反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

ウィキの<水呑百姓>、<譜代下人>の解説に問題点は無い。どう修正しろ、と。グローバル資本制追従者には江戸時代の歴史を修正しなければならない無い理由がある。

                ウィキより、<水呑百姓>
 この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2013年1月) 
 
 次の<水呑百姓>の解説の何処に問題箇所を見出せるのだろうか?
 議論はノートを参照してください」?<議論のノート>など何処にも掲載されていない。
 
 要はこういう事実を指摘することに対して、持論をキチンと展開しないクレームが数多く寄せられている、あるいはグーグル日本がこの解説の特定部分を勝手に問題としているとしか想われない。
 
 また、出典が足りないのだろうか?
 
 こういう分野を主として扱った研究書はほとんど刊行物としては出版されていないはずだ。
時節柄、日本的封建時代の貧窮問題に関して研究が深められる必要があると想われるが、まだそこまで至っていない現状がある。
 戦国時代の戦争の裏側に必然化していた乱捕り、人身売買、社会の実態研究は進んでおり、その裏面を抜きに戦国時代に焦点を当てる傾向は今や払拭されている。
未だに性懲りもなく表側だけを話題にしているのはNHK日曜大河ドラマのマスコミだけだ。
それも歴史事実や時代考証をリアルに描き出せば、視聴者からクレームが付く始末だ。
 
             ウィキ、<水呑百姓>解説引用。
「水呑百姓(みずのみびゃくしょう)は、江戸時代以降、年貢の賦課基準となる石高を所持しない無高の者の呼称。単に水呑ともいう。
地域により、頭振、門男(もうと)、間脇(まわき)、無縁、雑家などの名称で呼ばれる。
貧しく水しか呑めない身分を意味する場合があるが、農地を必要としない生業を営む者も制度上は水呑に含まれるため、必ずしも貧農とは一致しない。
>職人、商人、廻船人なども水呑に含まれ、(W。出典、参考文献が網野喜彦『日本の歴史をよみなおす(全)』
ではどうしても、百姓の定義を広く取り、身分差別重視に流れ、確かにこの部分に説明不足はあるが、説明を少し付け加えると読者は大体想像できる。)
><海辺の都市(W。開発地多く、土地も痩せ、水利も悪い)や、人口が密集した集落(W。農民階層分解が激化した>で、そうした<水呑が多くなりやすかった>とされる。
  
    W.以下、ムラにおける百姓の定義と村の階層分解の歴史的推移(ここがもっと進展すると労働者層の出現となり、明治維新以降の資本関係形成のキーポイント。なお、村方、町方の貧窮は世直し一揆の激発の根源)
 
   江戸初期には、年貢の他に、各種の賦役を負う家が定められた。
賦役の負担する量や種類によって、本役・半役・四(小)半役・水役などに分かれていた。これが、本来の百姓だったと考えられている。
>17世紀半ば以降、このような制度は崩れていき、石高を所有入会地・用水管理などの資格を持つ者百姓と呼ばれた。石高を持たない者は水呑と呼ばれ、
江戸後期になると、本百姓・水呑百姓などと区分されるようになった
 
 1872年になると、新しい農業・私法政策に取り組む政府は、旧来から存在していた水呑の呼称の禁止及び身分から解放等を規定した法令を大蔵省から発した。これにより江戸時代から続く水呑に関する身分慣習及び制度は終焉を迎えた。」
W。必要箇所は抑えていると見る。
 
 続けて<水のみ百姓>以前の惣村→村切り→ムラ請負当初の17C後半まで農村下層の状態をウィキで調べると、こうなる。
                
                <譜代下人>
 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。
出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2013年8月)
この「譜代下人」は、日本の歴史に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています。
 
                ウィキの<譜代下人>解説引用
「譜代下人(ふだいげにん)とは、譜代奉公人(ふだいほうこうにん)とも呼ばれ、近世農村部において主家に人身的な隷属にあり、譜代として永代・世襲的に労役を提供する形によって奉公した下人・奉公人を指す
地方によっては家抱(けほう)・門屋(もんや)・庭子(にわこ)・内百姓(うちびゃくしょう)などの呼称があった。
また、従属の度合いも異なり、『地方凡例録』には夫婦を構成して生活している者や主家から土地を預けられて事実上の小作人であった者から、主家の屋敷内に住まわされてその命令下で田畑を耕す者など様々な形態があった事が知られている。
 
W。物凄くまとまった、事実に基ずく詳しい解説である。<水のみ百姓>解説よりも、根源的で迫力ある適切な解説。佐々木潤之助「江戸時代論」では譜代下人の数世代にわたる小農民への自立の過程が当時の訴訟資料で明らかにされている。この時代共通の小農の自立パターンである。
 
 その由来については中世以来の伝統的な下人の後継や戦国時代から江戸時代初期にかけての混乱期に人身売買によって獲得された零細民であったと考えられている
 戦国時代には乱妨取の習慣による人身売買が行われていたが江戸幕府はこれを禁じた
だが、当時の農村社会の経営は不安定であり、農業経営の出来なくなった小農民と労働力不足に悩まされる本百姓層の利害の一致によりこうした人身売買による隷属化が農村部において横行した。
 W。特定地域を問題にしているのではなく、歴史の継承性という事実にたった法的形式ではなく、社会の実態、全国的な傾向を取り上げている。

 やがて人身売買に対する規制が強化されると、種の脱法行為として人身質入による質券奉公人(しちけんほうこうにん)が出現する。
W.この部分は記事の後半で問題にする
 
W.江戸初期の土地永代売買禁止法の施行以降の地主ー小作関係は労役収奪から、作物、金銭に転化して、
質権奉公で間に合わない場合は土地そのものの入質に替わっていった。
幕藩体制は年貢のスムーズな徴収のために、事実上、土地永代売買禁止法を反故し、ここに商品経済の進展も伴って、村方に豪農兼、都会市場とムラの小商品生産を結ぶ商人を発生させる。
 
W。コレは必然的に全国の農村の階層分解である。
生産担当の村方においては、幕藩国家経済の根幹である穀物生産収奪は揺るがせないわけだから、市場と消費力は発達しないまま、都市、特に江戸、大阪、京都に富とカネが集中する。
この都市と農村の関係は時代が進めば進むほど鮮明になり、とりわけ中央集権政治都市、江戸は特殊な都市状態が出来していく。
天保大塩平八郎の決起1941年の直接的原因はは天保大飢饉に襲われた大阪の住民の多くが浮浪化している=住民の約3分の1にも拘らず、大阪城代は大量の余剰蔵米を江戸に上げ米することに対する怒りであった。
 
  
    本文に戻る
これは質券に書かれた本金(借入額)を奉公人の価格・利息の支払を債務期間中の労働に相当させ、借方である奉公人が本金を返済しない限りは身柄は終身にわたって貸方である主家に拘束されるという仕組であり、質に名を借りた事実上の人身売買による譜代下人であった。
 
江戸時代中期以後の農業経営の安定化に伴い、先進農業地域では譜代下人や質権奉公人は、年季奉公人(ねんきほうこうにん)に転化する事例も見られたが途上地域では幕末までこうした譜代下人が存在した。
 
 また、幕府や諸藩は表向きはこうした人身売買を禁じていたが、農業経営の安定による年貢徴収の安定化を優先させる配慮から、こうした譜代下人の存在を黙認していた。
 明治に入ると、旧来の慣習である譜代下人(家抱)は、身分の解禁および呼称の禁止が1872年の法令で発せられ、終焉を迎えた(W?別の形での下人階層の創出ではないのですか?歴史は簡単に区切りが付かない。ヤッパリ<譜代の下人>であった。」
 
 1980年代の江戸ブームはそれはそれで新鮮な風俗観だったが、問題はその主導者が、こういった歴史的背景を十分承知しておりながら、特定の情緒的偏狭世界観に通じるイデオロギーを捏造していたことである。
辛口の注釈をチラッと挟むこともできたはずだが、そういった気配はなかった。
時代風潮に流されていた。
    
W。マネー資本の国境を超えたた無政府的運動のグローバルか時代にも拘らず、階層分解が進行して社会的格差は拡大方向にあり、閉塞感が蔓延しつつある。
日本の支配関係、社会構造は江戸時代と次第に類似性がでてきており、
その関係上、江戸時代のリアルな支配、被支配関係があからさまになることを避けたい心理が支配層に働く。
王様はできるだけ着飾っていたい、丸裸状態は避けたい。
 
 このために江戸時代の支配被支配関係はできる限り隠蔽しなければならないのである。粉飾したい、本能が働く。
 手を変え品を変えた江戸時代美化論は1980年代以降出現し。現在に至っている。
その共通の手口の特徴は、260年の江戸時代の歴史的推移、有りのままの社会構造に触れず、江戸時代の特定の時期、一部特殊な状況下に出現した社会現象、風俗を時代総体、全国的状態のごとく錯覚させる手口で描き出し、
現在の人々に江戸時代の社会構造の実態と現在の親近性を感じさせないようにすることである。
 
 様々な手口で歴史の隠蔽、改ざんが行われている。
そのもっともあからさまな公的事例は歴史教科書改ざんである。
 
 それとは政治的立場がかけ離れているように見えるが、1980年代に起こった江戸時代ブームであり、その頂点はNHKの江戸考証劇であり、それが浸透し底流となっていると見る。

 歴史を知れば、江戸幕府の足元である江戸は今現在の東京一極集中の事情とは、まったく次元を異なる日本的封建中央政治の政治都市だったと解る。
江戸集住を人質的に強制された武士階層50万人の農村の生産と富を収奪のトリクルリンクに預かっていた江戸庶民の実存だった、といわねばならぬ。
同時に江戸時代の大都市は17C後半の直系家族制度成立によって生じる、あぶれものの墓場であった。
関八州の農村荒廃と江戸の「繁栄」はリンクされていた。国定忠治、出現の背景である。
 
>最期にに今の時代風潮に流された錯覚に始まり錯覚に終わる江戸時代の農民論議を(江戸時代は身分制度の中の百姓はいても農民はいないよ)YAHOO知恵袋から引用する。
 
Q*江戸時代の日本の農民は 所謂"農奴"でしょうか? 多分 売り買いはされてなかった...?
   移動の自由、職業選択の自由、不動産所有権はなかった訳ですよね(永小作権はあったが)
   出来れば 農奴の定義をしてもらえれば助かります。W。実はじぶんも調べていくと、同じ疑問がわいてきた
質問日時:2012/5/4 05:09:33       解決日時: 2012/5/19 04:4
閲覧数:950   回答数:5
 
  >以下はベストアンサーだという。
江戸時代の農民は土地に縛り付けられ、領主裁判に服すると言うヨーロッパの農奴社会にあてはまるものではありません
W。ヨーロッパの歴史にも日本と同じく中世もあれば近世もあり、何時の時代を指摘しているのか?農奴と一括りにはできない。このヒトが念頭においているのは、絶対王政以前の中世で、コレでは絶対王政→市民革命の一部地域の歴史ルートの流れは、都市における突発的な暴力闘争の出現に限定され、このヒトの指摘するような領主ー農奴関係の、十字軍遠征、ペスト流行、金納地代化という崩壊過程が解らない。
 
江戸時代になると田地の売券がさかんに現れてきますが、その売券には検地帳に記載された田地の地字、その面積、名請人の名称が必ず記載されています
W。売り券とは質入土地の契約書ことでは?私の意見では、そういった種類のものを公儀は法的に明記したことはなかったと想う。基本的にそういった商品関係(土地売り買いも土地の商品化)は民間の事案として幕藩体制は一貫して距離を置いていた。だから、改革には年貢体制の根幹を維持したいがために、商品関係の発展と相反する質素倹約とかが必ず付きまとう。封建政治支配体制を維持しなければ己の存在も危ういのだから、前期資本制発展への対応について常に大きな限界が付きまとっていた。
従って、近代化に向かうためには、政治暴力によって打倒するしかなかった。
 そもそも、このヒトは検地=土地所有権認定→売り券=所有権売買契約書という検地を除けばまるで今の法律と同じ概念を封建時代に適応している。
それだったら、いくら鎖国していたとはいえ、幕藩体制はもっと秩序維持に苦労したと思うよ。
そしてその後の日本もっとましな道を歩んでいた可能性も少しはあった。よ
 
      本文に戻る。ー以下は余りにもばかばかしいー
検地帳は現在の土地基本台帳と同じような物で検地帳に記載される事により農民の所有権が確認W?されたのです。
 検地は農民の土地所有権を保証W?すると言う役割を持っていました。
職業の選択も自由でW?農民が苗字帯刀を許され士分に取り立てられたり(W新撰組か?とりあえず幕末の一部の事実。よくずうずうしくこういうことを公にできるな。)、副業で商工業に従事していたと言う例も多数あります。
農民が土地を耕しながら店を開き、織物を織り、酒造までしていたのです。(W。それが行きすぎたらダメと終始一貫押さえてけている。そもそも、農村と都市の経済関係がわかっていない。)
 
 ちなみに私の祖先は最下級の福岡藩士でしたが副業で土地を耕し、炭焼きと言う職人仕事までしていました。
藩士と言っても農民と同じ年貢を藩に納め、さまざまな公役を課せられていました。
W。幕藩体制の財政苦境で末端は給料で食えなくなって放置されたってこと。
あてにされていなかったとも言える。リストラだよ。幕末では薩長のように藩政改革が幕政改革よりも思い切って先行した。
その結果の改革先行の長州征伐失敗→内乱→明治(兵農分離天皇イデ軸しか見当たらず)絶対政府樹立。
 
 移動も割と簡単に認められていたようです。W。?260年間の一時期の幕末のこと?
例をあげると旧福岡藩領にある寺院の過去帳には出生地が薩摩、美濃、武蔵、石見、佐渡陸奥などの人々の記載があるからです。
W。幕藩体制は古代国家の戸籍人格支配ではなく身分制秩序支配のための身分張であり、移動は管理下で認められている。
 
 例外はあると思いますが地域の責任者の認可とキリシタン問題の関係から寺請証明を受ければ割と簡単に移住は認めれていたのではないでしょうか?
 
 正徳三年(1713)佐渡奉行W?ここは鉱山のあったところで、排水作業に従事していたものは大体3年で死亡すると筆まめ佐渡奉行は記しており、この日記は現地の事情を記した史料価値の高いものらしい)他国に移住したければ出願すれば勝手次第とすると言う布令を出しています。(W.そういうワザとらしい御触れの裏側に何があるか知りたい。)」
 
  最後の最後に
又しても、
第二章 江戸時代前期の石部
第一節 領主支配の確立
支配体制の確立
を挙げておく。日本的封建時代の原理論である。
 
 なお、これは、京都発ー東海道下り、一泊目の宿場(40km弱)であり、村でもあった滋賀県湖南市石部(石部村、東寺村西寺村)の現代までの波乱万丈の郷土史の一部である。郷土史家と研究者の力作である。
 
 読み始めてどうしてこうも、丁寧で研究的な郷土史が綴られているのか、疑問に想ったが、途中でなるほどと納得した。
 江戸時代の石部地区には歴史家が興味を抱くほとんどすべてモノがあった、ということだ。
村関連の歴史、宿場関連の歴史、鉱山、商業。典型的な江戸論はこの事項の歴史的事実の上にで展開されている。
 
 個人的に一番、興味を引かれたのは、掲載した記事にある記述者の的確な江戸時代の領主支配の原理の解説、
 さらに圧巻は、幕末の膨大な民衆蜂起=甲賀一揆を古文書によって、描き出しているところである
 
 増税を性急に求めるために当地を訪れた幕府中央役人の賄賂要求、検地尺度のインチキ横暴に対して、広範な甲賀地区の村役人層は寄り合いをもって、立ち上がることに決めた。
やはり、一揆の最初の一歩は午前2時の暗闇にとどろくほら貝と決起した膨大な民衆のうねりの音だった。リアルな状況描写の古文書の存在は一揆史にとって貴重なものだろう。
目ぼしい武器の携帯はなったようであるが、暴動状態に至ったようである。
要求は不正検地阻止だった。
それに署名させて収束する。
そして、関係する多くの人たちに厳罰が下った。
大塩平八郎決起1941年、の次の年1942年のことだった。幕末維新は直ぐ近くに迫っていた。
 江戸幕府体制は腐敗していたのである。
 
 化政文化1804年~1829年は佐々木潤之助に言わせると上田秋成1734年~1809年)の死を持って、真を追求する内実を喪失していたそうである
 
ウィキ引用
江戸時代後期(化政時代)に発展した町人文化である。政治・社会の出来事や日常の生活を風刺する川柳が流行した。また、文学では、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』のように、庶民生活を面白おかしく描いた、滑稽な作り話が好まれた。版画では、多彩な色彩を表現できる技術が向上し、そのような技術で作られた版画は錦絵と呼ばれた。江戸から発生し、商人などの全国的交流や、出版教育の普及によって各地に伝えられていった。
 
 また、これに伴い、内容も多様化していき、庶民へと浸透していった。
風俗上で時代劇の舞台とされることが最も多いのがこの時代である。
 
 江戸時代前期に栄えた町人文化である元禄文化のときには、文化の中心は上方であったが、このころから文化の重心は江戸に移っていく。
また近年では元禄文化化政文化の中間である18世紀後半の宝暦明和安永天明年間に文化の転換期を見ることも多い(→宝暦・天明文化:戯作文学の誕生・錦絵の勃興・天明狂歌の隆盛・「江戸っ子」の成立)。」
 
 
W。浮世絵版画の多色刷りの技法を目の当たりにしても、100年のそういった方面での進歩はわかる。
が、文学において、井原西鶴近松門左衛門十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の間に果たして進展はあったのかどうか。
歴史には古代ギリシア、ローマとその後を例に引くまでもなく、政治思想イデオロギー分野で大きな後退する時代がある。
今はその時代だと想う。
丁度その次代に日本経済の世界に対する相対的後退が急激に進行していると見る。
それが日本国内に見事に反映してきている。
 
 先の先を見通せば好ましいことではある。
熟したものは自身でも、落下する。
         <明治初期の農民たち>
イメージ 1