W。
災難に逢う時節には
逢うがよく候
死ぬる時節には
死ぬがよく候
是はこれ災難をのがるる妙法にて候
W。良寛没年74歳 1831年。
三条地震1828年に遭遇した知人にあてた手紙の一文。腰の据わった開き直り、というか禅問答的でもある。生きることは死ぬことである。その逆は思想哲学、精神の領域だが死ぬことが生きることになる場合もよくある。
前兆現象[編集]
小泉蒼軒文庫によれば、幾つかの現象が報告されており主な物としては、
- 井戸水は6カ月程前から濁り始めていた。
- 当時の越後では自噴する天然ガスをコンロの火力として利用(W。初めて知った。新潟の油田は戦時中、掘りつくたのかな?)していたが、地震の1カ月ほど前より止まり地震後に噴出が再開した。
- 3時間ほど前から鳴動音。w。以上生活レベルの地震予知がまったくできなくなった。日本列島では地震は起きるべくして起きているが(その意味でまさに科学的レベル)、地震は起きてほしくないという願望は、動物的本能レベルに達している。
W。吉本隆明「良寛」。その他の情報で知ったつもりになっていた、<良寛>の足跡はこの略年表を読む限り、時系列の勘違いなのか、脚色なのか判断できないが、かなり違うようだ。
年齢 | ことがら |
1 | 1758年、出雲崎の名主橘屋の長男として生まれる。W注釈① 少年時代に六年間、大森子陽の三峰館に学ぶ |
17 | 三峰館を退塾、名主見習役就任、この年に結婚し半年で離婚したとの有力な説もある。 |
18 | 出奔、参禅 |
22 | 光照寺で得度、W注2国仙和尚とともに備中玉島円通寺へ |
26 | 母秀子没(享年49歳) |
27 | 諸国行脚へ |
28 | 紫雲寺観音院で大而宗龍との相見 |
32 | 大而宗龍没(享年73歳) |
33 | 印可の偈を授かる |
34 | 師国仙和尚示寂(享年69歳) 大森子陽没(享年54歳) 秋に円通寺を去り、旅に出る |
35 | 春、帰国 郷本の空庵で半年暮らす |
36 | 国仙三回忌、四国で近藤万丈と遇う? 東国東北行脚? |
38 | 父以南入水自殺(享年59歳) |
40 | このころまでに五合庵定住 |
41 | 弟香没(享年32歳) 大村光枝五合庵に良寛を訪ねる |
43 | 弟宥澄没(享年31歳) 離別した妻没 |
50 | 三輪左一没 |
51 | 有願没(享年71歳) |
53 | 由之に家財没収追放処分の判決 由之の妻安子没(享年42歳) |
54 | 由之石地に隠居 大忍魯仙没(享年31歳) このころ、自筆詩稿『草堂集貫華』、自筆歌集『布留散東(ふるさと)』成る |
55 | 妹たか子没(享年44歳)(夫は高島伊八郎) |
59 | 乙子神社草庵に移住 大村光枝没(享年64歳) |
65 | 維馨尼没(享年58歳) |
67 | 妹むら子没(享年65歳) |
69 | 島崎の木村家へ移住 |
70 | 貞心尼が良寛を訪ねる 原田鵲斎没(享年65歳) |
71 | 三条大地震 |
74 | 1831年、良寛遷化(享年74歳) 馬之助没(享年42歳) |
1758年、出雲崎の名主橘屋の長男として生まれる。W注釈①
(W.さんとうと読む)
https://www.town.izumozaki.niigata.jp/kanko/spot/tsumari.html
妻入りの街並み
良寛記念館から見下ろす出雲崎町の街並み。家と家とが重なり合うように軒を連ねています。通りに面して大棟が直角になっている「妻入り」という形式で、海岸線に沿い約4kmも続いており、これは日本一の長さです。江戸時代の出雲崎町は、越後で一番人口密度が高く(W佐渡への渡船港で繁栄していた。良寛の家は名主、兼神主の地元名家。この地は素朴な田舎ではなかった。良寛の実家は生前中に完全に没落(一家離散破滅の悲劇)した。この地で家紋を維持するのは楽ではなかった。良寛を理解する鍵がここにもある!)、多くの人が居住できるように間口(まぐち)が狭く、奥行きの長い妻入りの形式がとられていました。また、当時は間口によって税金が掛けられていたとのことで、二間や三間半の家が多く並んでいます。この、全国でもめずらしい「妻入りの街並」の散策に訪れる人も多く、街並み景観保存事業も進んでいます。
山の谷あいに耕地が広がる出雲崎町
W,防波堤で囲われたところが港町で上の写真にある中心地、と思われる。
17世紀後半、松尾芭蕉が奥の細道の旅で 「荒海や佐渡によこたふ天河」の句を詠んだ地として、また18世紀中頃、橘屋の長男として生まれた良寛ゆかりの地として、天領の里
引用
「幕府直轄領は元禄以降、全国で約400万石あった。領地は日本全国に散らばっており、江戸時代を通じて何らかの形で幕府直轄地が存在した国は51ヶ国と1地域(蝦夷地)に及び[2]、年貢収取の対象となる田畑以外に、主要な鉱山(W佐渡銀山~遠投流人が使役されていた。)交通・商業の要衝と港湾(W良寛
城郭や御殿の建築用材の産出地としての山林地帯が編入され江戸幕府の主要な財源であった。」
として有名な出雲崎町の耕地は、西山・三島両丘陵の斜面と島崎川の本流及びその支流の流域や谷あいに分布しており、広い耕地には恵まれてはいませんでした。当時、稲を育てるための大切な用水は、渓流水を利用していましたが、それでも水が不足していたことから、たくさんのため池をつくったり、島崎川を細い木の枝を集めた粗朶などで閉め切る堰などをつくって、水を引いて耕作をしていました。
W。良寛の実家は以上のように佐渡銀山に臨む大切な幕府権力直接統治の港町として繁栄の地であったが、百姓にとって耕作地には恵まれない複雑な土地柄であった。地元名士農地を継ぐことを良寛が拒否したのは良寛の資質もあるが(吉本隆明に言わせると人格悲劇)、文に心を寄せた良寛にとってある意味、当然といえば当然であった。実家の急速な没落は、通り一遍の説明ではあまりにもドラマチックすぎるように感じたが、この複雑な土地柄のせいでもあった、と納得できる。~実家の当主が華美な生活をしていると代官所に告げ口され所払い判決など~~
まずW。注2国仙和尚とともに備中玉島円通寺へ
国仙和尚和尚と良寛さん : NPO玉島観光ガイド-ひろ君のブログ
国仙和尚と良寛さん
引用。
「国仙和尚は享保八年、武蔵国(現埼玉県)に生まれ父母を亡くして、四才のとき大泉寺全国和尚に育らる。~~水上勉と吉本隆明対談で、良寛には円通寺の飯炊き僧に真の修行者の姿勢を認める眼差しがあった、と感心しているが、良寛の師のそのものが寺の小僧から出発した人であった。
**********
国仙二十才のとき、全国和尚示寂、
国仙は二十才以前から諸国行脚し諸大徳に参見し教を乞うた。
四十七才のとき、玉島円通寺に晋住す。
安永八年(1779)五十七才のとき、出雲崎光照寺の請をうけて門人玄乗破了の晋山、結制授会会に臨む、良寛二十二才にして光照寺に於いて得度受具す。
国仙和尚は長野善光寺に詣で各地を巡錫して秋に円通寺に良寛随行して皈かえる。
W。流布されている二人の出会いは円通寺と想像しがちになるが、和尚が出雲崎光照寺に行ったときに得度した良寛に出会って、その後和尚は長野善光寺詣でや各地の巡行を経て円通寺帰りの際に良寛は随行し入門した。
W。和尚は4歳で孤児になり、寺で育てられた、という凄まじい経歴の人であった。
円通寺での4年間の修行の後に諸国行脚の旅に出たのは
「国仙二十才のとき、全国和尚示寂、
国仙は二十才以前から諸国行脚し諸大徳に参見し教を乞うた。
四十七才のとき、玉島円通寺に晋住す。」
という和尚の厳しい修行経歴から言えば、師の修行作法を踏襲したものであり、その結果(4年後)、良寛33歳。印可の偈を授かる
ところが
良寛34歳。師国仙和尚示寂(享年69歳)
大森子陽没(享年54歳)
秋に円通寺を去り、旅に出る
W、曹洞宗のヒエラルキーによって、師の跡を継ぐ僧が円通寺にやってきたこと、や良寛の寺マネージメントに馴染まない性格もあって、再度、旅に出て40歳まで放浪し、五合庵に定住した。こうかけば、それはそれなりにコンパクトにまとまった修行僧の起承転結のような気がする。そのコンパクトな人生を濃密にしているのは良寛の芸術であり、後代の人々の想像力(清貧好み)である。
W。禅僧のヒエラルキーに則った師との道が完全に分かれたのは、なぜか?ここが吉本隆明の「良寛」の最大のテーマ。先回りしてここに書かない。今後連載を重ねて吟味していく。
冒頭に記した良寛の手紙の一文も、まさにその思想性が発揮されている、と今更ながら思う。今、必要なのはこの原理(原始)論、違うかな?人間は生まれる前に戻るのだからこういうたぐいの原理論は古臭くならない、むしろ永遠だ!
この本の欠陥は導入部の吉本の良寛思想のマルクスのアジア的生産様式論に踏まえた社会学的分析の見地を深堀できなかったことである。
Wは昔から仏教というのは宗教として古すぎると思っていたが吉本も同じような観点があって、この本の導入部の仏教、老荘思想の仕分けをしているが、その線で論を進めていくだけの研究蓄積が吉本にはなく、良寛の文学、書、人生、論というありきたりな方向に流れている。結局は日本的な思想系譜の良寛論で終わっている(あいまいな情緒論)。最もそれでも面白かったので連載することにしているが、鴨長明から500年経って良寛の地平~~と思わずにはいられない。
↓
国仙二十才のとき、全国和尚示寂、
国仙は二十才以前から諸国行脚し諸大徳に参見し教を乞うた。
四十七才のとき、玉島円通寺に晋住す。
燕市国上1407番地
W。いいところだなぁ~!こういう光景がにほん。ただしよく見ると経済林ばかりの山は手入れされていないな。
国上寺の僧侶たちの4つの塔頭(たっちゅう)のひとつで、国上寺を再興した萬元上人(ばんげんしょうにん)のための庵として作られました。“五合庵”の名前は、萬元上人が毎日米五合に相当する手当を給されていたことに由来しています。
(W.アレッ!流布されている良寛と五合庵の話と随分違う。
この庵の住職はコメ5合を支給されていた。その慣習の延長線上で地元住民が良寛にもカンパしていたと思われる。
庵に定住する僧が出現すれば、普通は放置しない。風習としてカンパする(ときは寺人別長請負の江戸時代)。吉本隆明の「良寛」はその辺の事情を知ってか知らずか、村共同体と良寛との関係などというむつかしい話にもっていっているようだが実相は、もっと素朴自然なところにあった、という視点から今後の連載を始めていくことしたい。)
各地での厳しい修業を終え、越後に戻った良寛が寛政5年(1793年)頃から約20年過ごした庵
で托鉢に出たり、座禅をしたり、「源氏物語」や「万葉集」、「永平録」などを読み、そして多くの漢詩・長歌・短歌を生み出したとされています。現在の庵は大正3年(1914年)に再建されました。