                         0.9          3.0
 
フランス資本主義が台頭しベル・エポックの時代様相が、濃厚になってきたのは、1890年以降と解る。 
同時に普仏戦争の敗戦の2万ポンドの多額の賠償金負担もあって、独との帝国主義国民国家対立が深まる。 
         ↓               http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/manet.html 転載
1878年    パリ万国博覧会   190日       1610万人 イメージ 3   
1889年     パリ万国博覧会  180日       3235万人
1889年    パリ万国博覧会   180日       3235万人
1900年    パリ万国博覧会   210日       4768万人
 
W。「華やかなパリやドイツ資本主義の台頭、米国資本主義の興隆の一方で、産業資本主義時代の世界の工場、世界覇権国家、イギリスは、米独仏などの列強の経済発展の影響を受けて、大不況 (1873年-1896年) - Wikipediaが続いた」
 
**********
 
1930年から1975年のあいだは
いくつかのかなり特殊な環境によって、格差拡大へと向かう流れが引き戻された
特殊な環境とは
 
①つまり2度の世界大戦や
世界恐慌のことである。
そして、こうした出来事によって、特に上流階級が持っていた富が、失われたのである。
 
③さらに、第二次世界大戦後に起こった高度成長の時代も、高い経済成長率(g)によって、相続などによる財産の重要性を減らすことになった。
 
W。ロシア革命~東西世界体制は西側資本主義に政策制度的修正をさせたことも見逃せない。
 
**********
 
 W。世界資本主義は、資本の論理むき出しの本来の姿に回帰している。
ただし、世界資本主義は新しい歴史段階を向けていることに留意すべきだ。
                  表 世界資本主義の諸段階
 
             ~1810   1810年~1870  1870~1930  1930~1990     1990~
世界資本主義    重商主義    自由主義      帝国主義      後期資本主義     新自由主義
資本          商人資本    産業資本主義   金融資本      国家独占資本主義  多国籍企業
世界商品       毛織物      繊維工業      重工業       耐久消費財       情報
国家          絶対主義     国民国家     帝国主義      福祉国家         地域主義
 
「1970年代後半からは、富裕層や大企業に対する減税などの政策によって、格差が再び拡大に向かうようになった。
そして、そしてデータから、現代の欧米は第二のベル・エポックの時代に突入し、中産階級は消滅へと向かっていると判断できる。
つまり、今日の世界は、経済の大部分を相続による富が握っている世襲制資本主義」に回帰しており、これらの力は増大して、寡頭制を生みだす。
 
また、今後は経済成長率が低い世界が予測されるので、資本収益率(r)は引き続き経済成長率(g)を上回る。
 
そのため、何も対策を打たなければ、富の不均衡は維持されることになる。
科学技術が急速に発達することによって、経済成長率が20世紀のレベルに戻るという考えは受け入れがたい。我々は「技術の気まぐれ」に身をゆだねるべきではない」
 
本書の内容  W。ピケティーの議論は、「資本主義の歴史的傾向と対策」と手短にまとめることができる。
W。内容を修正
r>g という不等式~経済的不平等が増してゆく基本的な力は、r>gという不等式にまとめることができる
rとは、利潤、配当金、利息、貸出料などのように、資本から入ってくる収入のことである。
そして、gは、給与所得などによって求められる。
   
 
      **過去200年以上のデータを分析**すると、
                  ↓
イ、資本収益率(r)は平均で年に5%程度であるが、
ロ、経済成長率(g)は1%から2%の範囲で収まっていることが明らかになった。
ニ、長期的にみると、資本収益率(r)は経済成長率(g)よりも大きい。
 
            *W。極当たり前の経済現象
                  ↓      
すなわち、資産によって得られる富の方が、労働によって得られる富よりも速く蓄積されやすいため、
>資産金額で見たときに上位10%、1%といった位置にいる人のほうがより裕福になりやすく、結果として格差は拡大しやすい。  
 
(ホ)その結果、富の集中が起こるため、資本から得られる収益率が経済成長率を上回れば上回るほど、それだけ富は資本家へ蓄積される。
 
ヘ、そして、富が公平に分配されないことによって、貧困が社会や経済の不安定となるということを主題としている。
 
このことから、経済的不平等が増してゆく基本的な力は、r>gという不等式にまとめることができる。
*そして、富が公平に分配されないことによって、貧困が社会や経済の不安定となるということを主題としている。