「アテナイの社会構造は自由人と奴隷という二元的なわけかたでが決して言い尽くせるものではない。
我々はデモス(W。人口の6分の1程度の18歳以上のアテナイ男性市民。なお、フィンリーによれば、democracy、この言葉の後半部分は権力、支配を意味する。少数市民の支配あるいは権力。古代ギリシャ人の実態を実直に言葉に表現する合理主義に注目する。現実直視は独創性の源である。肝心な事態に対して事実を編集してことに当たる日本人と好対照。)
エリート主義の故に、アテナイの経験が我々には関係がないという見解をいけいれる前に、
あの少数エリート、つまり市民であるデモスがどのような構成であったかもっと注意深く見てみなくてはならない。」
2、生半可な教育を受けた人々が政治参加するようになった現代民主政治は古代ならさしずめ奴隷の境遇にあったであろう人々が政治参加するようなもので、そのような事態によって衆愚政治の危険性が生じているという見解に対して批判を加えて)
「古代アテナイの政治に(そういった見解が)適応できるのは奴隷ではなく、デモスの大部分、つまり教育を受けた人々と並んで、市民であった農民、小売商、職人たちであった。
そうした人々が政治社会の正式なメンバーとして組み込まれているということは当時としては極めて斬新なことーその後は、そうしたことはほとんどなかった程なのだがーであって、云ってみれば、古代の民主政治がある程度現代と関連を持っていることがこのことからいえよう。」
(W。アテナイの政治過程は前6世紀のソロンの改革ークレイステネスの改革<前508年>と順を追って、民主度を強化してしてきた。特にクレイステネスの改革は現代の我々から見ても感動ものである。政治紛争の火種になっていた地縁に偏ったアテナイ4部族をくじ引きで再編しなおしている。改革を主導したものも偉大だが、その後粛々と遵守してきた市民の政治観も注目に値する。現代日本で言えば、1票の格差是正どころではない革命的政治改革である。)
3、アテナイ民主政の煽動と民会参加市民の現実性、自発性。
「煽動的な演説者たちや排外的な愛国心などに煽られた野外での大衆集会で、群衆が示す非合理性についてくどくどと説教するのは簡単であろう。
を決定する民会での投票に先立って、店先や居酒屋や街角、あるいは食卓で、激しい議論が、最終的には集会場に共に集まって公式の議論と投票を行ったその同じ人々によってなされていたという事実を見過ごすのは誤りだろう。(W。フィンリーはアテナイ民主政の特性ーface to faceの直接民主制、都市国家の狭さ、などの限定条件を踏まえて、論を立てており、ないものねだりはしていない。)
その日の民会主席者で、同じ出席者たちの多くを、それも多分、議論に参加した発言者たちの何人かを含めて
個人的に親しく知らなかったようなヒトは一人としていなかっただろう。
これほど今日とはかけ離れた状況はないであろう。
今日では個々の市民は、何千かの隣人どころか、何百何千万もの人々と共に、投票用紙に記入したり、~の
無味乾燥な行為に時々従事するだけだからである。
>>さらに、その日、多くの人々が投票しようとしていたのは、自分たち自身が遠征隊に従軍するか否かにかかわる問題だったのである。
>>こういう観点からその政治議論に耳を傾けたとすれば、議論の参加者たちの頭の中では、問題の焦点がはっきりと浮かび上がっていたことだろう。
>>それは、近代の議会がかつては持っていたが、今では明らかに失っている<現実性と自発性を議論に与えたことだろう。
~立憲制度の歴史は(W。支配層公認の公式の歴史という意味)表面的な現象でしかない。
20世紀における合衆国の豊かな政治史のほとんどは私が学校の<公民>の授業で習った以上のことであって、
それはアテナイの場合においてももまた同じことなのである。
~私が簡単に叙述してきたような統治制度の下で、アテナイはほぼ200年にわたって、前ギリシャ世界において、国内的に最も繁栄し、最も強力で、最も安定し、最も平和で、そして文化的に群を抜いて最も豊かな国になった。
制度は機能していた。
例え民会が規模も人口も知らない島への侵攻に賛成票を投じたとしても、制度は上手く機能していたのである。
>ペリクレスは戦死者の追悼演説中で
「例え貧窮に身を起こそうとも、ポリスに益をなす力を持つ人ならば、貧しさゆえに道を閉ざされることはない」と語った、と記されている。
「人間としての失敗者、社会的に孤立している者、顕在的に不安定なもの、教育のないもの」を含んだ市民の政治への広範な参加は<過激主義運動へとは繋がらなかった。(W。フィンリーはそういう人たちが過激主義運動をするものであるという議論に反論の意味をこめている。)」