<はじめに>
ところが、どうも自分はそういう方法に不適格のようで、理論的方法の逆を知らず知らずのうちに選択している。
具体的リアルな事実拘り、関連を執拗に追及していくうちに、自分の器に合わせた普遍的事物を発見する。
秘密保護法の領域に存在する問題系に行きついたのは、昨年の8月15日、敗戦記念日に向けて、新しい方法として、サイパン島の戦いのリアルな過程に踏み込んで検証してみようと思いついて、サイパンを含むマリアナ諸島を本土の絶対防空権と設定した大本営の残存連合艦隊を総動員したマリアナ沖海戦の事実経過を調べている時だった。
日本軍は物量戦で敗北したのではない。科学技術と情報戦で敗北した。
そこで、後者に注目し、ではあの米軍の強力な諜報機関は、戦争が終わって何処に行った?と問題を立てた。
以上のような歴史的推移の過程で、では太平洋戦争を勝利に導いた米情報機構はどのように発展進化したのか?
ちょっと調べただけでゾロゾロと関連事項が手繰り寄せられた。
全部ネットで公になっているものばかりである。
今でもネットに掲載されていると想うがスノーデン事件関連の重要項目を辿っていくと現状の全体像はわかるようになっている。ただ、秘密保護法可決を受けて日本国内では知らせては拙い項目があるので修正されているかもしれない。
それで、結論として、アングロサクソン系国家支配層の軍事政治の情報の共有化システムとその使用の事態への日本支配層の呼応が趨勢として水面下で必然化していく、とした。
民主党政権以降の一連の内外政治動向と照らし合わせると一発で解った。
自分では身震いするような真実の発見だった。
秘密保護法の動きが出てきだしたのは参議院選挙の自公圧勝の結果を受けて、アベ等がゴーサインを出し、急速に法案検討が行われだしてからだと想う。
元々、この種の法案検討は既にそれ以前に行われていたわけで、実務レベルで草案は直ぐできる。
その後の途中経過は全部省いて、
>要は、内外の権力機構のハード、ソフト両面の基本動向に対して、一つの問題系を掴んだら、全体像が浮上する絶対キーポイントを何処に設定するかどうかである。
まず先に全体像を掴もうとすると、マスコミやネットの状況把握に対して、イエス、ノーを繰り返しているうちに、結果的に自分の感覚的見解の体系が何時の間にやら形成している、という状態に至るだけではないのか。
こんなの所詮、好き嫌いのレベルに収斂するのではないか、と想う。
あちら側の好き嫌いとこちら側の好き嫌いが、架空の角を突き合わせて、空中戦を展開している。
超高度情報化社会の大きな落とし穴だと想う。
実存、実態は得手勝手に加工されている。
が、それを知ろうとする方法にも大きな限界が潜んでいる。
現在やこれからの世界は、官僚の報告書の結論部分でも正直に<海図>の無き航海に船出しているようなものだと指摘している。
21世紀の時代のはずが、14世紀後半から15世紀の大航海時代(コレは1962年の岩波書店本作成時の命名であり、直訳では欧米では地理上の発見の時代、大発見の時代)の羅針盤はあっても海図のない時代に突入しているわけだ。コレが時代認識ではないが、正直なこれからの時代感覚である。
そうすると、そんな見取り図もあやふやな各種、各位の大状況認識に対して○だの×だのやってられない、一々即応して付き合う必要はサラサラ無い。
自分で海図を作るのは無理だろう。
情報過多の彼等でさえできないと正直に吐露しているわけだからーー。
キチンと情報を集めないで海図を作る愚は、戦前の日本史の悪例が示しているし、形を変えて戦後も今も続いている。
(なお、この系列の問題を現状の政治動向に当てはめると、<海図なき航海>の正直派の政策選択柔軟対応派が、アベ等主導の無理やり海図捏造、大状況突破型派に政治結果によって押し切られている現状とみる。コレが各種、の官僚報告書を読み込んだ感想である。)
そこで、羅針盤は自分で作ろう。そういう思いである。
今は江戸時代論に拘っている。この地点から現代の一角を照射したい。厳しく。
キチンと江戸時代論を我が物にして、これからの戦いの根拠としたい。
面白い表現に出会った。ーウィキ琵琶湖よりー
もののふの矢橋の船は速かれど急がば廻れ瀬田の長橋
広範な庄屋層の談合に主導され、一揆決断にいたる住民には、検地に訪れた幕府役人の不公平、賄賂要求など非合理、不条理に対する真っ直ぐな憤怒とそれを組織し、獲得目標検地(見分)を10万日延期を掲げた合理主義の精神があった。
ネットに記載されている解説では不十分。日本史と世界史に通じる共通の尺度が必要。
佐々木潤之助著「江戸時代論」の関連項目を引用する。
次の箇所で述べられている重要事項を尺度と到達点が明確になり、この時代から明治維新に至る歴史のうねり(底流、必然性)がわかる。登場人物たちは時代基調はなんとなく感じていても、後世の職業的歴史家が指摘する視点とはまったく無縁であっただろう。我々が数十年後をリアルにつかめないのと同じである。
本質的に現時点で、正しいものは誰もいないのである。
ただし、次のような歴史を見通したいという努力は絶対必要。それには過去ー現在ー未来の展開を抑えるしか今のところ方法は無い。
五、国家史としての江戸時代ーW。佐々木潤之助の云う、国家史とは国家権力論、社会構造論を基本的視座にしたものであり、日本国家の歩みではない。
こういう順番で各項目を押さえていかなければ、江戸時代の国家権力のあり方、社会構造の状態の全体像は明らかにできない。
時間の制約があるので、途中中断する。
1石高制
W。ここをすっ飛ばしては江戸時代の歴史理論にはならない。ただの話題の提供。幕藩体制の経済の基本は何か?ということ。
2「公儀そのもの」ー
W。抽象論だが、こういうことのできる歴史家を評価する。江戸時代の国家権力論だと想う。
この論法では幕藩体制の公儀(幕府)と私儀(藩)関係では封建的主従関係を常に内包して払拭できないのだから、延長線上には明治維新の絶対主義体制において古代君主がイデオロギー的結集軸になる他ない、と指摘しているようなものである。
自分は一揆を日本民主政の歴史として捉えてきた。民主主義の説明する際に、欧米の近代史の歩みに置き換える必要は無い、と考える。
そういった説明をする輩に常に違和感と不信感を抱いてきた。
本当にこの人たちは、民主主義を語っても、民主主義者なのか?
民主主義者ではないと常々自覚している自分が云っているのだから、公平な立場である。
池上彰「政治のことがよく解らないまま社会人なってしまった人へ」
民主主義とは何か?
<民主主義の始まり>
「民主主義を英語で言うとデモクラシーです。この語源はギリシア語のデモス(民衆)W。インチキが既に始まっている。デモスは地縁氏族の生み出す紛争を避けるために抽選で割り当てられた地区に戸籍=権利を有する市民=市民は合理主義によって、この析出された存在を民衆議会を通じて都市国家=戦士集団が軍事的基礎にリンクする。デモスを民衆などという解釈がまかり通るのは日本の特徴)
~以下、古代ギリシアの民主主義の出発点から話は飛んで、英仏の市民革命と議会の出現に移行する。
ヨーロッパは広過ぎる。イロイロ各種、取り揃えている。ま、よく解らないままの社会人相手ではしょうがないが、こういう誤解を与える平板なことを刷り込むから、事実に触れると、大きな勘違いや政治反動が生まれる。
<民主主義とは、国民が政治家に独裁てきな権力を与えること>
ここは国家権力論である。
こういう観点を嫌うヒトがいるが事実ありもままの事実である。国家権力の本質論をしている点は評価する。
ただし、対抗要因に、選挙中心主義と議会しか置いていない。
それでは、多数決で選んだのだから、しかたがないという諦めが生じる。
日本では市民の戦いとコーポラリズム的政治内容が要請されている。
常に選挙に沸騰しているのは、どうか?合理的でない。
また、民主主義論の内実の権力構造を明らかにすれば、日本民主政があからさまになって拙いから
突然北朝鮮が引き合いに出される。
そういう訳で民主主義の説明はほとんどこんな調子。
小沢一郎も身内の議員研究会で得々と、ヨーロッパ、特に大好きなイギリス民主主義と議会制確立の歴史を語っていた。
確かに耳障りはいい。なぜなら、そんな歴史は自分の過去にない絵空事だから、美化されている。
痛みを伴っている面は関係ないから。
日本内外の時代状況を考えると、焦らない、爪先立たない、地に足のついた日本民主政の戦いの推進が必要と考える。
公の儀・私の儀/
「ここで前近代の公と私について整理しておかないと混乱が生じる。
主人と従者との間での個別的な人格支配関係に基礎をおく封建制などは、私的関係の代表的なものであり、そこでの支配者=主人は私的な権力者である。
その権力の基礎は、主人に対する従者の個別的な精神的物質的従属関係であって、それは個別的な武力・経済力や政治的文化的社会的資質などのして権威と現実的な諸関係によって支えたれているものであった。
このような権力を私権力とし、その私権力を基礎にして展開している関係は私的関係であり、
その私的関係において行われる行為や事柄は<私の儀>である。
私権力は、その基礎が私的個別的であることによって不安定であると共に脆く、相対的かつ流動的なものであった。所謂、忠誠の相対性はその表現である。
従って、それらの私権力は、その弱点を克服して権力を絶対化しようとする志向を強くかつ常に持っていた。
~以下。土地領主制に基本原理に収まらない私的領域としての都市の手工業商業の生産生活、漁村山村鉱山などの社会関係との共同、対抗関係を取り込むためには封建的な私的関係の克服への強硬な指向が不可欠と押さえておく。
>このような、1)私権力がそれ自体持っている<内在的な脆弱性>と(W。武士の私的主従関係を公の権威とするとき、には飛躍が必要)
>そして、その弱点は私権力を公権力へと駆り立てることとなった。
公権力はそれらの弱点を克服できる性格を持っていたからである。
公権力と人々の間の人格的支配関係の基礎には、私的権力を超越した正当性がある。
ここで言う超越性というのは、現実的な論理や関係によって説明する必要もなく、説明することもできない正当性であり、一切の正当性の前提になる正当性であった。
(W。一言で云えば、幕藩体制とその経済に内在する絶対主義化=近代化への道の論理というえるが、論理思考は一人歩きしている。ここまで気を回す必要があるのか?ヨーロッパの歴史発展コースの当ては目じゃないのか?最期まで読めば、絶対主義化の以前の二代将軍時代に確立した公儀を指しているとわかるが、それなら余計に問題)
その超越性は一面では、宗教性を基礎としていた。W.?
その超越性は多面では、人々の歴史性、歴史経験によって体得された歴史的体質によって、形成されていた。
>過去の歴史的状態が、美化され想起され、そこでの人々の歴史体験が、その正当性の内実を生み出した。
その正当性は超越的な権威に基づいているものとされ、その権威は貢献意図して公の性格を持つものとされた。
(W。江戸時代の改革の度に叫ばれた権現様(徳川家康)の時代に返れ!しかしその説明に天皇イデオロギー紛いの領域を混交させる必要があるのか。先走り過ぎ、やり過ぎ。そこまで公儀の権威は庶民に浸透していたのか?)
公儀の成立ーW。私→公への転化のための装置、操作~具体的制度政策
天皇公家家と将軍家の血縁的混成。各種法度。慶長軍役制度など役割規定統制。主従制への官位制の取り込み~。
その結果本来は私的権力であった将軍権利力が公権力性を獲得し、公儀となった。
将軍、幕府がこのような公儀を確定したのは、家康治世晩年、二代将軍秀忠の時代であった。
民衆支配においては、公儀ー百姓体制が確定した。
W。国家とは支配層の被支配層に対する暴力支配の道具であり、共同政治幻想性を付与する。
単純素朴にとりええず、そういうことにしておく。