反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

フィンリー「民主主義ー古代と現代」より、抜粋。今と将来の日本。フィンリーが生き生きと描く、アテナイ民主政のリアルな実態は政治原理として参考になる。

    アテナイ民会における討論と決定の<自発性>ー2章アテナイデマゴーグ
 
P90~「それは今日の議会制民主主義に少なくとも、欠けているものである。
発言者も聴衆もみんな、夜が訪れる前に問題が解決されていなければならないこと、かつ{自由に}目的的に投票すること、それゆえ演説や議論は聴衆をその場で説得しなければならないこと、そして全体としても個々においても全て真剣な行為であったこと。
 
{自由に}という言葉を{ }でくくったのは、肉体と切り離された理性の働き、つまり啓蒙主義以降の政治理論によって大いにもてはやされたその幻想を、私としては示唆したくなかったからである。」
 
「彼らは人間的条件から自由でなかった。
すなわち慣習や伝統、家族や友人、階級や身分の影響から、~さらには個人的な体験、怨恨、偏見、価値、願い、恐れ、といった多くの無意識のうちにあるものから自由でなかった。
プニュックスの丘に登った時、彼らはそうしたものを背負いながら議論に耳を傾け、決定を下した。
 
 それは現代の投票行動と大変異なった条件においてであった。
たまに一人の人間ないし一つの党派に投票する場合と、数日後とに直接、問題そのものについて投票する場合との間には大きな違いがある。」
 
「民会には二つの要素が大きく作用している。
一つはアテナイ世界の狭さであって、プニュックスの丘に腰掛けていた人々のなかで多くは、提案者を含めて互いに個人的にも知っていたということである。
もう一つは投票は大衆集会の中でなされていた、ということである。
 
つまりは他の投票者から物理的に隔絶された状態の中で投票用紙に印をつけるという非人格的な行為ー
何百万という男女が同じコトを、多くの場所で、それも何百マイルも離れたところでも同時に行っているということを知りながら、行う行為ーとは本質的に無関係な状況である。」
 
「前415年、前者はシチリア遠征を提案し、後者はそれに反対したが、
両者とも、もしその提案が通れば、どちらかが、あるいは両方ともが、遠征の指揮を求められることを知っていた。
>そしてこの時、聴衆の中の多くは自分たちが仕官として、兵士として、あるいは船隊の船乗りとして、数日のうちに遠征するか否か、について投票することを求められていたのである
そのような例は他の多くの重要な事柄についてもいえる。
例えば、
課税、食糧供給、陪審員の報酬、選挙権の拡大、市民権についての取り決め等々である。」
 
 「週ごとの戦争行為は民会に週ごとに諮られなければならなかった。
>しかもその行為を行った後、議会や法廷が次の措置をいかにすべきかばかりでなく、さらに彼を罷免すべきか否か、その計画を放棄すべきか否か、
>あるいは場合によっては、彼の刑事責任を問い、罰金刑や追放刑に処すべきか否か、提案自体やその行為の実行方法のかどで死刑に処すべきか否かということさえ票決するようなものであった。
>>アテナイ統治制度の下では、政治家は絶えず挑戦さらされるだけでなく、政治的な理由による訴訟の脅威にも同じように絶え間なくさらされていたのである。」
 
>「強調したいのは~肉体と切り離された理性主義という観念~に対抗させるためだけでなく、もっと積極的な何か、アテナイ民会に出席する伴う関与の度合いの深さなのである。
そしてこの深さは発言者たちの間でも同様<あるいはそれ以上>であった。
 
>>というのも、一票一票は問われていた問題を解決すると同時に、彼ら自身も裁いたのである。
 
>>アテナイの政治指導者であることの条件を最もよく表す言葉を一つだけ選ばなければならないとしたら、
それは<緊張>という言葉になるだろう。
<政治と統治の凄まじさ>というマッカラムの言葉は当を得ている。」
 
「先頭に立とうとした人々を突き動かしていた動機は様々であるが、例外なくその一人ひとりが、
指導者になることということが、リスクを含めて、いかなるコトを伴うか良く知りながら、そうなることを選び、
そのために行動に打って出て、競い合った。」
 
>>>「前5世紀を通じて民主制<あるいは寡頭制>と帝国という一対の問題が存在し、それはペロポネソス戦争で頂点に達した。
>>>この戦争の敗北は、帝国を終焉させ、そしてまもなくアテナイはいかなる統治形態を取るべきかという議論も終止符が打たれた。
>>>寡頭制は現実政治の中で最早重大な問題ではなくなった。ただ哲学者たちだけがそれに拘り、幻想を作り上げた。
>>>彼らは今や政治的に非現実的になった、前5世紀の問題を前4世紀になっても論じ続けた。
前4世紀の中葉になると、現実の政策問題は以前ほど劇的ではなかっただろう。」
 
>W。帝国の政治経済特権を失いアテナイの戦略的政策選択の巾は狭まった。
今更、統治形態を民主制から寡頭制に切り替えてもアテナイ市民の生活環境は改善されない、という現実状況であった。
むしろ市民レベルの政治を含めた生活環境は閉塞していくだけだとアテナイ市民は民会、裁判、行政への政治参加の実体験から知っていた。
 
だからこそアテナイ市民は賢明にも市民生活を閉塞させるだけの周回遅れの寡頭制への転換ではなく、<黄昏の民主政>を選択し続けた。
 
澤田典子さんの著書では黄昏のアテナイ民主政という一般評価に反発して「アテネ 最後の輝き」としているが
この資料に忠実に沿った記述によれば、市民の間に階層格差が広がっていたことが間接的に解る。
 
多分、アテナイが帝国である時代は帝国の権益の富は市民に適度に分配されていたものと想われる。
市民皆兵なのだから武力優位を前提とする帝国を維持するためには帝国の権益にって得られる富は平等に分配しなければない。
同時にこの時代こそが、民主制か寡頭制かという統治体制の現実的選択の余地があり、その効用も試行錯誤できる時期であった。
 
黄昏の民主政の時代には財政専門家の政治的地位が保証され、税収増を目論んだ財政改革や住民に仕事を与える巨大建築物の公共事業が施行された。
ペロポネソス戦争敗北以降のアテナイの後退期には奴隷の大量逃亡もあったという。
 
>日本の今と将来。アテナイの歴史は政治原理として参考になる。
 
 <追記>記事の結論部分は突込みが足りない。以前の記事で引用したハンセンの当該部分を再引用する。長くなるが歴史的事実の数々を基に本物の歴史家の描く、眺望である。
ペロポネソス戦争全体を通じて、都市国家の戦うべき時期と場所を決定したのは、自作農制度や市民権などでなく、純然たる軍事的必要だったのである。
コレで軍はますます刷新されたが、ポリスはコストをかけずに、自作農の市民社会によってのみ防衛されるべきであるという観念は、その土台を掘り崩されてしまった。
スパルタは解放奴隷からなる1700人の重装歩兵を使っていた。アテナイの三段櫂船の漕ぎ手は、もっぱら土地を持たない市民で占められていた。この戦争の後半には奴隷モドキの漕ぎ手は半数を超えていたと想われる。
前39年代のスパルタの軍団は、エリートのスパルタ人よりも解放奴隷のほうが多かった。」
 
「傭兵部隊、戦争テクノロジーの進歩は重装歩兵で一部隊を編成するよりも、遥かにコストがかかった。
つまりそれは課税を意味した。
しかも、兵役に応じて歩兵になる住民の数はますます減少し、金をもらえなければ、国境の向こうで戦いたがらなかった。
いづれにしても、重装歩兵それ自身では最早、都市の安全を保障できなくなっていた。
 
今や冷酷なサイクルが確立された。
軍事遠征のために、直接税、財産税、物品税が徴収された。
コレが都市の自作農体制を弱体化させた。つまり兵役につく自作農はますますいなくなった。それで軍は傭兵の数をますます増大させた。
コレは減少していく一方の勤勉な納付の貯えから、ますます多く資金を取り立てるということだった。
 
農夫たちは兵役につこうとして農地を離れた。
税金を払うよりも、給料をもらったがましだからである。
コレは共和国ローマの最期の2世紀でも繰り返されたサイクルだった。
 
このときも、戦争の舞台が地域的な境界線の彼方へと移っていくにつれて、利益を平等に分配できなくなったのである。
この劇的な戦争形態の革命のために、前4世紀のギリシア社会は徐々に3階級(W。上層市民、中産階層市民、下層階層市民)による3階級による文化ではなく、2階級による文化に移行した。
コレは土地を所有する少数者と、他人のために土地を耕作して防衛する多数者からなる文化だった。」
 
「近年のギリシア田園の考古学調査は、前4世紀が終わりに近づくにつれて地方の住民人口が減少したことを裏付けている。」
 
「前4世紀の戦争は、次第に略奪と貴族のために、貧民と傭兵を率いるエリートによって戦われるようになった。」
 
「本質的なところでギリシア史は後戻りしていたのである。
都市国家と重装歩兵の戦争が克服したはずの状況だった。」
 
「この時期に大量に見られるギリシア人戦死者の墓には公共のものが少なく、僅かばかりの独裁者はとてつもないカネをかけた俗っぽい神殿や祭壇が多いのも驚くに当たらない。
ポリスが成立する以前の柱塔や地下墳墓、ドームを生み出したイデオロギーに先祖がえりしていたのである。」
 
>以上は古代ギリシアだけに限った歴史のパラドックスではないと想う。