特に近代以前の民族国家の歴史のない(原住民には歴史はあったが)合成国家、アメリカでは、自らの存在証明するために古典教育を重視しているはずだ。フィンリー、ハンセンは共にアメリカ人で堂々とした持論を展開している。
が、
前回最後に挙げた丸山真男は現代の民主主義論に関しては、フィンリーの「民主主義」における<民主主義のエリート理論>批判よりも理論的に鋭く、実践的である。
小林秀雄は西欧の古典時代を論じる際の日本人と西欧人の立場の違いに関して、参考になる意見を述べている。
kim hang「帝国のイリ」より、<母親と子供、そして歴史>。小林秀雄「無常といふ事」引用。
「歴史を貫く筋金は、僕等の愛惜の念というものであって、決して因果の鎖というようなものでないとおもいます。
それは例えば、子供にしなれた母親は、<子供の死という歴史的事実>に対し、どういう風な態度を取るか、考えてみれば、明らかなことでしょう。
母親にとって、歴史的事実とは、子供の死という出来事が、幾時、何処で、どういう原因で、どんな条件の下に起こったかという、単にそれだけのものではありますまい。
かけがえのない命が、取り返しのつかず失われてしまったという感情がコレに伴わなければ、歴史的事実として意味を生じますまい。
歴史的事実とはある出来事があったというだけでは足りぬ、
今もなおその出来事があることが感じられなければ仕方がない。
母親はそれを知っているはずです。
母親にとって、歴史的事実とは、子供の死ではなく、むしろ死んだ子供を意味すると言えましょう。
死んだ子供については、母親は肝に銘じて知るところがあるはずですが、
<子供の死という実証的な事実>を、肝に銘じている知るわけにはいかないからです。
そ云う考えをさらに一歩進めて言うなら、母親の愛情がなにもかもの元なのだ。
死んだ子供を今もなお愛しているからこそ、子供が死んだという事実があるのだ、といえましょう。
愛しているからこそ、死んだという事実が、のっぴきならない確実なものとなるのであって、
死んだ原因を、詳しく数え上げたところで、動かしがたい子供の面影が、心中に蘇るわけではない。」
>以上の小林の歴史的事実、実証性と母親に関する例えには異論の部分は大きいが、ギリシャ、ローマを古典時代とする彼らと我々の出発点の違いには参考になる。
端的に云えば、ギリシャ、ローマを古典時代としない我々はアテナイの民主政を論じる場合、奴隷制度に拘った論議に流れがちになり、フィンリーが「民主主義ー古代と現代」で展開した(「ギリシャ文明」のシャムーにも「古代ギリシャの戦い」のハンセンにも、奴隷制度に拘った議論はない。)
アテナイ民主政のリアルな実態に踏み込んだ議論はまず、絶対というほど、できない。
しかしそれでは、その精華を現代的に引き継いだとはいえるかどうか。
勿論、そういう出発点的な立ち位置の違い、だけでなく、1945年の敗戦以降の日本の歴史の歩み、民主政のあり方も大いに影響している。
日本人の場合、何か大事があると、国家の中に個人を埋め込む習性(どの民族もあるが集団性は程度と教育など様々な機会の再生産の問題)は敗戦「民主化」やその後の歴史的体験にもかかわらず(といおうかその後の体験ゆえに)、抜け切ってこなかった。
典型的な政治理論の大間違いによる現実政治の破綻パターンである。
民主政(あるいは寡頭制)
-W。ソクラテス、プラトンの国家政治に関する主張はアテナイのリアル政治の実践においては寡頭制に収斂するものであり、その他諸々のアテナイの敗勢の政治軍事過程の背負わされて、今の我々からすれば不適切な死刑判決が下された。ー
と帝国という一対問題が存在し
(W。アテナイ民主政度の係数は帝国としての権益。
言い換えるとこの時期において、寡頭制の選択肢もあり、事実実行されたが、アテナイ市民の蜂起でつぶされた。)
それはペロポネス戦争で頂点に達した。
>この戦争の敗北は、帝国を終焉させ、そして間もなくアテナイはいかなる統治形態を取るべきかという議論も終止符が打たれた。
寡頭制は現実政治の中で、最早重大問題でなくなった。
>>ただ哲学者たちだけがそれに拘り、幻想を作り上げた。
>>彼らは今や政治的に非現実的になった、前5世紀の問題を前4世紀になっても議論し続けた。
前4世紀中葉になると、現実の政策問題は以前ほど劇的ではなかったであろう。
~そして最後に大きな論争が台頭してきたマケドニア勢力を巡って巻き起こった。
>ヨーロッパにも達した征服王朝のモンゴル軍に中国が制圧されるのを防ぐことができた、というのはあり得ない歴史のイフである。アテナイというよりもギリシャ都市国家のマケドニアによる歴史的止揚は不可避だった。