第四章、<抑圧が行われる統治形態がどのようなものであれ、非寛容の背後には常に恐怖が存在する。>
「広い意味で言えば、アテナイの問題は現代の問題である。~
アテナイの市民たちは政治的な批判を恐れなかった。
それは彼らが自分たち自身に、自分たちの政治経験に、判断に、自己規律に、そして見てきた一定のけん制措置によって保障される自分たちの政治指導者に(陶片追放<独裁寡頭支配の防止>違法提案に対する告発<民会における無責任、煽動的政治提案の乱発回避>市民の司法、行政への抽選による参加など)、自信を持っていたからであった。」
彼らが自己規制を失う際の特徴は、表現がどのような機会にどのような形でなされるかにかかっていた。
「喜劇作家が神々についての不敬なジョークを自由に飛ばしても、それは思うに、共同体によって、その神々が
祝われる場である宗教行事の決まりごとの枠内のことであったが、
哲学者たちのジョークや機能は、共同体の枠を超えていたからである。
彼らはそれを(W。人神同一の神々の共同体を)攻撃し、もしくは多くの人に攻撃している、と見られていたのである。
アリストファネスの平和の主人公が、大きな糞虫に乗って神々の住まいに昇ろうとしたとき、神々さえも笑った。
しかし、アナクサゴラスが太陽は遠くにある赤く燃える石に過ぎないと教えたとき、笑うものは誰もいなかった。
プラトンほど、後代の人に史上最大の錯覚を与えたものはいない。
我々としては沈黙からしか判断するしかないが、
ソクラテスだけが一連の不敬裁判に巻き込まれたアナクサゴラスや他の知識人たちとひどく異なった存在として、大衆の目に映った、と考える根拠はマッタクない。
アナクサゴラスと同様、彼も亡命することによって死刑を免れ得た。
アナクサゴラスは故郷小アジアに引退しそこで栄誉を持って迎えられた。
そのことは難しい問題を提起している。
ペロポネソス戦争の時代の人々が目撃したのは、知識人及び寡頭制論者の自由への攻撃であり、
この様なパラドックスはどのように説明できるのだろうか。
この様な見方をとるものは古代の権威者にいなかったが、(W。現代の批評家たちの)根拠になるものはいったい何なのだろうか。~」
この議論において
「歴史家は余りにも形にとらわれすぎて、内容に十分注意を払っていない。抑圧が行われる統治形態がどのようなものであれ非寛容の背後には常に恐怖が存在する。
アテナイの人々はいったい何を恐れていたのだろうか。有罪判決や懲罰を下したように。
その答えは、私には、半世紀にわたって築き上げてきた生活様式を失うことの恐れであるように想われる。
「純粋な政治社会では、そのなかで議論や論争が不可欠な技術であるが、それはリスクに満ちた社会である。
議論が戦術の問題から根本的な問題へと移ること、
統治権を持つ人々の当面の政策だけでなく、その基礎にある原理に対しても挑戦がなされること、
根源的な挑戦がなされること、
それは不可避なことである。
それは不可避であるばかりでなく、望ましいコトでもある。」
「そして現状維持を好む利益団体がそのような挑戦に対して、
でんとに深く根を張った信念や神話価値に訴えることによって、
また、恐怖を煽り立てること{呼び覚ますことさえして}などの方法によって抵抗するのも不可避なことである。」
「大衆の無関心を、そして英雄としての政治家を砦とする方法は
自由を骨抜きにすることによって、守ろうとすることであり、それよりもむしろ政治を大衆教育の継続的な努力としてとらえる古典的な観念に立ち戻ることの方がはるかに希望がある。(W。政治参加の経験による政治的成熟は確かにある。)
間違いや悲劇や不敬裁判はそれでも起こり得るだろうが、
広く行き渡る疎外感から真の共同体意識への立ち戻ることはできるであろう。
第五章 古典古代の検閲 ー古代ギリシア以降は理性の時代に入った行ったのではなく、知性が次第に退行していく時代になったのだ。-
「国家の財政で国家が主催した重要な公的宗教祭事の際、戯曲家たちに期待されたのは、
普通のアテナイ人や、その指導者たちを、戦争努力を、そして法律を嘲笑し、侮蔑することであった。
また同時に、ソフィストさえ敢えてやらなかったように神々を不遜に取り扱うことであった。
その後、アリストファネスの存命中、大きな変化が起こった。
(アリストパネス紀元前446年頃 - 紀元前385年頃)は古代アテナイの喜劇作家、風刺作家である。代表作はソクラテスを風刺した『雲』、『平和』、『女の議会』、『女の平和』など。ペロポネソス戦争アテネ降伏、前404年。従って彼はアテナイが帝国の権益を失って対外自律性を失ってから人。)
喜劇は公的生活への関心を一切テーマにしなくなった。
いったいなぜだろうか。
その説明は公的検閲の中にないことは確かである。
前4世紀の戯曲家たちが、先輩たちの伝統を引き継ぐことを禁ずる法律などなかった。
前4世紀の弁論家たちが、民会や法廷でユーモアを交えず、野蛮な非難を繰り返すことを禁じるものも何もなかった。
この変化はもっと広範なものだった。
ギリシア文明は理性時時代に行っていったのではなく、知性が次第に退行していく時代になったのだ。
この知性衰退の間には見せ掛けの挽回もあり、素晴らしい個人もいたが、トルコ人が1453年ビザンティンを占領するまで知性の衰退は続かねばならなかった。
このときを迎えるまでの16世紀間にわたる衰退期間中、ヘレニズム世界はテオクリトスほどの詩人も、
エラトステネスほどの科学者も、アルキメデスほどの数学者も生まなかったし、
ローマ世界も、二三の大詩人の例外はあったが、またそうであったことは付け加えるまでもなかろう。」
「これ以上重要なーそしておそらく難しい問題に文化史家や文化社会学者が直面することはないであろう。」
>図1。
次に示す、ヨーロッパの超長期人口推移図によるパックスロマーナ時代を含む長期の人口減少の核心的原因を何処に求めたら良いのか。
>ギリシア都市国家末期に対するハンセンの指摘によれば、戦争技術と形態の発展ーそれがもたらす富の偏在、ポリス維持のための増税ー都市国家市民社会と市民軍の中心的存在であった農民、中層土地所有者の中産階層の没落~三層から二層階級分解の結果として近郊農村部の人口減少があったという。
ローマ時代は奴隷制度の影響を受ける帝国領域全体のトータルな経済性という長期の歴史スパンから見た根本問題もある。
帝国の住民が甘受する富と贅沢は属国や大量の奴隷労働からの収奪によって保障されていたのではなかったか。
武力支配に基づく非生産的交易的繁栄は、他方における屈従と生産の収奪され縮小する社会によって、成立していた。
>また、図2。
ローマ人も子供を生まなかった、と記録されている。(ローマの捨て子、スパルタの間引き。)
なお、トッド理論によれば、核家族の平等主義遺産均等配分地域は元々、自由、平等志向が強い。
日本のような直系家族で長子相続の地域は権威主義、非平等志向があるらしい。
「土地所有者の息子が二人以上いた場合、遺産は分割されたから世代を重ねるごとに細分化されていき、土地所有者は貧弱化していく。」
この点は潜在的人口扶養力のあった古代中国と大いに環境が違っている。
ハンセンは古代ギリシア人の観念と価値観の独創性がギリシアの文明の発見を開いたの如く言うが、私にそういう評価は余りない。古代ギリシア人が仮に中国の黄河、揚子江流域の条件を与えられていたら、都市国家共同体へのこだわりは、領域国家の拡大、ローマがそうしたように、帝国による統一の世界基準の道を歩んでいたであろう。そういった意味で歴史には人の力、偶然が生み出す軌跡がある。民主党の政権交代の時に人類史上にない大地震と4機もの原発同時事故が連動したことは、幸運に恵まれすぎた戦後日本への鉄槌だった。
その結果が今、国会と政府の中にある。
古代中国にも都市国家的存在はあったが秦の郡県中央官僚体制の施工によって、強権的に解体された。
中国史では反中央の人民闘争の拠点は農村にあった。
図1。
図2。
<追記>
>日本は民主制の意匠をまとった、
<おしゃべりな独裁国家>とみなした方が解りやすい。
先ほど、超久しぶりに<簡単な答えー難しい問題には常に簡単な~>さんの経済分析ブログを見た。
だいたい自分がインフレ派批判からアベノミクスまで、漠然と想定していることが文字通りスマートに整理されていた。
特に米国経済の過去現在の現状分析について、米国発のグラフを多数用いた素描は抜群の説得力があって、久々に納得するネット記事に出会った感がする。
過去30年も40年も過半の米国大衆は経済成長から完全に置いてけぼりを食ってきた、異常性。
良く我慢した?と想う。帝国アメリカのもたらす信用膨張で一生、借金漬けの生活でも何とかなってきた。
>ここにも何としても帝国でありつづけねばならぬ、動機付けが存在する。
他方で所得の伸びは上位数%の集中し、バブル崩壊後も早々と立ち直っているが、その原資は99%からの税金である。
これがアベと自民党の目指す政治である。ウィンウィンの政治同盟である。