反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

第2回。吉本隆明「良寛」。良寛の性格悲劇には緊張と弛緩の二つの位相。緊張の極限では、やがて来る近代の人間悲劇の必然的な形に接続し、 弛緩の極限では師国仙が贈り名にした<大愚>という性格に接続し、両者は僧侶としての厳密な規範において均衡していた。

   吉本隆明良寛」 序(文)引用 

W僧侶として詩文家として「近世の制度の堅い網目に絡まれていた」~後世になって評価が高まった。多分、明治の文士の評価によって良寛の詩文の評価はたかまったが、多分にその人生行路と表裏一体で過大評価された。

ただし、今回の反俗日記冒頭に挙げた人生訓のごときものを発する良寛という人間主体は魅力的である

災難に逢う時節には

逢うがよく候

死ぬる時節には

死ぬがよく候

是はこれ災難をのがるる妙法にて候

                  良寛

そこには人間原理のど真ん中を射る、視点があるグローバル資本制の我々を取り巻く仮想現実の爬行永続更新時代に最も必要なのは人間原理を腑に落とすことだ。

  引用開始 序文 吉本のこの序を読むと前回記事の文中で示した疑問点はほぼ吉本の視野に入っていたと感じた。ただどの程度、回答が得られたのか、もう一度書き込みながら本文を読み込まなければわからない。

良寛を考えるといつも詩文の運命ということと一緒に近世になってからの僧侶の運命ということを考える。⇒W。記事文中で5合庵のできた歴史と良寛、村人との関係という事実に基づいて近世の僧侶の身分によって(身分社会、人別帖寺請負の時代)村人は庵に僧が住まうと援助する慣習があった、と指摘した。なお、越後には境界を大切にする文化の歴史があった。

 良寛が身に着けていた詩文の能力も、僧侶としての在り方も、

>近世ではすでに制度の堅い網目に絡まれていた。

~~省略

良寛の詩文の能力はそれほど伝搬性があったとは、思えない

>詩文の断片を墨書した筆跡は伝搬性を持ち、公共的な評価を得ていたといえるほど遠くまで届いていたといっていい。

~~

良寛の詩文の才は全貌を同時代に表すことはあり得なかったが、その墨書は習字が学習から美の領域まで入り込んでいた近世後期では、知る人には比類のない評価を受けていたと思われる。

 儒家のあるものは書家として江戸で知られていた。

書家ということは

南画家が画家とともに儒学者だったように、

詩文の造形家であり同時に儒学者でもあった。⇒W。美術展に行っても書の空間だけは通り過ぎることにしていた。理由は簡単、墨書のみは理解しがたい。書が吉本の指摘するようなものなら理解の努力はする。

 良寛は資質的な傾向から儒学者ではなくて自由な僧侶というべきありかたを辿った

>書家と僧侶を兼ねてたものは、おおむね制度の中の禅の師家だった。

⇒W。展覧会の書の鑑賞法を教えてもらった気がする。禅という背景があった。

良寛はここでも制度の外にはみ出した孤独な師家だったといってよい。

~~

 良寛自身はじぶんは性格悲劇から制度の中の人間関係や上下関係に耐えないのだと思い込んでいた。

 

   W。ここからユニークな良寛像を提示している。良寛の緊張と弛緩

もっともこの概念(緊張と緩和)を言い出したのは煩悶の果てに死を選んだ上方落語家だった。お笑い芸に大切なのは緊張と緩和。

そのひとは桂小米時代から、異常不思議、錯覚現象を言葉の表現コントにしていた。彼が語ると不思議な魔力を醸し出した。吉本隆明は落語ファンだったのかもしれない。

 


@しかしよくよく考えてみると良寛の性格悲劇には緊張と弛緩の二つの位相があって

>緊張の極限では、やがて来る近代の人間悲劇の必然的な形に接続し、

>弛緩の極限では師国仙が贈り名にしたように<大愚>という性格に接続していたと思われる。

良寛のこの矛盾とも見える二つの位相に言葉が同時に届くことができるか。

それが行ってみれば私が良寛論 でやりたいことの要だった。

@こんな理解に仕方からすれば托鉢の途中で手毬付きの子供と遊ぶ良寛も、

詩文を作り墨書する良寛

緊張と緩和の姿であって、弛緩の現れとは到底思われない。

私の推測では良寛の均衡した姿勢は、

一見すると放縦なようで実は厳密だった僧侶としての規範からきていると思える。

***************************************

小林一茶 - Wikipedia

宝暦13年5月5日1763年6月15日) - 文政10年11月19日1828年1月5日))

良寛 - Wikipedia

宝暦8年10月2日1758年11月2日) - 天保2年1月6日1831年2月18日))

W。同時代の越後と信州在住の人だった。日本独特の近世、コメ年貢制度の幕藩体制から庶民のエネルギーがあふれ出ていた。