確かに自分もハンセンの指摘すような方向で古代ギリシアに向き合ってきたつもりだ。
>付きまとう戦争の恐怖、セキュリティー不安の古代世界において、交易で調達できる、と簡単に考えてはいけない。
この点を現在の日本の論者は軽く扱いすぎる。
食い逃げ海外逃亡?を目論む日本金融寡頭支配層が意図的に編集し、垂れ流す経済至上主義の支配風潮に流されている。
降雨は低温の晩秋から春先に集中し、高温の季節の雨量は極端に少ない。
果樹栽培に適しているかもしれないが、穀物生産に向かないだろう。
>アテネ地方は建造物がビッシリ密集しているばかりで、郊外の土地は荒れているようだ。
>スパルタ地方の平野は比較的広くて、東西5~8キロ、南北50キロ程度だが、ほぼ一面、規則正しくオリーブの木が植わっている。物凄く生育状態がいいようだ。
>共に穀物畑らしい土地は確認できなかった。
>北部のマケドニア地方の航空写真地図の様子は前両者とかなり違っている。
平野部の広さは東西60~80キロ、南北50キロ程度と広大で、一面、緑が濃い。
オリーブ、ブドウ畑だけではないようだ。
北緯40度付近で夏冬、昼夜の寒暖差はかなりあるが、年間雨量は変わらないが季節に余り関係なく平均して雨量がある。
西部の山岳地帯には標高約3000メートルのオリュンポス山がある。木材は燃料建築の貴重な材料である。
ギリシア全般山地は低木の生い茂る禿山のようである。
土地は広大だから、牧草地で馬が飼えて軍馬の大量調達ができる。
ギリシアとしては大きな河川にも恵まれている。
個性はぞろいの諸都市間の恒常的な連合は無理筋なのだから、どこかの国が他国を飲み込むしかないが、力の均衡ゆえにそれもできない。
結局は辺境地の<北の進化した脅威>に屈する、という世界史のローマ、中国パターンである。
澤田典子「アテネ 最後の輝き」より、要約メモ。
<マケドニアの対応>
北アフリカ、キュレネから、600万キログラム緊急輸入。これは3万人を1年間分、食える量に相当。
<その他の穀物供給地>
「そうした穀物輸入に携わった外国人商人が度々、顕彰されている。」
前322年、アテナイ民主政、200年間のジ、エンドの時だった。
>>とはいっても、気候風土に政治経済の全てを還元してはいけないわけで、
ハリソンの指摘する人間の主体的あり様に視点を集中したい。
>>古代ギリシア人の観念と価値観の先行性、徹底性、独創性には感動さえ覚える。
ちょっと調べてみると、ハリソンのいう「位置とか天候とかではなく」という意味が理解できる。
念のために、次の文章を確認したほうが言わんとすることがよくわかる。
「都市国家に重装歩兵の市民軍が誕生したことで、西欧の戦争形態の中に<歩兵による決戦>という観念が生まれた。
この戦その<原因が自由な男たちの資産と地方の自治を巡るもの>だったからである。
この戦争の精神と目的は地中海世界の何処と比べても、きわめて対照的だった。
当時の戦争は何処でも、たいていは、略奪、覇権、王位継承などを巡って、貧民、農奴、傭兵が戦ってきたのである。
自由な探求、合理主義、資本主義は継続したのである。
軍事との関連で言えば、前4世紀以後は
(W。ローマ共和国、帝国を視野に入れた観点。)
ポリスの勃興は勇猛な歩兵同士の決戦という観念を生み出したが、ギリシア、ポリスの没落は
その観念に備わった倫理的抑制から、<決戦>を解放したのであった。(W。ここで使う<決戦>とは敵戦闘力の徹底壊滅を意味する。その直ぐ、延長は民間人の大量殺戮、生活、文化破壊を含む総力戦である。)
紀元前338年にカイロネイアで死んだ自由なギリシア人は、戦場で戦うことに身をささげた。
ところが、この自由なギリシア人を殺戮したフィリッポスの死の軍団はそうではなかった。」
>>この本は次のように締めくくっている。
「ヘレニズム時代とローマ世界の後継者たちはそれぞれの文化が内包する全能力を身の毛のよだつような一瞬に集中して、敵を壊滅させようとした。
>>20世紀の人間は<遂に、その一瞬とはどのようなものであるか、気づいた>のである。」
>>古代ギリシアの観念価値観の先行性、独創性を具体的に確認する意味で、スパルタ政体の対する驚きを、記しておきたい。
ウィディペキアより。
「国政においては1)2人の世襲の並立し、その権限は戦時における軍の指揮権などに限定されていた。
2王家はスパルタの統一過程で採られた妥協の遺制と思われる。
2)長老会は、全市民参加の民会によって兵役免除に達した60歳以上の中から選出された28人に、2人の王を加えた30人で構成され、その地位は終身であった。民会の決定に対して拒否権を有し、事実上の最高決定機関であった。
引用終わり。
1)「2王並立はスパルタ統一過程の妥協の遺制」とはいっても、キチンと律儀に都市国家スパルタ滅亡まで、守られているところが、ナントも凄い。
>二人王政はスパルタ滅亡時までキッチリ保守された。
クレオメネス3世 (紀元前235年-紀元前222年)
エウクレイダス (アギス家の出)(紀元前227年-紀元前221年)
>スパルタの保守主義は徹底している。
民主政を政治改革によって段階的に実現してきたアテナイ民主制との両雄の激突は起こるべくして起こったのだ。
そして27年間も一方の籠城作戦と海軍出撃による奇襲攻撃の戦争体制が城内ペスト流行、シチリア大遠征軍の完全壊滅などを通じて次第に瓦解し、遂に降伏するまで徹底した。
>>が、どうした訳か、軍国主義者を超えた精神も持ち合わせている。
こういうところはローマに通じる古代の統治機構としての合理性がある。
>しかも、ここには載っていないが、権限を長老会や民会で制限された戦時における(国王の軍隊ではない。)国王の軍の指揮権は重装歩兵方陣形の盾のカバーのない最右翼で常に指揮できる事を名誉ある権限としている。ギリシア世界全般に政治家哲学者などの発言者、富裕者は率先して戦士の責を負う。
ソクラテスも戦場の勇敢な重装歩兵だった。
対ペルシア戦争の最終決戦、 (引用)
「テルモピュライの戦いでスパルタの重装歩兵300名を含むギリシア連合軍7000を率いて戦ったレオニダス1世 (紀元前489年-紀元前480年)は内通者がペルシア側にギリシア軍の後ろに回りこむ裏道を教えたため、ギリシア連合軍は撤退を決定したが、
クセルクセスは部下にレオニダスの死体から首を刎ねるよう命じ、晒し首にした。
フランソア、シャムー「ギリシア文明」より。
5000人(家族を含めると15000人)居留外国人5万人、被征服農奴的奴隷原住民15万~20万人。合計25万人。
着実な民主改革を実行して市民の民主政体を得たアテナイでは、
ペロポネソス戦争の始まった前432年ごろで、市民4万人(家族を含めると15万人)、居留外国人1万~1万5千(家族を含めると4万人)、奴隷は11万人、合計すると30万人。」
>>解らないときは原点に立ち返ってみる。
労働編成及び搾取形態、から歴史を見ると、
どれも純粋な形で当該の全社会にリアルに存在していないが、古代ギリシアはその純粋に当てはまるから、現時点の価値観を前面に出すとその社会に対する見方が大きく違ってくる。
奴隷は日本にも多く存在してきた。
溝口健二監督の日本映画屈指の名作「山椒大夫」の原作は森鴎外だが、中世の説話に題材を採っており、平安時代末期の<かどわかされて>船に乗せられて奴隷にされた母子(兄、妹)の中世的無常観を底流した物語である。
豊臣徳川最終決戦の大阪夏の陣を描いた大屏風絵には先陣に紛れた奴隷としての女子供の乱捕りの様子が克明に描かれている。
目から鱗モノである。
武士の戦争の全貌がはじめてわかる。