反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

第6回。第5回継続記事。古代ギリシャの戦争と民主政。フィンリー引用、シュンペーターの<民主主義のエリート理論>と小沢一郎「日本改造計画」。

>最後に職業政治家も変わる、という指摘について。
人は変わる。確かに。
が、職業政治家への選挙民の回答は事実問題を挙げて、変化を問いただすべきじゃないのか。
漠然としたムード的了解は悪い癖。
そういう傾向が国民規模で根付いているから、小泉純一郎民主党政権交代ーアベチャン政権、政治的同色国会のような螺旋的繰り返しが、肝心要の歴史的曲がり角において発生する。
 
小沢氏は「日本改造計画」以降、まとまった政治見解を世に問うことはなかった。
 
私の知っている限り、民主党政権時代の岩波、「世界」に掲載された論文だけだったようにおもう。
 
アレは一言で言って、日本の国際政治への関与の理想的姿として、国連中心とする志向であり、それに基づき自衛隊の一部を国連待機軍に位置づける構想である。
その場合、無理な改憲は理論的に必要でないとするものである。
なお、いくら読んでも釈然としなかったし、グレイゾーンがありすぎる、とおもった。
 
従って、民主政権時代の立場は「日本改造計画」当時と変化しているともいえるが、
現状の東アジア、日米関係を踏まえ、小沢氏はどのように考えるのか、憲法論議を内輪で語ったネット公開会議では明確にされていない。
「世界」の論文の問題意識も継承されていないようで、踏み込んだ具体的な言及を一貫して回避している。
 
>>>改憲か護憲かという政治焦点化は一面的というが、護憲という旧来の党派的政治範疇を超えた<改憲に反対する>かどうかも、ハッキリできないようでは政治判断の回避、日和見という政治結果に行きつく、と考える。
それは政治力学として、自民党改憲草案に利するものではないのか。
 
>現時点と将来の政治戦線は<重要政治課題を巡っての総合戦線>の様相を呈しているのであって、コレを実現するために、別な重要案件を囮にするようなものでない。
 
>重要案件の実現に時間的ずれは生じるの政治過程の当たり前であり、それを理由に<改憲反対の明確化を回避するのはに戦線の繋がりを見据えない幼稚な政治判断であり、日和見である。決断の政治は何処に行った。
 
>日本人のなし崩し性の政治習性についても考慮すべきであり、その場合、改憲阻止、あるいは反対は重要な歴史的分岐点の明示になる。
 
成文上、今の憲法のままで、中身の現実の政治軍事によるなし崩しの改変の事実を指摘して、改憲論議の政治焦点化は別の重要な目論見のカムフラージュと指摘しても、国民多数にとって、何の政治的意味があるのだろうか。
 
 相手の思惑を勝手に推し量って類推することは情勢分析ではなく、陰謀論の類であり、それによって、民衆政治レベルで、どういう政治行動が結果するのか、熟考すべきである。
それは狭い範囲でしか通用しない政治方法であり、究極のところ、一個人の政治見解の類である。
 
>>趨勢として、戦後的システムが古くなり、金融経済化を深める以外に選択肢のなくなった先進諸国では民主主義は寡頭制に転換する傾向を必然化させているが、新興国では民主政は進展していく。
 
 小沢氏の「日本改造計画」の出現もそういう文脈の一こまであったが、その後の政治軌跡は「政策決定とリダーシップ、決定とそれに対する責任、といった諸問題」ーフィンリー70ページよりーという次元とかけ離れた、流動状の政治形態に終始してきた、といわねばなるまい。
世界史によく目を凝らせば、革命家たちと党の関係も、小沢氏のような流動状態ではマッタクなかった。
 
こうして、小沢一郎とは何者なのか、という疑問に行きつく。
 
きわめて日本的な政治状況に発生した有能、特殊、政治家である。
 
世界を見渡せば、メキシコ、中南米(かつてのキューバも含む)東南アジアなどに類似が見受けられる。
 
が、その政治傾向は橋下維新に継承され、自身の政治基盤は<先駆者の不徹底ゆえに狭隘化>した。
時代状況に即応した政治支配に都合のいいアイテムは次々に取り替えられる。
 
小沢一郎は類まれなる政治才覚を武器にそれにシブトク耐えてきた。
 
最後にもう一度、自己変化を期待したいが、彼は国民的忌避政治家の筆頭になってしまった。
それは人物破壊、政治弾圧だけで説明できるものではなく、自身の政治内容に由来する問題点も多々あった。
 
>フィンリーによるシュンペーターのエリートの民主主義定義の引用に続く、文章から。
 
「民会はペリクレス(W。アテナイ全盛期の史上最高の政治家とプラトンさえ目している)の政策をいつでも排除することができたし、事実、時に応じて実際そうしてきた。
 
従って、決定権は民会に合ったのであり、ペリクレスにあったのでもなく、他の指導者にあったのでもない。
指導者の必要性は認められていたが、だからといって決定権の譲渡までなされたわけでない。
 
そしてペリクレスはそのことを知っていた。
 
だからこそ、前431年にスパルタの最後通牒の拒絶と、従って戦争への賛成を民会に呼びかけたとき、彼は次のような言葉を吐いた。
 
<<ともあれ現在、私としては再び今までと同様、同一の見解を呈すべき立場にあるとおもう。
諸君の中で私の意見に承服する人々の義務は、万が一われ等が蹉跌することがあっても、共に計り、ともに決議した政策をあくまでも、守り立てていく事である。>>」
 
>フィンリーはアテナイデマゴーグたちの中でシチリア遠征の敗北のニュースがアテナイ人の元に届いたとき(前413年)、破局の大きさに気づいた市民たちが<自らの決議の投票をなした主体であり事を忘れたかのように、この遠征挙行を声をそろえて積極的に支持した政治家たちに非難をあらわにした>事態を受けて、
 
>>民衆(民会)と政治指導者の立場に違いをハッキリとした基準をもって区別している。
それは、<政治指導者の政策決定とリーダシップ、決定とそれに対する結果責任の明確化>である。
 
民衆は政策決定とリーダーシップの承認権はあるがそれがもたらす結果責任まで負う義務はないのである。
 
ペリクレスの発言は同調した民会に結果責任を求めているのではなく、雄弁家として戦争にという緊急事態における市民の強固な結束を即しているものである。
 
またその発言の背景には政治指導者と民会の緊張関係がある。
 
そして何よりも戦争案件の提案者ペリクレス側に民会によって結果責任が問われるという危機感がある。
最高刑は死刑であり、数々の戦争の英雄が結果責任が問われ、死刑判決を受けてきた。
 
>あえて言うならば、小沢氏が「日本改造計画」で云う政治のリーダシップはアテナイの民主政の政治地平からかけ離れた、口先のものに過ぎない、といえる。
 
>>その政治軌跡から伺えるのは、<政策決定とリーダーシップ、決定とそれに対する結果責任を負う>というのではなく、
あるときは政治指導者の立場の強調、
都合が悪くなれば、結果責任の問われない民衆の立場への移行の繰り返し
といったら言い過ぎか。
 
>それでは行く先々で敵を生み出し、仲間や味方の離反が発生するのは当たり前である。
政敵は至るところに積み重なる。新規の仲間や味方はやがて先細って行く。
 
>それで本当のプロの政治家といえるかどうか、大いに疑問である。