反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

フィンリー「民主主義」より、民主主義の現状まとめ。池上彰の民主主義=選挙で政治kに独裁的権力を与えること、を批判する。

第一章 指導者と追従者。
 
1、経済の変容=超国家的コングロマット支配。経済を動かしている発達したテクノロジーを操作する者に未曾有の力を与えている。その範疇にはマスメディアも。
「A)それは価値を創造し、強化する力を持っている。
B)<知的受動性>を生み出す。
C)政治参加の実体験による教育効果を否定する。」
 
2、職業的な政治家の強力な利益集団化。
A)大衆民主政治における彼らの独自の生き残りのための生態。及び選挙民の評価基準。
イ、次の二点は自ら問わない選挙民に問われない。目標をどのように達成するか、目標が望ましいものであるかどうか。
ロ、指導者の評価は目標を実現する能力があるかどうか。
B)「例え一時的なものであれ、後退は避けたいというほとんど脅迫的な願望」
C)職業政治家の利益集団は国民のうちの狭い層(弁護士実業家、日本では官僚、業界団体)から出てきている。
 
3、官僚制の肥大化
イ、組織それ自体の目的よりも優先される自己保存本能
「内的な政治システムの安定性確保」
ロ、組織に孕む問題によって、諸問題を作り上げたり、複雑化する。
「この様な高度な複雑化はその固有の目的を阻害する」
 
>4)「決定は政治指導者たちによってなされるのであって、民衆の投票によるものでない。」
「民衆はせいぜい、事後に拒否権を行使するだけであるに過ぎない。」
 投票獲得のための競争的闘争を通じた決定力を得る装置=民主主義選挙制度
しかし、選挙における競争の結果、選ばれた決定力は
「文字通り、政党の指導者たちが決めるのであって、民衆ではない。」
 
>ー池上彰「政治のことが良くわからないまま社会人になった人に」-第一章民主主義とは何か?よりー
サブタイトル
民主主義とは、国民が政治家に独裁的な権力を与えること。
「<政治のスタイル>?には大きく分けて二つあります。
一つは北朝鮮などに代表される君主制独裁制と呼ばれるものです。
コレは生まれつき、国家権力を有している人によって、、独裁的な政治が行われることを指します。
コレに対して、現在、多くの国が取っている<政治のスタイル>?が「民主制」(「 」をキチンと論理的につけている。)。
>これは、国民が選挙で選んだ人に対して、ある種の独裁的な権力を与えることを意味します。
政治家にはある種の独裁的権力があります。
>「民主制」という名前であっても、?(とまで云うか)選挙で選んだ政治家に独裁的権力を与えるのです。
>>政治のスタイルは、独裁的権力を生まれつき持っているか、選挙で与えられたかによって大きく違ってきます。」
 
「生まれつき独裁権力を手にしている人物は、(今の世界にそんな立場のものがいったい何人いるのか?知りたい。)<国民が止めさせること仕組み>がありません。
その仕組みがないため、クーデターや内乱、革命といった暴力でしか、権力者を引き摺り下ろすことができません。
>その点、民主主義国家では(今度は「  」付ではない。)、<選挙によって選ばれた人に独裁的な権力を与えますが(ここのところは、池上さんの譲れない真理だが、シュンペーターもフィンリーも<決定力>あるいは<決定>という用語を使用して、独裁権を与えるとまでは云っていない。用語の問題ではなく、池上さんと彼らとは根本思想、心根の次元に差異がある、とみる。)
 
>>上手くいかない場合は、次の選挙によってその権力奪い?別の人に委ねることができます。(日本に引き付けて言えば、市町村の首長選挙と国政選挙の議院内閣制との違いをこの際ハッキリしてもらいたい。)
 
つまり
{とりあえず、独裁的な権力を与えて、政治を任せてみる。
その結果、国民の希望に応える政治ができなかった場合は次の選挙で引き摺り下ろして、別な人にやらせてみるという、
>この試行錯誤を繰り返すのが民主主義です。
この政治はおかしいなと、一人ひとりが感じた場合は、次の選挙で止めさせることができるのです。」
(<独裁>と表現しようが<ある種独裁的>としようが、そういう国民が選挙で選べない複合的な機構を基盤とした権力が独裁というのであり、国民はそれを選挙で選んだり止めさせたりできない、というのが普通の考えと、理解するが、池上さんの常識はそうでないらしい。ヨーロッパの王様と民衆の政治格闘の民主主義の歴史を日本の歴史、現状を踏まえず、そのままそっくり、日本で鵜呑みにして、そういう大胆な脱線話ができる。
尤も、池上さんの、独裁の指摘は日本においては正しい。ただし国民が独裁権力を選挙で止めさせることができないという意味で。
 
ところが、こうした「民主制」の仕組みの一般的な確認は政権交代という意味では機能してこなかった日本の国政の実態が戦後政治史に厳然とあるわけだから、日本的民主主義の具体論に立ち入った論議は、
民主主義の経済効能、政治競争による政治家のモチベーション維持や腐敗防止作用に限定される。
 
ここでも、北朝鮮を引き合いに出す必要がある。「政治を知らないまま社会人になった人たち」の視点が日本の政治の現実に注がれたり、ヨーロッパ先進民主主義国との比較する視点が生じるからだ。
 
民主主義とは何か?に続く次のタイトルは<朝鮮民主主義人民共和国は「民主主義国家」なのか?
前面、北朝鮮、中国の現状批判、ベルリンの壁崩壊話もある。
サブタイトル
ー国民の声が届かない政治の仕組みー
ー民主主義国家では、餓死者は出ないー
 
 そして最期にこう結論付ける。
「実際、北朝鮮では1995~98の三年間で、少なくとも100万人から300万人の餓死者が出たと云われて?います。
政治家がシッカリと政治をしなければ、直ぐ止めさせる?
民主主義という政治の仕組みがキチンと働いているからこそ、国民は餓死することなく、安心して暮らせることができるのです。」
 
日本の民主主義政治の自らの足元を見ない、良く似た国の政治を見ない、先進を決して見ようとはしないの三ない主義。
 
東アジアの近隣諸国を時間基場所を選ばず、ことさら論って、自らの民主主義の形而上学の立証とする。
 
惨めな人を見下して、己の現状肯定をするのは下劣な根性である。
 
どうして只今現在の日本で飢餓線上の話しをして、安心して暮らせるから、と日本国民は自分たちの民主主義政治を良しとしなければならないのか?
 
「政治を解らないまま社会人になってしまった人たち」に対する民主主義の説明の最期は飢餓線上の国民の話で締めくくらなければならない現状と同次元の世界、つまりは人間の生命健康の問われる矛盾がこの日本で拡大しているという認識があるから、敢えてそうした比較対象を持ち出さなければならなかったのである。
私が知っている限り、日本経済の成長が右肩上がりの時代に、こういった論法は社会の片隅にはあったかの知れないが、大っぴらになることはなかった。
1950年生まれの池上さん自身、若い頃に、そういう論法は使っていなかったはずだ。
おそらく、そういうのとは無縁のところにいたはずだ。
ところが、何時の間にやら、当たり前のこととして、「政治を知らないまま社会人になった人たち」に語りかけている。
偉くなったり、持て囃されたりしたら、人は変わるのも事実なのだが、己を振り返るやり方が違えばこういうことになるという証左でもある。こういう思考パターンを体得しなければマスコミ界では偉くなれない、売れないという現実もある。
 
 それ自身は民主主義のわかりやすい説明話ではなく、完全な一方通行の政治イデオロギーの注入である。
 
 民主主義の先進国で民主主義を語るならば、もっと夢と希望のある話をするはずだし、しなければならない雰囲気があるはずだ。池上さんのような話をしたら、即座にかなりのところから批判の声が上がるだろう。
 
 仮に、この日本においても、池上さんは成人式に講演者として呼ばれて民主主義を語れといわれた場合、この手の話をするのだろうか?
仮にしたとすれば、そのとき、主催者を含めて、聴衆の反応はどうなのだろうか?
 
 池上さんの民主主義話の底にあるものは、民主主義精神ではなく、マスコミエリートのニヒリズムである。
度々取り上げるフィンリーやハンセンと池上さんではかなり違う。
彼らは状況に否といえるものがある。批判精神がある。
池上さんの思考パターンは戦前の大正オールド、デモクラットの域にも達していない、状況次第でどうにでも簡単に変われる、思想なき思想である。