1、フィンリー「民主主義ー古代現代」第三章、民主主義、合意及び国益。
W。アテナイ民主政に対して次の視点から、疑問。
B)アテナイの海軍重視は土地のアッティカ地方の人口扶養力不足、端的には主食穀物の不足による交易という自然発生的要件に沿った軍事戦略であって、地上戦で全ギリシア世界を恒常的に制圧できる陸軍戦略と軍備を戦備できなかった、という大軍事戦略上の問題を抱えていた。
従って、ペロポネス戦争敗北ースパルタ一時的覇権(ペルシアに戦費を支援されたアテナイ、テーバイ連合優勢)
以上の重点確認事項を前提にフィンリーへ。
フィンリーの視点要約。
民主政の民主政の進展におけるアテナイ突出の変数は<アテナイの帝国主義としての権益の増大である>、とフィンリーは確定した上で、その「帝国」には海軍力が不可欠だったが、海軍とは要するに海軍のために人員を提供していた下層階級のことを意味していた。
「帝国がアテナイ民主政のの必要条件だった、というのはこういう意味だった。」
このフィンリーの帝国と民主政の変数を受けて
WACWACは次の視点を提出する。
現在の民主政の充実度合いと帝国的戦争の関係と、まったく違う、ところである。
>アテナイ民主政体は、各段階の中間団体の絆や国家宗教を通じて、構成員市民が国家と密着した共同体と完全一体化している。
この自然的「市民国家共同体」の状態と一体化して、直接民主政、市民の政治、行政参加は機能している。
だから、その政体のリアルな動向において、政体のあり型そのものを疑うような根源的な反対者は、自然的市民共同体への反対者として排除される。
ソクラテス裁判のような神々への不敬罪、云わば国家反逆罪が簡単に成立する構造にあるが、民主政体は概ね彼らに寛大な措置を講じてきた。
ソクラテス裁判のような神々への不敬罪、云わば国家反逆罪が簡単に成立する構造にあるが、民主政体は概ね彼らに寛大な措置を講じてきた。
アテナイ政治の長年の自然の流れの中で、政治担当勢力は貴族層から、新興商工富裕層に移行していおり、民主政体を一貫して主導したのも、反対の寡頭制の立場にたっていたのも、彼らであり、主導者たちに階層対立はなかったから、例外を除いて血の大量報復をする必要はなかった。
また狭い都市国家内の紛争であり、内部対立はダイナミックに進展しない。
ソクラテス訴追の政治目的は海外追放であり、望むならば亡命できた。
そこで引用。
「舟を漕ぐ人が国家の動力となる人々である。」ーアテナイ人の国制より。フィンリー引用。
「庶民は自分たちがカネを得るように、押して富者がより貧しくなるように、船に乗って歌ったり、踊ったり、走ったりするため西は以来を要求している。」-アテナイ人の国制ー
W。アテナイ富者として社会的地位を認められるためには公共奉仕として戦艦の装備、運行費の負担から、自ら名誉船長として戦艦に乗り込むこともあった。
富者こそが戦士として先頭にたって戦う(スパルタ2王家は重装歩兵の最右翼を担うことを名誉としていた。)カネも出す。狭い都市国家の直接民主政、故の現実である。そうでなければ、直接民主政の共同体社会では許してもらえなかったのかもしれない。
おそらくこういう風習がノブレス、オブリージュに継承されていったのだろう。
ノブレス・オブリージュ。(ウィキペデァ)
(省略)
>フィンリー
「アテナイの<デモス(市民団)は少数エリート?たちであって、奴隷人口はそこから完全に排除されていた。
そしておびただしい数の奴隷の存在は実践の上でもイデオロギーの上にも影響を与えずには置かなかったはずである。
それは搾取を公然かつ率直に認めるタイ語を育んだし、戦争の正当化をも促した。
~アリストテレスは政治家は戦争の技術をなぜ知らなければならないかをいくつか挙げた。
<奴隷に値する者の主人たることを求めるために>(W。市民は戦士であらねばならぬ。この理屈からすれば、スパルタの異常な軍事体制は肯定される。アテナイとスパルタ。好対照で激突必至で戦争になったが、底流に流れる古代ギリシア人特有の精神には共通項がある。)
(W。ハンセン「古代ギリシアの戦い」
「つまりこれは一つの文化だった。エリートと大衆を区別しない軍団を擁する文化だった。
有能な将軍とは経験、勇気、戦術と戦略についての知識と実践感覚に加えて、数学と天文学をマスターしなければならない。~とする文化だった。)
ー本当の支配者の被支配者に対する想いは人が羊に対して持つ気持ちと同じで、どうすれば自分自身の利益を得るか-
「国における支配者たちー本当に意味での支配している人たちのことだがー
そういう支配者たちの被支配者に対して持つ考えは、ちょうどヒトが羊に対して持つ気持ちと同じだということ。
支配者たちが夜も昼も頭を使っているのは、
どうすれば、自分自身が利益を得るかということ。」プラトン「国家」より。
>ペロポネス戦争がもたらしたパラドックス。
つまりそれは課税を意味したが、これは自作農からなる都市国家が昔から嫌ったものだった。
しかも兵役に応じて歩兵になる住民の数はますます減少し、カネをもらえなければ国境の向こうで戦いたがらなかった。
とはいえ、いずれにしても、重装歩兵それ自身が最早、都市国家の安全を保障できなくなっていた。
今や冷酷なサイクルが確立されることになった。
軍事遠征のために、直接税、財産税、物品税、が徴収された。
これはさらに、ポリスの自作農的体制を弱体化させた。
つまり兵役につく自作農はますますいなくなったということである。
それで軍は傭兵の数をますます増大させた。
これは勤勉な納付のたくわえからますます資金を取り立てる、ということだった。」
「農夫たちは兵役につこうと農地を離れた。税金を払うよりも給料をもらった方がましだからである。
これは共和制ローマでも繰り返されたサイクルだった。
このときも、戦争の舞台が地域的な境界線のかなたへ移っていくにつれて、利益を平等に分配できなくなったのである。
この劇的な戦争形態の革命のために、前4世紀のギリシア社会は徐々に、3階級による文化でなく、2階級の文化へと移行した。
それは土地を所有する少数者と、他人のために土地を耕作して防衛する多数者からなる文化だった。」
「近年のギリシア田園地帯の考古学調査は、
前4世紀が終わりに近づくにつれて、地方の住民人口が減少したことを裏付けている。
この傾向はペロポネソス戦争の間に農地そのものが減少したことで始まったのではない。
もっと微妙で目に見えないところでおきた習慣によるものだった。
本質的なところでは、ギリシア史は後戻りしていたのである。
前4世紀の戦争は次第に略奪と貴族のために
貧民と傭兵を率いるエリートによって戦われるようになった。
これはまさしく何世紀も前の暗黒時代の状況と同じだった。
都市国家と重装歩兵の戦争が克服したはずの状況だった。
この時期の大量に見られるギリシア人戦死者の墓には公共のものが少なく、わずかばかりの独裁者のとてつもない金をかけた俗っぽい神殿や祭壇が多いのも驚くに当たらない。
ポリスが成立する以前の柱塔や地下墳墓、ドームを生み出したイデオロギーに先祖がえりしたのである。」
歴史の逆行。歴史はらせん状に発展するというが、逆行もありえることである。
>>そんな歴史家としてのセンスを持ち合わせていない澤田典子センセイの「アテネ 最後の輝き」において、
ハンセンが劇的に指摘するの歴史の逆行の真逆の当該箇所を確認しておく。(なお、澤田さんの本も真面目な本である。資料にキチンと沿っている。)
「リュクルゴス。カイロネイアの戦い以後のアテネにおいて財政の実権を握り、国政の主導権を掌握。
プラトンの弟子で、スパルタを崇拝していたと伝えられる。
同時に、
その公共建築事業によって多くの市民に職を与えた。(W。前338カイロネイアの会戦によるスパルタを除く全ギリシア対マケドニア敗北以降、アレクサンドロス死亡を受けた前322年のアテネの対マケドニア蜂起までの16年間はアテネが唯一戦争をしなかった時期だが、ハンセン指摘の市民の階層分解の事情は澤田の記述に示されている。)
以下、澤田は長々と公共建築事業の数々を2ページ渡って詳細に挙げて、次の注目すべき箇所に移る。
>>功績としてエフェベイア制度の整備が挙げられる。
18歳の成人年齢を迎えた男子市民に体育と軍事訓練を課し、2年間エフェボイとして国境警備に当たらせるという一種の徴兵制度。
この制度は何時からアテネに存在していたのか判然としないが、当初のエフェベイアは市民の義務ではなく志願制だった。
エフェベイアが市民の義務となり、整ったシステムになったのは、リュクゴスが実権を握ってからである。
参考図。