反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

制度、道徳。 それを排する以前に存在自体がない。道徳とか、善悪とか、喜怒哀楽とかいうものはどうしてできてくるのか。 それは天から逃げようとするからだ。 人間が天から逃げて人間本位になろうとするから 道徳とか喜怒哀楽とか、政治制度とかが出てくる。 道徳を説く聖人がいるから大泥棒が出てくる。仁義が生まれるようになって、かえって天下が惑乱した

        吉本隆明良寛 最終回

W。できる限りそのまま引用する。吉本「良寛」論の精髄がここにある。ただし、大局的な仕分け作業はできているが、それ以上の深堀(例えば東洋と西洋の思想比較検証)は回避されている。吉本の本論の道具立てはアジア的生産様式、アジア的停滞、という視座によるものと思われる。

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          思想詩

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 良寛が傾倒した道元禅や老荘論語いづれ低地アジアに起源をもつ古典古代以前の思想ということができます。

大きく世界史的には<アジア>的な思想です。

このアジア的思想は古代から近世に至るまで、日本の制度や文物に大きな影響を記してきました。

>このアジア的な思想について、私たちは近世以後と近世以前の人々と違った態度がありうるとすれば、

>その一つは私たちが、いわば近代の西洋思想の洗礼を受けていることです。W。東風が西風を制する、こともある。司馬遼太郎は敗戦によるアメリカ思想の注入に動ずることがなかった。司馬は司馬遷の司馬からとった。遼太郎も司馬遷の英知に倣ったもの。

>そのうえで良寛が見た仏教や老荘儒教の思想を見ることができることです。

私たちが良寛と違う理解を持ちうるとすれば、そこに由来しています。

 

 良寛にとって仏教思想や老荘儒教は、全世界でありました。

それ以外の世界は思想として存在しなかったのです。

わたしたちのとって、ヨーロッパの思想も同じ視野の中に入っています。その世界史的視野の中で<アジア的>思想を受け突ことができるということが、良寛と私たちの違うところです。また違わなければならないところです。

なぜなら良寛は近世末の人ですし、私たちは現代にあるのでしから。

>現代にあるということにとりえがあるとすれば、世界史的視野の中で、仏教の思想や中国の古典思想を取り上げられることです。

 

 <アジア的>な古典思想の中で、仏教や儒教老荘ヘーゲルみたいな言い方をすれば、

W。以下の展開は無意味。

    ↓

@大きな河川の流域に広がった、いわば低地の農耕地帯に発生した思想ということになります。(W。このような仕分け作業はその先の深堀がなければ、単なるレッテル張り、思想の仕分け作業に終わる。最もわかっているけどそれ以上はできない、ということ。)

 

アジアには高地があります。

それから小アジアにのように、海に口をつけているところもあります。

そういう思想と平地の思想はちょっとだけ違います。

>私たちにかかわりの深いのは河川の流域に広がった平地で築かれた思想です。

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また<アジア的>ということヘーゲルマルクスが明晰に取り出しているように、

<アジア的>というのは世界史の時間でいいますと、古代の以前に想定される歴史的な一つの時間を意味しています。

W.以下も論証はない!なんとなくムード論。マルクス「ドイツイデオロギー」で唐突にアジア的生産様式とアジア的停滞がメモ的に書かれているが後代のものがその論理を深めていない。結局、世界の民族自決独立が相次いだ事情が研究の邪魔をしたとみる。

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つまり<アジア的>という概念は地域空間の概念だけでないということです。

しかしそれは地域的なアジアという意味合いだけではありません。

時間的なアジアなのです。

時間的にアジア的ということは、

@古代以前の時期のことを指します。

@原始時代の次に来るのが<アジア的>時代、アジア的世界史の時代ということです。

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   私たちがアジア的思想という場合は、二重の意味があります。

その一つがアジア地域で発生した思想。

しかし中国で発生して日本にやってきた、あるいはインドで発生し、中国を通って日本に渡ってきた思想と見ただけでは、その思想を見たことになりません。

その思想を見るためには

@もう一つ古典古代以前の思想、以前の段階にあった思想(W。@原始時代の次に来るのが<アジア的>時代、アジア的世界史の時代)としてみなければ、その思想を見たことにはなりません。

@それが<アジア的>な古典思想に影響を受けた近世以前の日本の思想家や詩人たちと私たちが違うところです。私たちの見方と違うところはそれだけです。

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 W。今や常識になっている大局的な歴史認識に対する方法論。しかし、民族浄化そのものをして移民が共同体を作り国を作った新大陸以外の時代変転の歴史は全部これに当てはまる。

        アジア的な制度の特徴は

政治的な権力は制度を敷く場合、始めから終わりまで、宗教や法律の末端に至るまで

>全部自分たちの考えで制度を組み替えようなどとしないことです(秦の始皇帝の制度改革の場合、はこの論理がどこからどこまで当てはまるのか、検証する必要がある。結局、始皇帝の死によって、大混乱、紆余曲折があって漢帝国の樹立によって、ここで吉本が指摘する統治法則がそのまま適応できる儒教政治と旧式支配~古代中国の封建制度を残存させた地方支配層に中央集権官僚を要する皇帝がのっかっている、が復活した)

>前からあった共同体の制度を、できるだけそのままに温存して、その上に乗っかって政治権力を行使します。

つまり規制の制度や習慣や文物にできるなら手を加えないのです。

手を加えないでその上に支配的な共同体を上乗せするのです。

いわば前からあった共同体の頭の部分だけを組織して掠めるのです。

それがアジア的という制度の概念の世界史的特徴です。

    古代の大和朝廷について考えてみますと

具体的な過程がどんなであれ、それ以前にあった共同体の政治や宗教の制度を打ち壊して、自分たちの制度や文物を待ったまで押し付けていくことをできるだけしないで、

自分たちの利害に反したり、反抗したりしない限り、そのまま温存して

その上に権力を乗せるというような方法をとっています。そして経済的には年貢貢物をとる制度を敷きます。

年貢をとるためには前からあった共同体の首長たち(W。地方豪族)に下から年貢をとらせて、中央に運ばせればよろしいということになります。もちろん各地には直属の屯倉というものを置きます。

>コレが我が国における<アジア的>な社会や国家の構造といえましょう。

>以前の共同体の一つが勢力を増してその上に乗っかるか、他所から到来した勢力がわきからきて、その上に乗っかるか(W。中国、元、清王朝はその典型。薩摩長州、土佐、領地縮小⇒侍リストラ不足もこのアジア的支配形態の一種)様々な可能性が考えられるのですが、いつも同じ形式をとる。

                 ↑

  @宗教、制度、風俗、習慣の成り立ち方の根本にあるこの特徴

@明治以降、

近代西洋の制度を数多く受け入れましたが、現在も構造的に潜在しているに違いがありません。(W.なぜ?このようないわば上部構造における特性<型>が刻印されるのか、特徴を指摘するだけで掘り下げることなく放置していることも、「現在も構造的に潜在している」上部構造のパターン、とみなすことができる。多分、この方面の研究を深めたのは丸山真男であった、とおもう。簡単ではない。鋭い知性と膨大な知識力が必要で並大抵の研究者には手を出しずらい。全集の当該論文を読み込もうとしたが日本思想史や単純な教養不足による読解力によって途中放棄せざる得なかった。)

誰もが思い当たる節があるだろうと信じられます。(W。そもそも日本史教科書はもとより、ウィキペデァでさえ大化の改新の項目を検索すればあいまいにごまかしている、以前はもっとはっきり大化の改新不発説を論証していた)このような見方は意図的に外している。)

***

こういったことは日本の隠遁し思想に大きくかかわりがあると思います。 

前からある共同体の上に、新しい共同体ができ、またその上に新しい共同体ができるといっても、前からの底辺にある共同体の制度や宗教や風俗、習慣などはできる限り手を加えなくて温存されるとみなせば、

>底辺の共同体で太古から受け継がれている宗教や制度や民俗みたいなものは

>上層の共同体の勢力、あるいは制度がどう変わっても、

>それとか関係なく保存されるという制度的な距離感覚が根を持つようになります。(荘園公領性、権門体制あるいは鎌倉新仏教と旧体制仏教の関係~戦後歴史学は再検討された)

顕密体制 - Wikipedia

要点引用

戦後見られた鎌倉新仏教を中世仏教の代表と見なす見解に対し

>旧仏教が中世仏教の本流であるという認識が生まれた。

また、黒田の提唱した権門体制論国家像を前提としながら、政治社会史全体の構図の中に仏教を取り入れることにより、仏教史に新たな視点を追加した。」

~~~W。記述にピンとこないところがあるので省略。丸山理論に基づく理論展開と思われる。この方面の丸山理論の特徴は下部に潜在してきた共同体の観念の時代をまたいだ再浮上、というところである。明治「いしん」。戦後から今に至り、古い共同体観念の再浮上。

 

 制度以前にある<自然>という共同体が<アジア的>な制度の下で遠のいていくとき、感性と思惟はどんな態度をとるのかの問題といえる。

>どんな制度の思想が支配しても、たいして変わり映えしないはずだという強固な認識はなぜ出てくるのか。

@思想が制度にぶつかる前に山川草木にぶつかり、そこに関心がとどまってしまうだけの十分な感性の距離感を持ってしまう根拠はここにあります。(W。小林秀雄。日本では大災害が起きても人々の認識は「方丈記」レベルのとどまる。あるいは大戦争に負けても「平家物語」レベルの受け止め方をしてしまう。KIM HANG「帝国の閾」より小林秀雄の言葉引用)

 中世ヨーロッパでは、特別に僧院の中に籠った特殊な僧侶とか(W、TV現代イタリア紀行でそういったカトリック僧が映し出されていた~生涯独身を僧服で表す~)特殊な自然詩人のうちにしか成り立たない制度的な<無>の思想ですが、

日本の<アジア的>な社会では自然と遊ぶ隠遁思想が制度的な裾野を持ってきました。

制度に対する考察などしないでも、なぜか自然思想が成り立ったのです。

>文学詩歌の類が人間臭さにぶつからず、自然の中に自分を映しいえることで成り立ち、政治制度の思想は<「天>の秩序にかかとを接して権力のピラミッドをこしらえてたのです。コレが感性につかまれた<アジア的>という制度の概念です。(W。岡本かの子の仏教論や小説もこの類に感じた。日本の自然主義文学は人間臭さばかりを全目に押し出すがヨーロッパの自然主義文学は自然が出てくると芥川龍之介相手に主張している。かの子は仏教評論家の時代が長い。1930年代の日本の文化風潮に乗って活躍した人で小説はCランク、素人に近い)

 ***

 良寛の性格悲劇を包んでいる思想の雰囲気は、

老荘の優れた<自然思想>でした。

W。良寛な吉本のいう性格悲劇の持ち主は、それにふさわしく包んでくれる思想を持つべし、ということだ。

他人や時代風潮に合わせたら、性格悲劇はもっと進んでいく!

グローバル資本制の歴史段階には人々に力を与える原理が求められれている。

>グローバル資本制の常識とはかけ離れたところで自己形成を成し遂げなければならない人が世界中で膨大に生まれる。

***

それらは制度から退くこと、また道徳から離脱することに根拠を与えるものでした。

天地山川は、何もしないのにそのまま清らかでであるところに老荘は<無為>の良さを位置付けています。

 

>彼らは

@仁義が生まれるようになって、かえって天下が惑乱したと説いています。

@<生>は天地からゆだねられたものであり、

@<死は>天然のという巨室に眠ることだ

荘子は考えていました。

良寛を動かしたこれらの思想は基本的に<制度以前の思想>だという性格を持っています

良寛

@それを認識したというよりそれを生きたのです。

私たちはその思想の性格を認識できます。それは決して現代が良寛に比べてえらいからではありません。

ただヨーロッパの思想の近代の洗礼を受けた後で私たちは、良寛に傾倒しその思想をそのまま浮かび上がらせて眺める視野をうることができるからです。

**

 道元の思想から逸脱した後の良寛は「正法眼蔵」が禁じた詩人文学者としての後半生をおくりました。そして良寛の後半生を支配したのは、同じように道元が排した荘子などの思想に近いものでした

@W。良寛は自分の居場所を見つけたということだ!(W。ヨーロッパ人研究者の論文では、良寛道元の時代を経た後継者のごとく位置付けているものがあり、荘子の<自然、天>思想には言及はなかった。前回記事の参考資料で取り上げたハーバード大荘子講座もものの見方考え方の技術論に荘子を矮小化して、一番肝心な天の思想を無視している。)のしそうを

**

 荘子老子孔子を並べてみますと

老子荘子

南中国の思想と言ったらわかりやすいと思うのですが、

@制度に対する考察とか道徳に対する考察がほとんど皆無ということです。

つまり原始段階の末からアジア的段階の初期に渡る時期に

人間の考えが直面した問題を重く見ているということがわかります。

W。煎じ詰めると生老病死

それが老子荘子の思想です

ここには

@制度、道徳という思想はむしろないのです。

@それを排する以前に存在自体がないのです。

 

 

@道徳とか、善悪とか、喜怒哀楽とかいうものはどうしてできてくるのか。

それは天から逃げようとするからだ

@人間が天から逃げて人間本位になろうとするから

@道徳とか喜怒哀楽とか、政治制度とかが出てくる。

それはむしろダメな考え方だ。

@だから道徳を説く聖人がいるから大泥棒が出てくるのだ。「聖生まれて大盗起こる」荘子

@つまり制度や道徳に対する考慮からは、荘子老子は自由であり

@むしろそういうものが無効にされる根拠を提示しようとしています。

 

 W。ここから先の孔子の対する論評は現代日本の道徳と制度が二重写しになっている状況を示唆している。

W.老荘から孔子への回路は東洋思想の原理的退行であ

W。グローバル資本制の歴史段階に必要な原理的な思想は孔子の思想ではないことは絶対的に明らかだ。

W。なぜか?孔子の思想の根本は統治するものの制度、道徳であり、それを統治される側に納得させる思想体系である。

グローバル資本制段階の世界中の支配層の物理的物質的に動員できるパワーに比べて庶民レベルが発揮できる力はあまりにも大きな階級的な格差が生まれている。後者の願い、要求は従来の<民主>制の政治機構の枠内で叶えられなくなっている。大衆メディアは支配層の政治と思想を統治される人々に刷り込む伝動ベルトと化している。

そのため無力感に陥っている世界中の人々にリアルな動因を与えるのは<原理的な考え方>である。

世界支配層に影響を受けた政治勢力の間で20世紀、第2次世界大戦後、ご法度とされていたバーバリズム、ジャングルの思想ともいうべき適者生存、命の選別思想と政策が浸透拡大しており、それに対抗する実行力は代議制議会民主制度の枠内で納めきれないものとなっている。コレが現実。トランプは選挙に不正があったという演説を支持者の大衆集会で行い、支持者らは連邦議会に突入しただけではなく、内部を破壊蹂躙した。

アメリカ合州(移民合衆)国の<国体>はアメリカ流民主主義である。連邦議会に乱入し内部を蹂躙した、事態はアメリカ流民主主義国体の極致を見る。その野蛮な動力が反転して世界のアメリカ国体不受容の国々の統治機構の破壊へと向い、己に従わせようと絶えず画策している。

アメリカ国体を世界中の基準にすることはできない。新大陸移民国家という特殊風土に開花した民主制は他国他民族に移植できない。

荘子の視座はキーポイントになる。

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引用本文

 「孔子は制度の対する考察が道徳に対する考察と一緒に二重に含まれています

人間はどんなふうに道徳に依拠していくべきかという考えとどんな風に制度に処すべきかという考えとが二重になっています

それはアジア的思想の中では中期後期に位置付けられます。

制度、善悪、道徳、人格に対する考察が論語には多く成されています。

~~~省略。

アジア的という概念で論語を読んでいますと

道徳と制度が未分化であった時代がよみがえってきます。

国王はどのようにして民衆を収めなければならないかというような、個人意思としての道徳を

制度的倫理と混融して考えていた時代に出来上がったものだからです。

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老荘の思想は南中国で、むしろインドとかセイロンに近いところで生まれた思想です。

~制度あるいは道徳以前の自然共同体の原理、人間が自然な意識で生きていた時代の共同体の思想をより多く保存しているのです。

>中国の古典思想の中で荘子は最も緻密で整った構成をしています。

良寛道元禅の思想を放棄したとき、多分荘子により多く後半生の支柱を求めたのでしょう。

>詩人としての良寛を方向づけたのは、荘子の考え方であったように思われます。

荘子の無為に解放されて、自分の若い時からの資質である風光に慰藉する情念を追求していきました

      今回をもって良寛荘子関連記事を終える。

大人は自分に合った服を着るべきだ。

制度、道徳。

それを排する以前に存在自体がない。

道徳とか、善悪とか、喜怒哀楽とかいうものはどうしてできてくるのか。

それは天から逃げようとするからだ

>人間が天から逃げて人間本位になろうとするから

>道徳とか喜怒哀楽とか、政治制度とかが出てくる。

道徳を説く聖人がいるから大泥棒が出てくるのだ。「聖生まれて大盗起こる」~荘子

仁義が生まれるようになって、かえって天下が惑乱した。

つまり制度や道徳に対する考慮からは荘子老子自由であり、

むしろそういうものが無化される根拠を提示

グローバル資本制の歴史段階で庶民が生き延びるためには相手のイデオロギーの土俵~論議の場の設定は予め限定されている~

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  吉本「良寛」より引用

W。師であり印可をもらった国仙和尚の死後、本山から上位の性格的に逢わないやり手の僧侶が来て外様のような存在になって良寛は、寺を出て4年くらいかかって郷里に帰りついた。郷里では国頭山の五合庵で隠棲生活が始まった。その生活の中で次第に道元禅の世界から逸脱し荘子の無為、と自然体の世界に入っていく。

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      吉本流道元禅、解釈

吉本による<道元思想の解釈を引用する。共感するところは全くない。この仏教感は徹底的な自力本願思想である。座禅することで仏になる(行仏)など、増長も甚だしい。錯覚幻想の類である。

引用開始

道元の思想は『正法眼蔵』に表れています。

仏教の根本義である不生不滅についてW???道元人間は生きている間は生きているのだし、死んだら死んでいるのだからW。トートロジーの解説① 同じことを表わすことばの無用な繰り返し。 同語反覆。 類語反覆。

生が終わって死に移り変わるるのだとかしがまた移り変わって生になるとか、そういうことはない。

つまり生は生としていっぱい詰まっているので、それだから死とは断絶している。

また死は死としていっぱい詰まっているのであって、生とは関係がないのだ。⇒W生の解釈からすると死は同じように解釈しなければ宗教としてつじつまが合わない。トートロジーや対語が多い。道元思想は。吉本解釈によれば勇ましいが薄っぺらだ。

生と死がかかわりがあるとか、生から死へと移り変わるという考え方はあり得ないと述べています。

 この考えは事物の状態一般まで引き延ばされます。

全ての事物は<それ自体>で満たされているので分割された状態は不可能なのです。

もちろん観察とか判断も成立しません。

もし鳥が空を意識して空がどうなっているかを考えていたら鳥は空を飛ぶことさえできない。W。ハーバートの荘子講座もこの手の解釈があった。職人技みたいな解釈だが。

また魚が水を意識して冷たいか温かいかというように水を見ていたら魚は泳ぐこともできないでしょう。W。古代古典以前の思想だ。科学発生の道筋が全く閉ざされた思想。

魚が泳ぐとか鳥が飛ぶとかいう状態の中にすでに空とか水は含まれているといっています。⇒W。禅問答の意味が分かる!空、水>鳥、魚。

コレは山河とか天地と日や月についても言えます。

山河や天地、日月星とかはどのようにあるのかと考えたとき、

考える心、あるいは感じるその心の中に大地とか日月星とかは含まれているというのです。逆に大地とか~天然自然の中にここは含まれて存在しているとみなされています。W。荘子の論理はここまで幼稚な主観主義ではないと思う。前回の解説記事参照!

>人間は死んでから浄土に行くとか、浄土に行くために修行するとかいうことは全くない。

>W。ここらあたりから鎌倉新仏教の真骨頂が始まる。

>修業したり座禅をすること自体が浄土なのだ。

>人間は修行して仏の悟りに近づくのではなくて

>自分が修行しているその姿とか、山や川や谷の水の音を聞いているそのこと自体が仏なのだ。

@コレが道元の<行仏>思想に当たっています。

>W。いつも座禅が組める環境からの離脱は道元禅からの離脱になる必然性がある。座禅で浄土や仏の悟りに近づける環境が必要。

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道元と同時代の思想家で浄土教系統の親鸞という人がいます

親鸞の解釈の仕方によりますと人間は具体的に生きているとか死んでいるとかいうところの、つまりその人がその人であるというところでは人間は本質的な存在ではない、というのです。

これを現在の言い方でいえば、

人間は現に存在するところのものではないということでしょう。

~それらは仮の姿本質的な人間はそれらを貫いている何かだと考えたわけです

そして親鸞にとって浄土とは、死んだ後で行くところではなく生きている状態を見通せる目を獲得できるとすればそれが浄土からの視線の始原だとみなします。W。幼稚な不可知論の一種だ。

 

良寛は師の死に出会って円通寺を出たときに、道元の<行仏>という思想を捨てました。W禅宗ヒエラルキーからの脱落?

@ただ座禅を四六時中やることの中に生存のすべての価値と意味を包蔵することですから

普段の緊張を必要とするでしょう。

@こんなことに何の意味があるかといったん考え始めれば、無限に崩壊してゆくに違いありません。W。山奥の寺の修行動画が出ている。まさに吉本の指摘する事情で下山する修行者が出てくる。

つまりいったん疑えば座禅以外のすべてのことが、小さな意味や価値の亡霊に見えるかもしれません。

>自分の長年馴染んだ根拠の場所を捨てたときこの<行仏>を保つのが不可能なことを良寛はよく知っていたと思います。

それは郷里にたどり着くまでの良寛の動揺だったと思います。

良寛の心の中に次に新しい意味を持って浮かびあがったのは「正法眼蔵」の阿羅漢の思想だったのではないでしょうか。

~~省略

道元の記述する阿羅漢は自分が現世的な利益や名利を求めず

自分の姿事態によって教化しようとする考えを全く捨て、

ひたすら無執着で自然の風物を眺め、自分と同じものとして受容する生活をすることです。

良寛は阿羅漢の道を選ぼうと思い決めたとき、郷里を目指したと思われます。

>郷里の国頭山腹の良寛の庵生活は、僧としての阿羅漢の在り方とみることが許されるのではないでしょうか。

     @以上の吉本、良寛阿羅漢の道選択論から

W。良寛のような禅宗ヒエラルキーから離脱した阿羅漢の僧侶はたくさんいたと思う。

ただ良寛はご法度の詩文、書に優れていた。

良寛は地元の人々に大切に見守られていた、というべきだ。当時の良寛、その後の良寛はその生きざま、詩文の伝承に居場所を見出したが、良寛を見守り続けた地元の人々は無告の民であり続けた。

反俗日記は良寛の生きざま、詩文を吉本隆明良寛」を通じて検証した結果、複雑な想いがする。

性格悲劇のものが、どのようにして生き、居場所を見出していったか、に関心が向かうが、それは周囲の人たちのおかげで成立していた部分も決して小さくない。無告の民たちのちょっとした思いやり、共感、同調の在り方は書き記されていないが、その想いや実行が積み重なってきた事情に注目する。