反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

元、NHK報道局主幹、池上彰さんの民主主義とは何か?を翻訳すると<日本は民主主義の服を着たおしゃべりな独裁国家>。フィンリー「古代アッシリアでは従順は最高の徳。善き生活とは従順な生活のこと。」

 池上彰さんの「政治のことがわからないまま社会人になった人たちへ」は民主主義と政治の仕組みを解りやすく解き明かしたものだが、冒頭の<政治とは何か?><民主主義とは何か?>を読み込むと、現在の日本の民主主義と政治のありようが露骨に浮かび上がってくる代物になっている。
 
 まず、政治とは何か?
政治の原理を遡れば、専制権力を持った王様の民への統治に始まるという。
池上さんの云う<政治という言葉の意味=王様の仕事=まつりごと。
「治める国の民を満足させ、反乱を起こさせないようにすること。あるいはちゃんと働いて、税金を納めさせるようにさせ、国を運営していくこと。そういった民衆の統治や国の運営など王様の仕事。」
 
支配する王と支配される側の民の本質的関係を言い表した
国家権力論であるとすれば、
 
 その王が民を具体的に支配したり、外国との戦争手段を含む具体的な外交関係の方針方策は
<政策>ということになる。
 
 「王様、国王、皇帝、独裁者(W。この中に天皇が入ってない。日本古代史の天皇、朝廷直接政治は抹消、あくまでもよその国に話をもって行き、政治を語るという日本知識の悪癖、浮遊性)の方針方策。」
つまり、王様の統治という政治原理の変容発展した支配形態として国王、皇帝、独裁者を挙げている訳だ。
キチンと王様支配の歴史の発展を押さえている。
 
 歴史用語いう祭政一致、池上さんの言う<まつりごと>の時点では王様側だけに政治はあった、という指摘は歴史教科書的には間違っていないかもしれないが、民の側に税を納めないものや、反抗するものが、文字に書かれた歴史に現れていないだけで、いなかったとはいえない、だろう。
 
>この様な王様ありきの政治の本質という指摘に続けて、池上さんは次に王様統治の変容発展した支配形態として国王、皇帝、独裁者を挙げて、彼らの政治方針、方策を<政策>の説明としている。
 
>>この時点の統治者の名称=国王、皇帝、独裁者から判断すると池上さんの説明対象とする歴史スパンは一気に古代から中世アタリまでを含めた広い範囲のものとなっている、といっていい。
 
>というのも、次の段落でいきなり「1642年のイギリス清教徒革命(イギリス的プロテスタントの権力を握ったピューリタンは断頭台の上で国王の首をはねている。)1789~99年のフランス革命における革命によって王様や皇帝を権力から引き摺り下ろし、支配者層の国家権力を奪うという社会変革もありました。」としている、からだ。
 
>>池上彰流、政治は王様ありきで始まりました論の問題点は、王権と民衆の説明対象を一気に古代から中世アタリまでを含めた広い範囲ものとしている段階にある。
 
池上さんは、民の側にも政治があったこと、少なくとも、池上さんの嫌う「クーデターや内乱、~といった暴力でしか権力者を引き摺り下ろせない」東西の古の権力者と民衆の間の血生臭い争闘を、キッチリと封印している。
 
また王様側自体の間の権力を巡る殺戮、陰謀があったことを封印している。
 
池上さんの頭の中では、歴史スパンを古代から中世まで一気に自分で広げておいてなお、「政治は王様ありき」のままだ。
 
政治の原理を語るとき、古代~中世の世界史的視野を持ち出しておいて、世界史の教科書を事実上、否定している、と言って過言でない。
 
そうしておいて、ヨーロッパの17、18世紀の市民革命における、王様と民衆の権力を巡る争闘を初めて持ち出して、「支配層の国家権力を奪う社会の変革」などと解説しても、
政治の本質論から民の側の具体的反抗反乱の歴史的事実を追放しているのだから、日本の識者によくあるヨーロッパ中心史観の焼き直しにしかなっていない。
 
日本人を含むアジア人といおうか、現時点の地球人口の70%を占める人たちにはリアル性のない別世界の王権と民衆の関係の近代政治の物語である。
この民主主義政治話は、自分たちの直接関わりのない伝統と歴史だから、耳障りがよくて、異論反論も少なく、安心して聞き流される。
ちなみに日本の江戸時代から明治にかけての近代史はそうした手法による近代政治の説明からは、大きくはみ出している。今の大方の国がそうである。
 
したがって、最低限に、そのような手法で政治とは何か?民主主義とは何か?を解説することで足りるのかどうか?が今後問われていくだろう。
 
それぞれの地域の具体的な歴史を抽象化してヨーロッパ中心の政治観、民主主義観と並列させることが求められている。
「世界史の研究」さんのヨーロッパ中心史観ではないインドオリエント南北アメリカ、中国といった広い世界史の視点は参考になる。
 
池上さんには、自分の意図に反して、そのスタートラインを提示してくれている。
アカラサマナ日本の民主主義の政治と制度の現状の提示によって。
 
>池上さんいわく。「民主主義とは国民が政治家に独裁的な権力を与えること。」
既に記事にしたように、この領域の政治家の権限をシュンペーターは決定力といいフィンリーは決定としているが、独裁的権力と規定していないし、文の前後関係から判断しても、彼らが指摘しているのは、有権者の選挙による政治家の選出と政策決定のタイムラグ、あるいは選挙によって選ばれた政治家と政権の専権的権限のことである。
 
ところが、池上さんの云う「  」部分の政治家の独裁的権力とかある種独裁的な権力における独裁という権力(強制力と言い換えてもいい)は有権者が選挙によって選べない官僚役人、各々を構成員とする統治機構を含む政権のことを指している。
 
具体的に日本の有権者の選ぶことのできる政権の実態を見てみると、各種官僚機構と政権は強烈に密着関係にあって、政権は官僚機構役人層と国民を、結ぶ伝動ベルトにすぎない様相を呈している。
 
選挙は数年に一度しか行われない。
 
そこで、この伝動ベルトの稼動も数年に一度となる
 
では国民と政治家、政権の間に立って、日常的に結ぶ実体は何か。
国民と政治家、政権を結ぶ中間媒体ということもいえるが、それは日本マスコミを置いて他ない。実質的に。
 
 -2013年5、4記事より引用ー
「だとするならば、選挙できない期間の国民はどうして政権の独裁的運営の可能性や諸々の政策の勝手な施行を拒否できるのか。本来ならば、国民市民自らが厳しく監視すべきであり、間違っているとおもえば、その時点で自ら立ち上がって、NOを表明すべき筋合いのものである。
大衆行動の本来の大きな役割は、そういうところにある。
ところが、日本のデモの多くはスケジュールに沿ったもので、参加誘導もベルトコンベアーのような手順で組織的に行われている。
デモはデモとして現実政治と別の次元で行われているが如き様相を呈してきた。
日本のマスコミが国民、市民の代表を自称して、(新聞は社会の木鐸とか云うわけのわからない死語や不偏不党を自称して)国民市民の選挙と同じぐらい大切な選挙のできない期間の国民の政治行為をマスコミが政治報道によって、代替してきた。
ズットそうしてきたからシステム化した虚構とさえなっている。
全国紙の発行部数が単独で1000万部とか800万部とか自称している。
話を半分にしても、世界に類を見ない異常な状態である。
この全国紙の系列に全国テレビ網が各々連結している。ラジオもだいたい同じである。
記者クラブ制度の結局何も変わらなかったが、政官業の一次情報を独占する仕組みである。
販売価格協定も独占禁止法から除外されている。
電通博報堂で情報媒体とクライアントの中継ぎ業務の70~80%を独占している。
これらは物理的組織的資本的巨大な力であり、システムとして、国民政治参加の代替をしている、というか実質は国民を情報の完全な受け手にすることで、政治と国民の間の生のかかわりを遮断する巨大なカーテンを作っている。」
 
ということで時間もないことだから、結論付けるが、
「元、NHK報道局主幹、池上彰さんの民主主義とは何か?を翻訳すると<日本は民主主義の服を着たおしゃべりな独裁国家>、
というのは単なる屁理屈なのかどうか怪しくなる政治の急速、一方向、空一面の暗雲の流れである。
 
「古代アッシリアでは従順は最高の徳。善き生活とは従順な生活のこと」フィンリー。