1、アテナイ民主政の不可欠の要素としての国家宗教によって強化された共同体意識。
「共同体意識
(W。政治的同質性は民主主義政治の条件である、とはワイマール時代の左右の共通認識だった。)こそがアテナイ民主政治の実際上の成功をもたらした不可欠の要素であって、その意識は国家宗教と伝統
もし市民の間に行動に枠をはめるような自己規制がなかったならば、無制限の参加の権利を持った主権的な民会も、民衆法廷も、抽選による役人の選出も、陶片追放も、無秩序状態にせよ、反対に僭主政にせよ、阻止することはできなかっただろう。
2、現代の民主政必要で、望ましいものであるかどうか。民衆参加の新しい形態が発明される必要があるか、否か、という問題。
「大衆の無関心と政治的無知は今日の基本的事実であって、そのことは議論の余地はない。
>民衆がせいぜい、事後に拒否権を行使することがあるに過ぎない。」
3、民主主義のエリート理論は元来機能面の定義だったものをひとつの価値判断に転換してしまっている。
「エリート理論は職業政治家を英雄視する見方を持っている。
(W。アメリカでは当初から顕著。日本も最近になって後追い)」
4、政治はいかにあるべきかを思考し、反民主主義の「立場を取るに至ったアテナイ思想家は非道徳の政治の有効性という逆説的真理を蔑ろにしているのではないか。
アテナイの年老いた寡頭制論者の言葉。
「私もそうだが、あなた方の中にも民主制を好まないものがいるだろう。
しかし、事実を冷静に判断してみれば、我々が道徳的な根拠から非難するものが、実際の力としては強力で、その原因はまさに非道徳性にあるのだ。」
その代わり反民主政の立場を取った思想家たちは、政治はいかにあるべきか、ということに固執した。
5、アテナイ民主政治をみる妥当な4の前提条件。
1)、代議制民主主義と違った直接民主制。
2)、都市の空間的な狭さ。
3)、民会が事実上、制度の頂点に位置するもので、先例においても範囲においても、ほとんど制限を受けず、全ての政策決定を行う権限と権力を満っていた。
4)、群衆行動が問題になる。
6、政治家はアテナイ民会の挑戦にさらされていた。
「例えば、週ごとの戦争行為は民会に週ごとに諮られなければならなかった。
>しかもその行為を行った後、議会や法廷は次の措置をいかににすべきかばかりでなく、彼を罷免すすべきか否か、その計画を放棄すべきか否か、
あるいは場合によっては、彼の政治責任を問い、罰金刑や追放刑に処すべきか否か、
提案者自身ないしはその行為の実行方法のかどで死刑に処すべきかといううことさえ、表決するようなものであった。
アテナイ統治制度の下では~政治家は政治的な理由による訴訟の脅威にも絶え間なくさらされていたのである。
7、アテナイ政治指導者であることの条件は異常な緊張に耐えられること。
「民会で投票した多くの人々の広範な政治経験は~民会に参加することの政治への関与の度合いの深さに決定付けられた。
この関与の深さの度合いは発言者たちの間でも同様だった。
>というのも、1票1票が問われた問題を解決すると同時に、彼ら自身(W。発言者と表決者の両者!)も裁いたからである。
>アテナイの政治指導者であることの条件を最もよく表した言葉をひとつだけ選ばなければならないとしたら、
それは<<緊張>>という言葉になるだろう。
そして、ブルジョア権利の達成後、市民と政治指導者の緊張関係は蔑ろにされた。
資本と労働力商品の等価交換の原則=資本制の平等、は資本制の生産過程において剰余価値を拡大再生産するのだから、もうそれ以上の変革は支配層にとっては必要でなくなった。)
8、雄弁術。
「雄弁術に関する反対は、即座に退けられるべきものである。
~つまりは民会での訴えは普通は国家的なものであって、党派的なものでなかったということは明らかである。
富者を向こうに回して、貧者にあからさまにおもねたり、都市住民に対して農民たにおもねったり、
あるいはその逆を行うようなことはほとんどなかった。実際にそのようなあからさまにおもねる必要があっただろうか。
(W。.階層分解は都市国家という限定空間の中で今より遥かに小さかったし、何よりもデモス支配者としての実質的政治関与のできる差は少なかった。
ソロンの政治改革の時点で将軍相当の財産収入は市民最低レベルの2、5倍。
その後アテナイ帝国化による格差の拡大でも今と比較できないほど小さかった。)
9、民主政治にとって単に同意だけがあればよいというものではなくて、対立は民主制が寡頭制へと堕落するのを防ぐためによいことである。
「この全面戦争が参加者たちにとって疑いもなく厳しいもので、時には不公正で誤っていたりしたことさえあったが、だからといって社会全体にとって、マッタクの悪であったということにはならない。
甚だしい不公平、重大な利害の対立、意見の相違相違は深刻に存在した。
そうした条件の下では、対立は不可避であるばかりでなく、民主政治にとってよいことであった。
なぜなら民主制が寡頭制へと堕落するのを防ぐためには、単にどういうがあればよいというものではなく、同意と共に対立があることが必要だったからである。
前5世紀の大半を占めていた国政に関する論争では、勝利を収めたのは民主派の人々だった。
そして彼らが勝利を収め得たのは、
まさしく彼らがそのために戦ったからであり、
しかも激しく戦ったからだった。」