J、Sミルは「自由論」の中で次のように書いている。
「この論文(自由論)の目的は、~法的刑罰という形であれ、世論という道徳的強制であれ、
強制と統制という形での個人に対する社会の取り扱いを
絶対的に支配する資格のある、ひとつの単純な原理を主張することである。
その原理とは
人類が、
個人的または集団的に、誰かのの行動の自由に正当に干渉しうる唯一の目的は、
<自己防衛>だということである。
すなわち、文明社会の成員に対して、
彼の意思に反して、
正当な権力を行使し得る唯一の目的は、<<他人に対する危害の防止>>である。
人間の行為の中で、社会に従わなければならない部分は、
他人に関係する部分だけである。
<<自分自身にだけ関係する行為>>においては、
彼の独立は絶対的である。
彼自身に対しては、彼自身の身体と精神に対しては、
個人は主権者である。」
「行政官の専制から身を守るだけでは十分でない。
支配的な世論や、感情の専制に対して防衛することも必要である。
つまり、社会が法的刑罰以外の手段を用いて、
自己の考えや習慣を
それに同意しない人々に
行為の規則として押し付けようとする傾向に対する防衛も必要である。」
>J、Sミル。
1806年~1873年。イギリス。
1823年 父親の勤めている東インド会社に入る。
1858年 東インド会社解散ににより、退社。
52歳まで会社員生活を送っていたことになるが、
幼児からの天才。大学からの誘いもあったが東インド会社を選択している。
会社員といっても学究生活が保障されていたことは次のことでわかる。
1843年 「論理学体系」によって思想家としての地位を確立。
1844年 「経済学試論集」
1848年 「経済学原理」
>この著作の正式名称は「経済学及び社会哲学に対する、それらの原理の若干の応用」
要するに、後にケインズが展開した政府の財政社会政策を視野に入れた政治経済学の先駆のような著作。
経済学史的にはポイントとなる著作。
1866年 国会議員当選
1868年 落選
1873年 妻ハリエットに眠るフランス、アビニヨンで死去。
>>イギリスが産業資本主義の全盛から帝国主義に転換する時代の御人。
ミルの会社員学究生活によって、イギリス東インド会社の総合的性格もなんとなく解る。
ニューフロンティア、創業利得及びインドような巨大な植民地支配によって得られる富は大きい。
>アダムスミス。
1723年~1790年
このヒトの場合、イギリスが世界に向かう時代。
時代が古すぎて理論面では見る役ものがない。
>デイビット、リーカド。
1772年~1823年
イギリス資本主義は世界の工場。
従って、これから自国産業を成長させようという国に高い関税障壁を設けて産業保護政策をやられると困るので、自由貿易の比較優位性を説いている。有名な比較優位論もサラッと解説されている程度では国際分業論のように受け止められがちだが、もっと手が込んでいる。
経済学の基礎を築いたのはこのヒト。
>マルクス
1818年~1883年
>グーグルのウィデペキアで、ミルの解説をみたが、違和感を感じた。
彼が生きた時代背景がスッポリト抜け落ちて、個人にスポットライトを集中している。
引用した後半の部分の視点は今でも新鮮である、というか強大化したマスコミ媒体の膨大な情報垂れ流しによって、意識するしない、にかかわらず、生活者個々人の脳内に、マスコミ編集のイデオロギーとしての情報が刷り込まれ、そのことによって、政治意識や行動が枠に入れられている現状に対して、少なくとも拒否権を発動する根拠を19世紀のヒトが与えてくれている事を、我々はどう考えたら云いのだろうか。
特に、近頃は一時期よりも退歩傾向は顕著とみるが。
フランソア、シャムー「ギリシャ文明」450ページの大著。
本の厚みを計ったら4センチもある。
よ~くよめば、本の厚みと中身にかなり差があるとわかったが、ナンナンダイ!訳者あとがきは。
ぼけきっている。
以前記事にした澤田典子とかいうセンセイをもっと悪化させたような、生ぬるさ加減。
寒い季節、ぬるい湯にはいると外に出られなくなる。