安保法案特別委で可決 自民、公明など賛成多数 鴻池委員長解任否決の直後に採決
産経新聞 9月17日(木)16時40分配信
「民主党が鴻池氏の不信任動議を提出して抵抗した。午後の特別委で動議が否決された直後、鴻池氏が質疑打ち切りを宣言。安保法案の採決に踏みきり、自民、公明両党と次世代の党、日本を元気にする会、新党改革の賛成多数で可決した。」
鳩山民主党政権時代から類推すると大橋巨泉さんの云うように元には戻らないし、元に戻すことはない。その状況を激化させることによって、彼我の方向性と政治分岐をはっきりとさせる。敵がアカラサマに姿を表し、それに対して、己の実存環境にふさわしい政治選択ができる時代に入った。新たな日本の時代は、ピープルズパワーが存在感を発揮する時代である。
この政治過程は自然成長的に実現できる性格のものではない。
たった数カ月で、過去の数年の激動の時期を主体的に経験した人たちに迫ってくるのは、我等の時代が経験したと同じ政治的質の問題になろう。
日本政治システムがコーポラティズム体制を敷かず、国家ーグロ資本複合体の国体政治化路線を歩む以上、一種の党派的アパシー状態を避け、インクルードを拒む反政府勢力には、
政治思想の在り方、もう一つの世界、もう一つのネットワーク、政治潮流形成、政治党派の形成、選択という歴史的普遍的課題が課題が浮上し続ける。
この衆参両院における安保法制強行採決によって、全国民の前に政治軍事経済課題が白日のもとに晒された。
>戦う目標と根拠を、はっきり示してくれたのはあり難いことである。
前回の記事は、「8,15前後に、アニメの「火垂(ほた)るの墓」がテレビで放映されていた。正視できなくなることが分かっているので、みなかったが、複雑な心境だった。」を区切りにダムが決壊するように、当初予定していた方向から完全に逸れてしまった。
英文意訳の飛躍は、看過できなかった。こうした一つ一つの具体的な文化的材料を俎上に挙げて、問題点を突き詰めていくのも大切である。ソレを積み上げ、普遍に少しでも近づいていく。
根本的な方法論の問題が潜んでいる。対象化する方法を非常に重視する。
コレがその結果到達した定理である。
「日本は世界的な角度から見られなければならぬ。』。『コレは、日本は民衆の立場から見られなければならぬと云うことに基づくのである。』
「If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.」
×「タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない」
>「生きている資格がない」とは、今の日本語文化を基準としてもどうかな?「生きている資格のない」人など存在しない。ここから先は書かないが~。
この程度で良いだろう。
◎「ハードでなければ生きていけない、ジェントルでなければ生きていく気にもなれない」
ハードボイルド探偵小説のハードはヘミングウェイのニック・アダムス (架空の人物) - Wikipedia最高傑作は殺し屋 "The Killers"の短編小説や郵便配達は二度ベルを鳴らす - Wikipediaにも適用できる言葉。
940夜『サンクチュアリ』ウィリアム・フォークナー| 松岡正剛の千夜もこの系譜に入るだろう。
(この力作の解説評論を今読んだが、傑作だ!
作品批評に留まらず、ハードボイルド小説を生み出した時代背景、
当時のアメリカとヨーロッパの伝統文化的比較の問題、
果ては、大江健三郎などの<戦後文学の継承者>によるフォークナー発見まで語りつくしている。
この傑作解説の論旨は、今回の記事の問題意識を語りつくしてくれている。
大江健三郎の「『万延元年のフットボール』(長編)の世界出現のプロセスが分かったような気がする。力づくで創作された人口的世界は好みではなかったが、やはり小説世界は面白いかどうか以外の大きなもを秘めている。今度一読してみよう。好みで判断するのは間違っているのだ。)
W。敢えて言えば、上記の解説に明示されているように、日本的な海外受容の際に生じる、向こう側の実態を蔑にした過剰反応、あるいは得手勝手な対象への<読み込み>で、足元の実態や今後の内外の推移を無視して自己像を捏造している。
>アメリカキリスト教文化、フランス革命に直接の影響を与えたアメリカ革命戦争アメリカ独立戦争 - Wikipediaの国の形に関わる根本思想からして、「優しくなれなければ生きている資格がない」となどと云う表現を、評論家でもあるレモンドチャンドラーが使用するはずがない。
この言葉はタブーにふれるのではないか。
いずれにしても、アベ等の手法である。
しかし、もはやアメリカの一国利害貫徹への傾斜の歴史的必然性によって、通用しなくなっている。
米国と同様にアベ等もそのことによって利益を得るが、日本の多くの国民は今よりも富を収奪され、貧困に、不健康に、命を粗末にされる。
属国論によれば、買弁と云うことになるが、買弁に覇権性はない。政治的上部構造の機能だけ差して属国日本とするのは間違いである。日本の軍事力経済力は、世界の目から見ると十分覇権的に機能している。日本支配層は米国支配層との共同正犯である。
安保法制の本当の意味と機能はココにある。彼らはこういう結果を、わかっていて、外の脅威を持ち出し特定有権者層を脅かし、その真の目的を達成しようとしている。結局は彼らの収奪機構の維持拡大に眼目がある。
「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」
は、同じ個所に載っていたので、最初は、安保法制時代の記事に使えると想って、
「Take my tip—don't shoot it at people, unless you get to be a better shot. Remember?」の字面だけを見て
文字通りの直訳では、次の意訳と違うのではないか?とおもった。
1)YAHOO知恵袋
英語に詳しい方お願いします。 Take my tip—don't shoot it at people, unless ...
コレは完全な誤訳だと、解説文を読んだら一発でわかる代物である。
ベストアンサー印。
↓
「以上を加味して直訳すると、
「俺の助言を当てにしな。人混みに向かって打つな、お前が努力を重ねて今よりもマシな撃ち手にならないかぎりはな。覚えとけ、いいな?
つまり、撃つべき相手が一人ならいいわけです。
つまり、撃つべき相手が一人ならいいわけです。
W。お前さんには標的を射止める射撃能力が全くないから、逆にやられてしまうよ、と云っているにすぎない!
まさにハードボイルドの世界である。
ただし、1930年代の米国銃社会のエンタメ大衆小説雑誌の読者は普通に受け止める会話だったのではないか。
「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」。←ダシール・ハメット - Wikipediaの主人公の探偵サム・スペード~「マルタの鷹 (1941年の映画)」 ジョン・ヒューストンの初監督作品ハンフリー・ボガート初主演作品であれば云いそうなセリフかな。
チャンドラー原作の世界の雰囲気は長いお別れ - Wikipedia1973年に監督ロバート・アルトマン、主演エリオット・グールドにより映画化された。邦題は『ロング・グッドバイに描かれている。フィリップマーロウはさえない探偵の日常性にどっぷりつかった人物として登場している。
そこでは、間違っても「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」などと云うセリフは出てこない。
この映画はユーモアも盛り込まれている。
登場人物 作家ロジャー・ウェイド - とその周辺を描いた場面は、完全に大酒のみの大男パパ、ヘミングウェイとして皮肉っている。原作にもあるのかないのか。
チャンドラーのフィリプマーロウの世界は大体こんなもので、「感傷的でクールな独特の文体」はリアリティーがある。超人的タフガイサムスペードを造形したダシール、ハメット作品よりも完成度が高いと想う。
ただし、マルタの鷹 (1941年の映画)」 ジョン・ヒューストンの初監督作品ハンフリー・ボガート初主演作品はアメリカ映画史に残る作品である。
服役までした人は数人だったので(いや有名人では彼以外にいなかったのでは)徹底的に戦ったと云うことだろう。
赤狩り以降、晩年は筆をたって恋愛関係にあったリリアン・ヘルマン - Wikipedia 『The Children's Hour/噂の二人』 (1961年) - 『この3人』の再映画化と交流関係のみを維持して、作家として忘れられた存在として亡くなった。
死後、作家として人間として再評価された。
なお、『The Children's Hour/噂の二人』 (1961年) - 『この3人』の再映画化は隠れた大傑作映画。
The Children's Hourの題名は映画のプロットのカギを握る。
邦訳噂の二人』はこの映画の原作の舞台劇としての登場人物の複層するリアルでドラマチックな絡み合いを一発でひょうげんできていない。The Children's Hourの題名が正解。真面目に、思想的な邦訳タイトルにする成熟が日本映画界と批評界に欠けていた。鑑賞者も同列。
原作の舞台劇の映画化なので、俳優たちの演技力と監督の演出力が要求される映画である。名優たちの演技合戦としても楽しめる映画である。子役とその親たちの演技も抜群にさえている。このような映画に比類するのは、小津安二郎「東京物語」、成瀬巳喜男 監督諸作品以外いないと云うのが持論である。
撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ
こんな余所行きの会話は「日本的な海外受容の際に生じる、向こう側の実態を蔑にした過剰反応、あるいは得手勝手な対象への<読み込み>」の典型である。
↓
↓
ちなみに修正第1条は集会出版の自由の保障である。
その政治弾圧の対象は敢えて言えば、特定である。
他方アベ等政権は、憲法の項目を堂々と否定する(「民族」分裂国家西ドイツの戦う憲法との距離感としては、解釈改憲でなく基本法の否定である。)形の国会多数の頼んだ行政立法によって、国家の中枢の軍事力の運用方法を根本的に、世界戦争敗北の結果、在日している巨大な核兵器を保有する在日駐留軍の都合の良いように変えようと云うのである。
同じことは一般法に連動する。行政権力側が自分たちの都合の良いように憲法を解釈できる体制は司法判断にも影響を及ぼす。
日本版NSCと秘密保護法は国家機構の統治にとって都合の良いように、駆使されるのである。彼等に遠慮はない。国家権力はシニカルかつハードボイルルドである。
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people を使ってるあたり、助言してる相手は、銃を撃てるが正確に相手を狙い撃ちできるほどの腕前ではないのでしょ。関係の無い人を誤って撃つことがないように、「腕が上がらない限り、人混みに向かって撃つな」ってことを言いたいのだと思います。」
>以下作成した大切な続きの記事をエラー消失した。
替わって、デモクラシー、カテゴリーから過去の記事を引用する。
第五章 古典古代の検閲 ー古代ギリシア以降は理性の時代に入った行ったのではなく、知性が次第に退行していく時代になったのだ。-
この知性衰退の間には見せ掛けの挽回もあり、素晴らしい個人もいたが、トルコ人が1453年ビザンティンを占領するまで知性の衰退は続かねばならなかった。
このときを迎えるまでの16世紀間にわたる衰退期間中、ヘレニズム世界はテオクリトスほどの詩人も、
エラトステネスほどの科学者も、アルキメデスほどの数学者も生まなかったし、
ローマ世界も、二三の大詩人の例外はあったが、またそうであったことは付け加えるまでもなかろう。」
「これ以上重要なーそしておそらく難しい問題に文化史家や文化社会学者が直面することはないであろう。」
>図1。
次に示す、ヨーロッパの超長期人口推移図によるパックスロマーナ時代を含む長期の人口減少の核心的原因を何処に求めたら良いのか。
>ギリシア都市国家末期に対するハンセンの指摘によれば、戦争技術と形態の発展ーそれがもたらす富の偏在、ポリス維持のための増税ー都市国家市民社会と市民軍の中心的存在であった農民、中層土地所有者の中産階層の没落~三層から二層階級分解の結果として近郊農村部の人口減少があったという。
ローマ時代は奴隷制度の影響を受ける帝国領域全体のトータルな経済性という長期の歴史スパンから見た根本問題もある。
帝国の住民が甘受する富と贅沢は属国や大量の奴隷労働からの収奪によって保障されていたのではなかったか。
武力支配に基づく非生産的交易的繁栄は、他方における屈従と生産の収奪され縮小する社会によって、成立していた。
>また、図2。
ローマ人も子供を生まなかった、と記録されている。(ローマの捨て子、スパルタの間引き。)
なお、トッド理論によれば、核家族の平等主義遺産均等配分地域は元々、自由、平等志向が強い。
日本のような直系家族で長子相続の地域は権威主義、非平等志向があるらしい。
2013/5/5(日) 午後 1:44
(<独裁>と表現しようが<ある種独裁的>としようが、そういう国民が選挙で選べない複合的な機構を基盤とした権力が独裁というのであり、国民はそれを選挙で選んだり止めさせたりできない、というのが普通の考えと、理解するが、池上さんの常識はそうでないらしい。ヨーロッパの王様と民衆の政治格闘の民主主義の歴史を日本の歴史、現状を踏まえず、そのままそっくり、日本で鵜呑みにして、そういう大胆な脱線話ができる。
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民主主義の経済効能、政治競争による政治家のモチベーション維持や腐敗防止作用に限定される。
ここでも、北朝鮮を引き合いに出す必要がある。「政治を知らないまま社会人になった人たち」の視点が日本の政治の現実に注がれたり、ヨーロッパ先進民主主義国との比較する視点が生じるからだ。
民主主義とは何か?に続く次のタイトルは<朝鮮民主主義人民共和国は「民主主義国家」なのか?
サブタイトル
ー国民の声が届かない政治の仕組みー
ー民主主義国家では、餓死者は出ないー
そして最期にこう結論付ける。
「実際、北朝鮮では1995~98の三年間で、少なくとも100万人から300万人の餓死者が出たと云われて?います。
政治家がシッカリと政治をしなければ、直ぐ止めさせる?
民主主義という政治の仕組みがキチンと働いているからこそ、国民は餓死することなく、安心して暮らせることができるのです。」
日本の民主主義政治の自らの足元を見ない、良く似た国の政治を見ない、先進を決して見ようとはしないの三ない主義。
東アジアの近隣諸国を時間基場所を選ばず、ことさら論って、自らの民主主義の形而上学の立証とする
惨めな人を見下して、己の現状肯定をするのは下劣な根性である。
どうして只今現在の日本で飢餓線上の話しをして、安心して暮らせるから、と日本国民は自分たちの民主主義政治を良しとしなければならないのか?
「政治を解らないまま社会人になってしまった人たち」に対する民主主義の説明の最期は飢餓線上の国民の話で締めくくらなければならない現状と同次元の世界、つまりは人間の生命健康の問われる矛盾がこの日本で拡大しているという認識があるから、敢えてそうした比較対象を持ち出さなければならなかったのである。
私が知っている限り、日本経済の成長が右肩上がりの時代に、こういった論法は社会の片隅にはあったかの知れないが、大っぴらになることはなかった。
1950年生まれの池上さん自身、若い頃に、そういう論法は使っていなかったはずだ。
おそらく、そういうのとは無縁のところにいたはずだ。
ところが、何時の間にやら、当たり前のこととして、「政治を知らないまま社会人になった人たち」に語りかけている。
偉くなったり、持て囃されたりしたら、人は変わるのも事実なのだが、己を振り返るやり方が違えばこういうことになるという証左でもある。こういう思考パターンを体得しなければマスコミ界では偉くなれない、売れないという現実もある。
それ自身は民主主義のわかりやすい説明話ではなく、完全な一方通行の政治イデオロギーの注入である。
民主主義の先進国で民主主義を語るならば、もっと夢と希望のある話をするはずだし、しなければならない雰囲気があるはずだ。池上さんのような話をしたら、即座にかなりのところから批判の声が上がるだろう。
仮に、この日本においても、池上さんは成人式に講演者として呼ばれて民主主義を語れといわれた場合、この手の話をするのだろうか?
仮にしたとすれば、そのとき、主催者を含めて、聴衆の反応はどうなのだろうか?
池上さんの民主主義話の底にあるものは、民主主義精神ではなく、マスコミエリートのニヒリズムである。
度々取り上げるフィンリーやハンセンと池上さんではかなり違う。
彼らは状況に否といえるものがある。批判精神がある。
池上さんの思考パターンは戦前の大正オールド、デモクラットの域にも達していない、状況次第でどうにでも簡単に変われる、思想なき思想である。