反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

歴史の現場の探訪。滋賀県石部町。兵庫県太子町。大阪府日根野町。伊勢神宮の風景。

  ヨシッ!決めた。近いうちに滋賀県湖南市石部町を訪れてみよう。
 グーグル航空写真の現地接近観察で大体の感触は掴んでおり、今風の無秩序開発の波をまともに受けたところのようだが、それはそれとして、興味は幕末、甲賀住民総決起のイリュージョンに向かう。それだけでもよい。
もう少し資料で再確認してみよう。
            航空地図でこの寺の所在に覚えがある。
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>写真のパッと見だけなんとなく価値が感じられる。
>解説。 常楽寺三重塔、国宝。応永7年(1400年)の丸瓦と平瓦があるので、この頃に建立(W。鎌倉時代、丸瓦はなかった?)と考えられています。三間四方(5m)、瓦葺き、高さ22.8m、釈迦如来座像(木造)を安置、来迎壁に釈迦説法図が描かれている。
>ヤッパリ!
 1400年といえば、応仁の乱が終わって22年後。歴史の区切りでは一応、室町時代ということになるが、戦国時代が始まって8年後ということになる。
 石部村、山沿いに入った東寺村、西寺村は琵琶湖に流れ込む1級河川野津川沿いに開けた豊穣の地、古から中部地方との連絡道が通じており、後に東海道に整備され、京都から一泊目(35km)の宿場は石部とされた。
 
 琵琶湖方面は草津、守山で、栗東を含むこの地域は関西圏では一番経済成長率の高いところとされている。
 
             
              中央競馬栗東トレーニングセンター。航空地図に異様な風景。
 南西に一山越えたところは中央競馬会の広大な栗東トレーニングセンターがある。
栗東トレセン周辺を航空写真で探索すると、山中に多数の蛇行した赤茶け異様なものが目に付く。
土地の開いたところに必ずある狭隘国土の無駄使い、無残、としか言いようの無いゴルフ場の緑では無い。
 
 現場写真はウオッチできないが、ウッドチップの敷き詰められたサラブレッドの調教コースと推定する。
よくTVの競馬番組などで坂路追いきりの映像が流されているが、それとは別口の山の中の自然環境で馬をリラックスさせながら、調整する広大な施設だろう。
霞ヶ浦関東馬のマッタイラなトレセンでは、坂路の追いきりコースさえ、坂を盛り上げて作っているくらいだから、こういう施設は絶対に作れない。霞ヶ浦の水道では水質まで悪いらしい。
 
 おそらく、競馬ファンもこういう施設があることを全く知らないと想う。
競馬マスコミは、こういう関東と関西のトレセン環境の根本的格差を知っていながら報道しないで、射幸心だけを煽っている。本当のことを知らせると馬券購入意欲が減じると懸念しているわけだ。
JRA競馬ではよほどの天変地異が発生しない限り、関東馬関西馬に勝てない。永遠というわけだ。
 一事が万事ではないが、情報隠しと一対になった情報の捏造の、この手の類は何時のころか日本でよく目にするようになった。
 
 
                兵庫県揖保郡太子町一人揖保郡を名乗っている。
 古、妄想の旅行きは兵庫県揖保郡太子町に行ったときを最期にしようと、決めた。
行く前に調べてみると、ここは凄いところで、たった1町で、揖保郡を名乗っている。揖保郡=太子町。確かに行政区分けとしてはそういう手はずになる。
旧揖保郡の他のところは全部、姫路市と合併している。何か拘りがあるわけだ。
地元のヒトに事情を尋ねるとあっさりと、東芝の工場があったから、という。法人税の地方分の収入があったわけだ。
 
 ここはその名の通り、法隆寺(記憶違いかもしれない)の旧荘園で、当時の荘園の日常生活の記録が古文書として残っている。
読んでいると当時の人々の様子が想像できて面白い。
どうしても事件関連の記録が多くなる。
最大の騒動は隣村にある揖保川の取水口を巡る水騒動で、千人の村人が集結して、対峙している
殺人事件、大火事、領主権の奪い合いの揉め事があったり、博打を禁止したりイロイロある。
 
 
              話題は明治新政府批判へ
 ここは確か、勇壮で危険極まりない裸祭りで一般的に知られているところだと想う。
明治新後、政府の欧化方針に沿って、その手の野卑な土民丸出しの風俗は、現地の先進を気取る人士が率先して、自粛運動を展開し、穏健方向に修正したり、廃止している。
 
 その典型は今の歌舞伎で、ルサンチマン丸出しの復讐劇や痴話物語を歌舞伎役者にリアルに演じられたら、日本人はそんなものと、見下される、あるいは一端、歯向かって、その後は西洋化で従順にしているけれど、それはその場限りの文物取り込みのための振りだけであって、何時は向かってくるいう欧米人の疑心暗鬼を政府はとても気にして、危ないところを全部、削ぎ落としたらしい。
ま。ズット後にそうなったわけだけど。
 
 だから、江戸時代の写楽浮世絵版画の大首絵や歌麿の描いた歌舞伎と、今の歌舞伎ではストーリーなどは同じでも、劇場、舞台、役者等々全て設定は全く別物と考えたほうがいい。
 
  故杉浦日名子氏もその辺の事情はよく知っており、歌舞伎などを手繰って江戸を語る愚を戒めていたという
彼女の関心は江戸庶民の風俗に向かっていた
芸能文芸をネタに江戸情緒や江戸趣味を語る人は昔から一杯いたわけで、ここが彼女に説得力を持たせた原因である。
ただ、ピリッとした辛口の一言を入れて欲しかった。
なかなか難しいことではある。
 
 
                  石井進著「鎌倉人の声を聞く」NHK出版 
 石井進「鎌倉人の声を聞く」NHK出版。
有名な蒙古襲来絵詞を順序に沿って、観察しながら、豊富な歴史知識を駆使して推論を展開するわけだけど、一晩かかって読み終える程面白かった。
 
 あの絵巻は肥後の親族との土地相続争いに破れ、無所有者となった小鎌倉御家人竹崎季長(よりなが)の体を張っての出世を目指した奮戦期であり、第一回目の襲来時の武功を認定してくれないからといって、本人が鎌倉まで出向いて当該の最高責任者に直訴するくだりまである。
 
 そこで自分の器量を認めて地頭に任命してくれた幕府内の最高責任者の一族郎党と鎌倉幕府御家人派閥関係者は霜月の乱で、執権北条家御内人の対抗派閥の全国一斉蜂起のクーデターによって全部殺されてしまう
そのクーデターの時、季長は大恩ある人たちの元に駆けつけることができなかった
しばらくたって、彼は隠居して、蒙古襲来絵詞の製作を思いついた。
 
 確かに、蒙古襲来絵詞を挙げながら、そこに描かれ、絵詞として書かれた事実を豊富な歴史知識を駆使して状況と背景の推論推定を進めていく、史書というよりは状況と歴史的背景の推理もあるノンフィクション物語になっていてぐいぐい読者を引っ張っていく迫力はあったが、
よくよく考えてみると、それがどうした、なんなの?という疑念がわいてきた。
 
 なんだか大企業サラリーマンのセコイ出世物語を読まされた気がした
吉川英治太閤記の学術特化版?
 
 それが鎌倉人の声を聞く、ということなのかどうか、釈然としなかった。
 
 それだったら、当時の庶民の生の姿を知ったい。
霜月の乱のような凄惨な全国大量殺戮陰謀事件の実態を教えて欲しい。
 
 吾妻鏡を元した専門家の解説を読んだが、本人が平和ボケ、政治音痴なのか、隠然とした内部抗争が大量殺戮戦に及んでしまうリアルなパワーバランスのあり方について、臨場感を持って描けていない。
クーデターを起す側は、ここでやらなければという切羽詰った、決断にいたる経過と行動の一瞬があったわけで、やられた側には、どうしても無用心が付きまとうが、政治感覚としては危ない気配は感じていても、後に引くことができない鎌倉武士としての弱さがある。
またそれでなければ武家は立ち行かなかった。
結局、有力御家人たちが全部排除された実情の一端はこういう鎌倉武士の引くことをためらう突貫精神にある。初期の武士に固有の精神のあり方だと想う。平将門の記事を書いていてつくづくそう感じた。
 
 この手の政治劇は近年、我々の前に展開されたのじゃなかったか?
小沢一郎を巡る一連の政治劇はこの類と見る。
最後の日本未来の党を巡る無様なイザコザ劇は、単純に考えて、一端後ろに引けばいいものを、直進して墓穴を掘っている。
どうしてそういうことになるのか、本人も周囲も真正面から考え直すことを避けて、状況や他人のせいにしている。鎌倉武士は追い詰められると自害しているが、自害のナシのここは大いに違う。
 
 あの人が、即座に政界から引退しても、政治にとって何の損失にもならないと想うが。存在が戦いの邪魔になっている。生活党の諸氏が生き残るためには小沢一郎を除名したほうがいい。それくらい残酷なことを選択しないと反転の内部からのパワーは生まれない。
 
 
              兵庫県揖保郡太子町に戻る
 古の地図で調べた古寺の方に何気なく、大昔のことを尋ねて見ると、全く無関心だった。
ただし、町当局は自分たちの歴史を強烈に意識しているようで分不相応としか言いようの無い、大きな手の込んだつくりの博物館を建てていた。自分の知っている限り、そのような規模は政令指定都市クラスである。
展示物は古代から戦前戦後にいたる当地の歴史事物だった。
 
 しかし、小高い城跡に登って見渡すと、田んぼを適当に埋め立てた新興住宅地が眼下に広がって、一人揖保郡でがんばっている太子町を食い散らかしているようにみえた。(勝手な妄想)
 日本全国の都市の郊外で無秩序乱開発が目に付く。
米国は土地が広く歴史が浅いから一部の地区を除いて、基本的にこの状態だと想う。
ヨーロッパは限りをしって有効利用する術を知っている。
日本も限りは大き過ぎるはずなのに、クルッテイルとしかいいようがない。
 
 というか、日本の都会は本質的に農村秩序の延長で、それがそのまま郊外を侵食しているの図。
そう考えると、農村の前の村の実態を照らし出すのも一考である。
団体さんいらっしゃい状態の結び目が解けると地上数メートルの風船が無数に漂っている状態になる。
風を一方向に吹かせると簡単になびく。
百姓は草の靡きー戦国時代のことわざー、とか
 
            
                  伊勢神宮
 沿岸から離れた山を背にした荘園の風景というのは、一つのパターンがある。
必ず、山側から平野部に流れる川の上流に、開けた広い荘園の一括した取水口がある。高いところで水を取って、下に流していく。
 
 昔、伊勢神宮に行ったとき、ピ~ンときた。アッここは荘園の典型的な風景だな。
 
 内宮、本殿の直ぐ脇を五十鈴川が流れていた。夏の川岸のこんもりとした岩に水着の子供たちが一杯集って、水遊びをしていた。
子供たちの明るい歓声が背後の川岸にそった神社所有のうっそうとした大木の小山に木霊していた。大木は川面に太い枝を伸ばし、川面を濃い緑色に染め上げていた。
 
 伊勢神宮本殿は田舎の神社の本殿を大規模にしたような感じで、気取ったり取り繕った気配は一切なかった。神社の長閑なありきたりの日常の時間がゆったりと過ぎていってようで、どちらかといったら、俗っぽい感じがした。
お参りする側も、本殿のヒトも、改まって格式を意識したところが一切なかった。
そこにあるがままに投げ出されている神殿?の造りは、古墳から出土する家の埴輪のような極めて簡素なつくりだった。
 そういう状態の時空にボッーと神殿のほうに向かうと何かを感じる仕組みになっているらしい
 
 参道の両側に並ぶ店の方が商売柄、古の歴史を強調していた。
その中には以前、食品偽装問題で世間を賑わした和菓子屋もあるわけだけれど、門前町の風景としては他に無い歴史の重みを感じさせる。
昔の伊勢参りの男どもは門前町遊郭で一遊びした後、帰路に着いたらしい。確かに今でも五十鈴川に臨むところは料亭街である。
伊勢神宮参りは庶民にとって遊興でもあったのだろうか。
 
 内宮から外宮方面にかなり下っていくと、森の一角に、なにやら怪しげなスポットが開けている
角の取れたアイボリー色の二握り程の石が訳あり風に一面に規則正しく並べられていた。
その脇に小さなほこらがあったように記憶している。
高天原の連想を企画していると直ぐ判って、このときもまた、ボッーと物思いにふけってみた
 
 その結論。
天皇一党、日本貴族は京都を発ってから、素朴質素、存在的にどういう訳か庶民と通じるものがあるところが、東京で奉られ変態した
 
 一部過激公家と薩長などの野卑な下級田舎侍が己の野心を貫徹させんがために加工し制度化した。
ドイツ皇帝制度に倣ったというが、ドイツ皇帝、貴族は数百年も政治の埒外におかれたことはなかった。
 
 そういう意味で日本の古代君主と貴族は政治的成熟する機会のないまま、無内容この上ないせいぜい中世中期までの状態に留まっており、それを形式化することで、生計を立ててきたわけで、田舎侍の野心家にとって操りやすかった。
 
                 山本太郎加山雄三
 山本太郎さんは天皇に手紙を渡したということだが、加山雄三園遊会に招かれても出席しないで、舟遊びをしていた、
確か、彼の母方は岩倉具視の直系だ。ヤッパリ、元華族華族なりの戦後の苦労があって、身内に対する卑近ともいえる具体的な恨みつらみ、割り切った考えがあったのじゃなかろうか?
 
 今上天皇という人は日本史の専攻のようで、東京大空襲に焼け出された下町に昭和天皇が視察に訪れ光景を偶々目撃した、堀田善衛の「方丈記私記」を多分、読んでいて、2011年東日本大震災福島原発事故の後、堀田善衛が現地の天皇に土下座する住民の様子を描いた場面と天皇批判を知っていて、わざわざ同じ場所の当地の住民の生き残りと面会したのではなかろうか?
 
 このブログではその場面を「古代アッシリアでは従順は最高の美徳。よき生活とは従順な生活である」などと、くそみそにけなしたわけだけれど、今もそれを撤回するつもりは一切ないが、今上さんにもそれなりの事情があると解る。
 
 そうする諸々の憶測を前提として、山本太郎さんの場合はどうなるよ、ということの疑念だった。
加山雄三のほうがこの件に関して山本太郎さんよりマシだったのではないか?
 
 
                   
                 日根野庄>    
 その前は、有名な日根野庄を訪ねた。
JR線が関西国際空港埋立地をめがけて急カーブしているところだ。
閑散とした駅前から、日本史の教科書でなじみの日根野庄絵図に描かれている山側に向かう道が、そのまま残っているように想われた。
 綺麗さっぱり、何にもないひなびた大阪南端の田舎町(町と村の中間の微妙な風景)で1500年ごろの元摂政関白、九条政基「旅引き付け」の直接統治の約1年間の記録日記に丹念に描かれている現地だ、などということはこれぽっちも町側の意識にないようだった。
その筋では知らない人がいないほどの有名なところが、現地の人は全く無関係に生業をしている。
 
 妄想がらみだが、印象として500年前とたいして変わっていないように見えた。
確かにあの絵図に家並みは追加されているが、それも昔の景観を残した道路沿いの歴史のスローな歩みに相応しい増え方で、どの家も古い。
昔に駄菓子屋や酒屋が古の道沿いにそのまま残っている感じだった。
 
 必要最小限限度の家並みが途絶えた先は、政基日記にある日根野庄の時代から、徳川の村請が始まった時代までの荘官の職の名称をそのままの珍しい苗字の家がそこここにあった。
 
 山側に路を辿っていくと、荘園図に描かれた同じ場所に、寺と直ぐその脇の神社と寺が合体したような建造物があった。
その横の小川には日記で描かれた、村人たちが流されたものを、合力して引っ張り上げ、取り付けなおした取水口跡が保存されていた。
 
 そこから山の斜面の路を上った峠で古の村人は集結して外部勢力の進出に対峙した。
既にこの時代、平野部は外部勢力の進出を受けて、切り取りを進んでおり、安全確保のために年貢を二重払いする地域が出現していた
 
小川沿いに峠をそのまま行くと、犬丸という小さな盆地の地域に至る。
ここに九条政基は地元当地の本拠とした。
 犬丸地区探訪は時間の都合と歩道の無い曲がりくねった山路を車がすっ飛ばしてくるのを見て諦めた。
この辺がぶらり旅の難しいところで、乗り物に乗れば行動範囲は広がるが、丹念な見て歩きはできない。
今度、石部に行ったら現地でレンタルできないか。
 
 なお、政基、本人は殺人事件を引き起こして関白職を解任された状態で、九条家にも年貢が集まらなくなって、残り少ないまとまった荘園の直接管理だったが、1年余りで大した成果も挙げずに京に帰っていった。
 
 日記の様子では現地にいて、自分の領地の四季の移り変わりと領民の労働、祭事、事件、日常生活を丹念に記しただけで、荘園経営には何の寄与もなく、逆に外部勢力に太刀打ちできず、嫌気がさして、帰郷しただけと想われるが、結果的にそれによって第一級の歴史資料を後世に伝えた。
 
 貴族文人は落ちぶれて、文に集中し、それが歴史的な成果となった。
武士の場合は落ちぶれ果てた末は何も無い。
なにやら国、民族単位の趨勢を思い浮かべる。
 
九条家の最盛期は頼朝直系の三代将軍が自滅して、その後、北条家台頭の下で鎌倉公方に下向していた時期だろう。
当時の実力程は東西本願寺など問題にならない東福寺の威容を見れば解る。貴族で堂々の威容を誇る巨大寺院を自家寺としている例は他には見当たらない。