第1章。指導者と追随者より。ー以下は章の総括であるー
「アテナイは政治的リーダーシップと民衆の政治参加が~民衆の無関心と無知にも、エリート理論を振り回す人々の抱くような極端な想いこみのいづれにも陥ることなく、共存しえたことの、<貴重なケースステディ>を提供している。」
まず、P62の原注のフィンリーのこの項、関連のJSミル批判に注目する。フィンリーには現代民主主義批判の視点がある。その政治的構造物への批判の眼目は
A)近代以降の民主主義の経済基盤の根底的な変容は民衆の生活、労働、政治意識を規定する。
B)そのような超国家的コングロマットの構成物としてのマスメディア資本。
次の二点の詳論は時間の都合により省略。
第一。
官僚組織の肥大化による、「政治の意思決定を補助として出発するものが事実上の独立組織化し、組織それ自体の孕む問題によって、本来解決するはずだった諸問題を作り上げ、特には複雑化する。」ーヘンリーキッシンジャーー。
第二。
キッシンジャーによれば、「指導者は例え一時的なものであれ、後退は避けたい、というほとんど脅迫的な願望が覗われる。」
長期的な利害は「未来はなんら選挙民の支持を取り付けられる保証がないが故に」おのずから無視されるはめになる。
>>本論。超国家コングリマットとしてのマスメディア問題。
(TPP参加によって日本のマスメディアは現在のアメリカ型の総合コミニュケーション、コングロマットに再編される可能性が高い。元々社会基盤の構成が非民主的閉鎖的団体の上への積み重ねなのだから、こうした再編は超管理社会を招くだろう。)
「マスメディアは価値を創造し強化する力を持っている。
(共同政治幻想としての民族、国家、地域、会社社会のイデオロギーの拡大再生産及びCMなどを通じた商品価値の価格への飛躍)。
また、(マスメディアの価値創造、強化)は知的受動性を生み出す。
(中間媒体の恒常的に垂れ流す圧倒的な情報量は受けての脳と身体に自然と刷り込まれるのであり、あくまでも受身で対処するほかなく、情報の取捨選択さえ困難になっている。)
「古典的民主主義理論の<教育目標の否定>である。」
(コレは<啓蒙教育の否定という意味ではなく、アテナイのような民会、裁判、行政への市民参加によって、自然ともたらされる政治教育の実践的効果、のことである。
政治意識、政治判断は書籍や情報一般だけでなく経験によって得られる部分が大きい。
失敗も必要なのである。
日本人がデモに参加しないのはマスコミの情報過多により、<民衆が知的的受動性>の罠に陥っていることが大きい。頭でっかち。しかも、その中身は過剰情報による支配的イデオロギーの刷り込み。
こうした状態からは現状維持の保守に発する余計な危機感が社会に充満し、その浮遊性が政治過程の実際の状況と乖離した独自運動化をもたらし、国政の行方を左右する。
じっとして、時折の選挙に参加しても、その程度の行為では所詮、ザタイム イズ オールウェイズ チェンジング。
民主主義者のイギリスのフィンリーも次のように断言している。
「大衆の無関心と政治的無知は今日の基本的事実である。そのことは議論の余地がない。
(大衆の在りようは何時の時代も<アテナイ民主政もしかり><生活の専門家>であり、無知や無関心とは次元は違う。自己の行動原理において、社会のどの単位に重点を置くかの問題。
政治的人間が社会を良くしてきたわけでもない。むしろ惨禍をもたらして来たのではなかったか。)
「決定は政治指導者によってなされるのであって、民衆の投票によるのではない。
民衆はせいぜい、事後に拒否権を行使することがあるに過ぎない。」
マッカーシー旋風に追われてイギリス渡って、地道に古典時代の研究に励み、その成果によって、サーの称号を授章したフィンリーは絶対にここで話と途切れさせる訳にはいかない。
そうでなければ、池上彰さんが指摘する
「そのしくみがないため(不十分なため、と読む。)クーデターや内乱、革命といった暴力でしか、権力者を引き摺り下ろすことができません。」ということに論理的になりかねない。
そこで、彼一流の切り替えしの場面転換作法で読者を位相の違う改良の政治課題に導く。
「問題(現代民主政の政治的本質を指摘した上での、是正する改良の政治課題の設定=一挙の場面転換)は、
こうした状態が現代の条件のもとで必要かつ望ましいものであるか否かということであり~云々」
とした上で、
彼は( )として次のように云う。
(私がここで<発明という言葉を使ったのは、アテナイ人たちが民主主義を発明したと前に述べたのと同じ意味である。)
この本でフィンリーが目指した最大の政治眼目は以上に集約されている、といっても過言でない。
ところで、現在の世界の民主政はフィンリーの時代からどうなってきたのか?
大まかな現時代状況は先進国民主政は金融経済化によって、外見だけ残して金融寡頭制の支配に転換しつつありが、中進、後進国においては民主政は成長しつつある。
コレが現代民主政の趨勢である。
まず何より視野は世界的であるべきである。
日本の民主政の後退が混迷を通じて、世界の民主政の促進材料になる可能性もある。
日本の民主主義論の現状は池上彰さんの「政治のことが良くわからないまま社会人になってしまった人へ」に解りやすく開示されている。
まず政治とは何か?
「政治は王様ありきだった。」のサブタイトル。政治的権威と人民統治=暴力装置を含む国家機構は元々、王様のものだった。従って、政治は王様ありき、と。
近代政治形成過程を
「革命によって、王様や皇帝を引き摺り下ろし、支配層の国家権力をうばうという社会の変革もありました。」などと、としている。
それだけの指摘では日本の天皇制立憲制の近代史の引き付けられないと思ったのか、
「その中でもイギリスの革命は、王様の権威はそのまま残して、権力だけを王様から国民に移して国民の代表が治めて行きましょう、という変革でした。」などと整理しなおしている。
だから、「国民の代表が国を治める場合も、そのまま、<政治>という言葉が使われて、今に至ると言うわけです。」
民主主義とは何か?
サブタイトル民主主義の始まり。
まず、デモクラシーの語源説明。
クラティア=支配、は正しいとしてもデモス=市民という<少数者の特権>なのを承知の上で、民衆とわざと読み替えている。民衆などという言葉は古代ギリシアには存在しなかった。
後に続く民主主義の説明では市民は民衆としなければならない。
>英語でも日本語でもと言い換えて、
「民主主義とは民衆による国の支配、つまり国民主権を基本とする政治の仕組みです、」と。
「またそれを目指す思想や運動」とここはキッチリ押さえている。
その後の説明は政治とは何か?の近代民主政の形成過程の説明の繰り返し。
市民革命の理念を列記している。
革命権!
民主主義とは国民が政治家に独裁的な権力を与えること(サブタイトル)
「政治のスタイル?には大きく分けて二つあります。」と。
わざとスタイルという紛らわしい言い回しを使っているが<統治形態>のことで、形態だから、国家権力の本質は独裁にある、という隠語が隠されている。この意味で政治とは何かの「王様、ありきだった。」と国家権力論として一貫している。
コレに対しての政治のスタイルが民主制。
しかし、その先の説明は圧巻である。
「コレは選挙で選んだ人に対して、ある種の独裁的権力を与えることを意味します。政治家にはある種の独裁的な権力があります。
<民主制という名前>であっても、選挙で選んだ政治家に独裁的権力を与えるのです。」
フィンリーの先の言葉に符合する。ただ、選挙で選ばれた政治家に独裁的権力を付与するとまでは言わなかった。
「決定は政治指導者によってなされるのであって、民衆の投票によるのではない。
民衆はせいぜい、事後に拒否権を行使することがあるに過ぎない。」
それにフィーリーはこうした現代民主制の真相を憂慮して、アテナイ精神などという改良を持ち出している。
池上さんにそういう気配は一切ない。
政治家に政治の結果責任を取らせる選挙による試行錯誤を当然、含む選択の繰り返しに民主主義政治の効果を見出すばかりである。
これはフィンリーの批判する民主主義は民主主義の形を取っているから有効なのだ、という現状追従論者の論法そのものである。
さらには、政治権力を交代させる仕組みは一応あっても、事実上実現不可能な機構的体制が成立しており、その上に胡坐をかいた政権担当者が開き直りの政治を始めたらと、有権者は選挙の繰り返しにどういう政治的意味を持たせたらいいのか。政策選択のほとんど余地のない有権者の選挙の繰り返しとはなんなのか?
それがこれからの日本の政治過程の推移じゃないのか?
歴史は特定地域で暴走する場合がある。
間違いなく日本の政治過程は世界状況の実情から遊離して独り歩きを始めている。
その速度は速まって、やがて駆け足になると想定する。