反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

琵琶湖線、安土を訪れる。

 JR東海道線に乗って琵琶湖東岸、安土に行ってきた。コロナ渦で遠距離電車移動を控えていたが、生駒山、山歩きに次いでコレで二度目の散策になる。

>琵琶湖東岸に延びるJR東海道線琵琶湖線の名称がついている。事前に安土周辺の地理をネットマップで調べたときに承知していたが面倒なので東海道線と呼ぶことにしていた。

>さらに今日の記事を書く前に琵琶湖周辺と北陸、東海道線のJR路線情報を精査すると、こんな込み入ったことになっている

なお現在の東海道線と呼んでいる路線は江戸時代に中山道であり、

東海道草津から甲賀方面に曲がり鈴鹿峠を超えるルートであったのは有名な話。

東海道は53次。中山道は69次だった。

東海道と中山道 | 地図, 地図アート, 歴史

宿駅伝馬制度とは。公用旅人や物資の輸送無料次の宿駅まで送り継ぐという制度です。輸送のために必要な人馬は、宿場が提供するというものです。「宿場で「人馬継立」 をする。53次は53の宿で公用の場合は無料で「人馬継立」をする。

 

間の宿は、日本の近世に当る江戸時代の主要街道上で発達した施設の一種。 宿泊は禁止されていた。

@「例えば、東海道8番目の宿場である大磯宿を見ると、享和3年(1803)には家数605軒、そのうち269軒が短冊形の地割りにもとづき、街道の両脇に軒を連ねていました。

@職業別に見ると、本陣が3軒、大中小の旅籠が合わせて85軒もありました。継ぎ送り業務を行う問屋場は2カ所で、酒食商いが55軒、諸商人が42軒、農業人が222軒、漁師が193軒、医師・針医が5軒となっています。」

問屋場

 

- 人馬の継立、助郷賦課などの業務を行った。

本陣

公用人馬継立てのため定められた人馬を常備し、不足のときには助郷を徴す

- 武士や公家用が宿泊・休憩をした。
商業的な宿泊施設ではなく、その地の富裕者の邸宅が本陣として指定されることが多かった。公用のための労役、業務については利益を上げることは難しかったが、幕府は地子免許、各種給米の支給、拝借金貸与など種々の特典

脇本陣

 

- 本陣に次ぐ武士や公家の宿泊施設だが、空いているときは一般旅行者も泊めた。

旅籠

 

- 一般旅行者用の食事付き宿泊施設。

木賃宿

 

- 一般旅行者用の自炊宿泊施設。

茶屋

 

- 旅人向けの休憩場で、お茶、一膳飯、お酒などを売っているところ。

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滋賀に行く人は気を付けて!ちょっとわかりにくい滋賀のJR | 既定ではないブログ

滋賀県内のJR路線図

W。じゃあ、北陸線はどこから、どこまでなのかということになる。

下図を見ると昔、東京方面から能登半島をぐるっと回って、北陸線の鈍行に揺られて旅したときはこのルートの列車に乗って京都まで行って、山陰線に乗り換えて関門海峡の下を通過し、九州は多分、日豊本線に乗って鹿児島に出た。鹿児島港から船に乗って島々の港に立ち寄って那覇港に到達した。

北陸本線 - Wikipedia

 安土は織田信長明智光秀に本能寺で包囲され自害する前に居城と城下町を築いたところである。今回の小旅行は織田信長、完全無視の旅であった。

列車に乗っている時間が片道2Hぐらいになり、午前中、日課にしているウォーキングと体操を入念にこなし、厚焼き玉子を作って見守り介護の人が入っているグループホームに差し入れた。午前中、時間がとられて現地の散策時間を膨らませることができず目的の神社を一通り調べるのが精いっぱい、だった。

 現地散策中もわかっていたが、今改めて調べてみると、

安土の近辺はなかなか渋い観光地であった。

まず何よりも地形的、地理的に興味深い、土地柄だとピンときた。

駅前にはレンタルサイクル(通勤者の自転車預かり所が主たる営業)、駅の建物内に結構広くい常駐者のいる(女性他1名だったか?)観光案内所がある。中に入って黙って周辺の案内パンフレットを見ていると女性職員の方がやってきた。そこで一通り旅の目的を説明し(この地を散策する人の主たる目的は安土城跡の見学で自分のような目的の人は少ないのか、その面の知識がない相手に一方的に自分がしゃべりすぎた)ネット地図で調べた目的地を再確認した。

 

 安土(近江八幡市上豊浦)から近江八幡、一帯は典型的な湖畔の水郷地域である

湖岸から開けた広い平野部の向こうに里山風の小高い山並みを望める。その裏側にまた平野が開けており、その向こうに本格的な山系がある。こうした山々から緩やかに湖岸に傾斜した広い平野部全体に水脈は流れている里山、水流に恵まれ開けた平野では古来から農業が営まれていた。

 

 平野部から里山方面の景色は、今まで何度も見た景色、そっくりそのままの既視感があった

そう!古代後期から中世初期にかけての荘園が開かれた風景である

なお、安土のこの地域は荘園ではなかった。古代豪族の系譜を頂点とする郷だった。荘園はもっと田舎の方にある

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     荘園の風景、その1。地図上の知識。

里山裏側の平野部に

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     荘園の風景 その2

泉南関西空港島への陸橋が折れ曲がった地域(泉大津市

ja.wikipedia.org

日根野荘跡の絵図(重要文化財かな?)は高校時代の日本史の教科書に載っていた。この地は九条政基が書いた「旅引付」という日記で有名である。

関西の日本遺産

日本遺産に認定、泉佐野市「中世日根荘の風景」 - 産経ニュース

「日根荘」は鎌倉時代の天福2(1234)年に有力貴族の九条家の領地として成立。戦国時代の享禄3(1530)年ごろまで記録が残っている。」

「ストーリーの基になった2枚の「日根野村絵図」=宮内庁所蔵=は、鎌倉末期の延慶3(1310)年ごろと正和5(1316)年の荘園の様子を描いたもの」

 


旅引付と二枚の絵図が伝えるまち | 日本遺産ポータルサイト

@2枚の「日根野村絵図」=宮内庁所蔵=は、鎌倉末期の延慶3(1310)年ごろと正和5(1316)年の荘園の様子を描いたもの」

W。おそらく左図が1310年ごろの日根野荘。右図が1316年ごろ。田畑の区画整理が進んでおり、大切な人家、水源である山側から平野部に流れる川や図左の大きなため池が描かれている。ため池は今でも現存。川も同じ位置にある。図下方、すぐにJR和歌山線の駅。上方の寺と近接する神社は神仏習合。この地の農業は上方の寺と神社脇の数メートル下を流れる豊富な水源から、大きな木管で取水し下方の耕作地に流した。川の増水で取水設備が流されると荘民総出で元の位置につけなおした。上方の山を越えると小盆地が開けている。おそらく荘園風景が最も保存されている地域は山の向こうだろう。

中世後期16世紀、平野部の日根野荘は細川方のサムライ集団の浸食の危機にあったが、山向こうの小盆地は安泰であり、九条政基はここに本拠を構えて荘園管理に当たった。

なお、小盆地の山向こうは根来寺の僧兵の勢力が及んでいた。

Wは小盆地に徒歩で行こうとしたが、片側に渓谷がある狭い1車線を車がビュンビュン突っ走って危ないので引き返した。

>小盆地はこの絵に載っていない。

W。写真の下方に開けた平野、JR和歌山線日根野駅関空への路線は駅手前で90度にカーブ。荘園風景は意外にコンパクトにまとまっており、見学するのに手頃だった。駅周辺も閑散としており、山側への小道を辿っていく道中に散在する家々の配置や表札をのぞき込み、今では珍しくなった苗字に行き当たると頭の中が一瞬大昔に帰っていった。

W。水源地の小川の袂の寺。

W。この付近に荘園時代の取水口。ちょっとした観光用に整備されている。サクラの名所だったか?観光客の少なく、妄想歴史探訪のできるこんなところが好み!

hinenosho.jp

この日記をもとにした研究書もかなり出版されている。おそらく中世後期の荘園の四季と経営、農民の風物、実態を細かく綴った書物としては最高のもの、とおもう。

 反俗日記でも主として当時のムラの共同体と掟、~掟破りのシングルマザーと幼子を村で備蓄したドングリを食べたというだけで斬首した荘民の残虐性を何回か取り上げた。ムラ共同体には強烈な閉鎖性があり、隣の共同体との拉致暴行事件などが多発していら。外からの武装勢力の浸食ばかりでなく、こういう内部暴力を潜在させる閉鎖的共同体の相克関係からも、外部の武装勢力の庇護が必要となった。

>自己統治におおきなげんかいがあった?

@上に収めてもらわなければ自律できない、という精神分は風土。

@ただし、日本通史において民衆がその相貌を歴史上にはっきりと刻んだのは中世期であった。その頂点の応仁、戦国の150年内乱期、民衆の武装政治力は封建軍事貴族によって叩き潰され配下に治められた。ヨーロッパ史、中国の近世史(異民族支配)と違って日本史は民衆の顔が歴史の表舞台から消えた。そういう意味で李氏王朝の朝鮮史の武力支配版ともいえる。

 

黒澤明監督の「7人の侍」の描く野武士集団VS農民と寄せ集め武士の構図は映画の画面に収めるためにサムライを7人に限ったが的外れではない。要するにどこかの武装勢力の庇護を農民自ら進んで求めた(農民自身の自律的大規模反乱はなかった)。ある場合はそれが重層するときもある(日根野荘平野部はその危機があった)。

農民たちの最後の抵抗手段は

逃散 - Wikipedia

引用

日本の中世から近世にかけて行われた農民抵抗の手段、闘争形態である。兆散とも言う。古代律令時代本貫から逃れて流浪する逃亡及び律令制解体後に課税に堪えずに単独もしくは数名単位で他の土地に逃れる逃亡・欠落とは区別される。」

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@現代の今、兆散の方便も失って、民主主義のため、独裁反対、ナチス反対などのイデオロギーに捕らわれて帝国の代理,楯ウクライナ支援をしている人たちは

@世界の政治軍事経済構造を正面から見据えてみる必要がある!

@この戦争は帝国同士の戦争であり、片方への支援は片方の帝国を支援することだ。

この戦争は今後世界市場の権益を台頭する新興勢力から守り、これを機会に従属下におく大きな目的が隠されている。

だから、世界市場の権益を守る守旧派は、国内の多数の国民の生活を犠牲にしてもウクライナを大量出血する代理人、盾として援助し続ける。

戦争は止めてはいけない、どこまでも戦い続けることが台頭する新興国を牛耳ることにつながるのだ。そのためには国民生活は犠牲になってもよいと。

資源大国、核大国のすぐわきで戦争が続くと、

コレを機会に世界中の有り余った投機資金が蠢き回って世界の庶民生活を苦しめる

この情勢こそが帝国の戦争たる所以だ。

 

 第2次世界大戦は民主主義VSファシズム、ナチズム、軍国主義の戦い、というのは一種のイデオロギー的なくくりの中でいえることで、実際のところは、金融資本制のどん詰まり、第一次世界大戦の残骸が処理しきれないまま矛盾が拡大した二つの帝国勢力の世界市場の再分割をめぐる戦いだった。

そこにスターリン主義ソ連が参戦し、東西体制に世界がイデオロギー的に分割され20世紀史の特徴が生まれた。

 

 21世紀史は20世紀史の初頭に螺旋階段的発展を遂げて回帰している。

したがって、この時代の世界史的権益の対立構造は、

金融資本制の行き詰った守旧国の帝国化=EU、など広域経済+NATO、など広域軍事同盟の強化VS台頭する新興国である。

>守旧国は帝国化し新興国に資本輸出し工業産品、資源原材料を安価に手に入れる体制を作りたい

後者はそのルートが固定すると従属経済下に置かれ、ヒト、モノ、カネを収奪される

このような世界の構図は守旧国家のマスメディアの刷り込み下にあれば、見えてこない。

@即時停戦せよ!長引けば世界の多くの人々の生活が脅かされる。

>ロシアも旧ソ連の帝国を守ろうと侵略中だが

EUNATOは民衆のコントロールの利かない帝国の今日的な形態である。

金融資本制国は地域末端からグローバル資本制国は帝国を目指している

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この環境ゆえに摂政関白をしていた九条家の荘園は根来寺の僧兵や細川サムライ勢力に政基の直接現地滞在にもかかわらず荘園を浸食されていく。

 

 もう二つ目の中世荘園景色は伊勢神宮、内宮を訪ねたとき、典型的な中世荘園の風景、と感じた。天皇「制」古代国家の神社などの風景、様式は伊勢神宮側が王朝期、中世前期に作ったもの、だろうと判断した。

 三つめは姫路から先のJR山陽線網干駅から4~5キロ山側の風景。ここも中世荘園の研究書(東寺資料)に記されている有名なところである。

 

 以上の里山、水脈、開けた広い平野、の中世風景はあっけにとられるほど既視感そのものである

もっともそれは農業生産力が自然条件に頼るしかないので当たり前なんだけど。そういう土地柄で中世前期の人は農業を営んでいた。支配者はそこから余剰を吸い上げていた。その対価は荒れる農民の内外の身分保障だっただろう。

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 安土の琵琶湖沖には唯一の有人島沖島が浮かんでいる

TV番組で時々取り上げられる琵琶湖水郷の湖岸漁業?の風景はこの辺りではないだろうか。散策中、湖岸に行ってみたいと思ったが列車の時間が1Hに2本しかなく帰宅時間から逆算すると無理だった。

目的地の神社の散策も念入りに調べてみたいところもあったがざっとで済ませた。

砂利の境内から1メートルぐらい石積みがあり、杉などの樹々がうっそうと茂っていた。

石積みは表面に細工のされていない野積みで型の良い大きな石を組み合わせその隙間に小石が詰め込まれていた。コレは少なくとも江戸時代以前のものという証明である

樹々はどれも直径80センチもあれば大きい方で樹齢100年に満たないものだった。周囲がまっ平らで台風などの強風で倒木したものと思われる。

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>この訪問で解ったことは苗字と系譜から、自分は13世紀最後期からの農民の出自で、これほど遠い祖先が農民だったと解る事例は希少であった。

>昔から軽く疑問に感じていたことが解けた。

山の中に逃亡し農民になった者たちの分派が、食いつめて平野部に降りて行ったが、主だったところは全部、既成の縄張りだった。~平家の落人のことではない。もっとあと承久の変直後~~

仕方なしに田んぼに適さない縄張りの緩いところに住み着き、500年ほど細々と百姓をしてきた。家紋と遺産の武器に象徴されるプライドがなければ絶家していたのか。結局、江戸時代後期の商品経済の発達や農民の所有地の流動化に乗じて、所有地や資産を拡大していった。もっともこれは本家の話で我が家は小心よくよく、小市民を続けていく以外になかった。