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「(Francis Scott Key Fitzgerald, 1896年9月24日 - 1940年12月21日)は、アメリカの小説家、短編小説家。一般には筆名のF・スコット・フィッツジェラルドとして知られる。1920年代の「失われた世代」の作家の一人とみなされ、狂騒の「ジャズ・エイジ」を描いたその作品は後世の多くの作家に影響を与えた。生前に発表した長編小説は4作品にすぎないものの、今日では20世紀のアメリカ文学を代表する小説家の一人としてその名を残している。
失われた世代
引用
「「ロストジェネレーション」という言葉は第一次大戦後の1920年代にパリに滞在していたアーネスト・ヘミングウェイに対しガートルード・スタインが投げかけた台詞(You are all a lost generation. あなたたちは皆、失われた世代なのよ。)に由来し、酒や享楽に溺れる「自堕落な世代」を意味していた。(正確には「失われた世代」は誤訳に近いものであるが、日本ではこの語で定着している)。ヘミングウェイがこの台詞を『日はまた昇る』のエピグラフに引用し広く知られるようになった。」
「ロスト」という語は「失った」という意味を持つ一方で、「迷子の」「行き場の無い」という意味も持つ。「ロストジェネレーション」は「失われた世代」と訳されるが、「迷子世代」「迷える世代」と訳される場合もある。この世代が、第一次大戦により、旧来の価値観に対する動揺や、戦死といった災禍に襲われた経験もまた、「ロストジェネレーション」という語を生んだ背景になっている。
ヨーロッパでは、ロストジェネレーションは「1914年世代」とも呼ばれている(1914年は第一次世界大戦の始まった年)。フランスでは「炎の世代 (Génération au Feu) 」とも呼ばれている。⇒W.少し調べただけでは1914年世代、炎の世代が特定できなかった。
参考資料として面白いページがあった。
「神の不在」引き受けた巨人 ジャン=ポール・サルトル「存在と無」|好書好日
引用した以下の部分はキリスト教の歴史文化が内面化していない、神が内面にいない日本人には実感できない。
「カント以降の哲学者は、「神」に明示的に言及して議論を正当化することは稀(まれ)だが、なお神の存在を暗黙裡(り)に前提にしていた。しかしサルトルは「神はいない」と叫び、そこから出発した。
するとどうなるか。人間には、神から与えられた目的も意味もない。だから人間は自由だ。いや自由であるほかない(「自由の刑に処せられている」)
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ロストジェネレーションは、20代の青年期を第一次大戦に蹂躙され、戦死したり、生き残ったが社会生活に支障を来たす負傷をした者も多い。40代に当たる1930年代には世界恐慌に遭遇し、50代を第二次大戦に蹂躙されるという、「貧乏くじ世代」であったとも言える。
ロストジェネレーションの子供世代はビート・ジェネレーションと呼ばれており、純粋なアメリカ文化と言われるジャズが花開いた時代(ジャズ・エイジ)に9歳までの時期を過ごしたが、10代の少年期を世界恐慌に蹂躙され、20代の青年期を第二次大戦に蹂躙されるという、これまた「貧乏くじ世代」であったとも言える。
WACWAC⇒ロストジェネレーションとその子供たちのビート、ジェネレーションが「貧乏くじ世代」であるとすれば、1914年(第1次世界戦争)~1945年の30年間はずっと生き難い=貧乏くじ、特殊な時代だったということになる。東アジアに目を向けると朝鮮戦争終結の1953年まで特殊時代だったという訳か?
反俗日記流に解釈すると、自由放任の資本主義の発展の結果生まれた帝国主義が帝国主義の経済法則に則って内外で猛威を振るった40年間だった。この時代の政治は戦争と革命(反革命ファシズム、ナチズム)に行き着いた。言い換えると、この時代の政治経済の在り方に時代を通底する本質、普遍とみなすことはできない、と結論付けられるが、戦争が必要な政治経済は今も続いている。その動因は制御できない資本の運動である。第二次世界戦争の戦勝国の経済活動や日常生活の中に戦争動因が埋め込まれている。
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引用に戻る
ロストジェネレーションの人々の中には、当時のアメリカ文化がヨーロッパに存在する文明性を欠いていると考えた者もいた。彼らは「ローリング・トゥエンティーズ」と呼ばれる好景気に沸いていたアメリカを後にして、その時間の多くをヨーロッパ、中でもパリを中心に生活していた。この期間に生み出された文学作品の中に、後にアメリカ文学における傑作と目される作品も多い。」
「第一次世界大戦後の当時、アーネスト・ヘミングウェイ、シャーウッド・アンダーソン、ジョン・ドス・パソス、画家のワルド・パース、シェイクスピア書店主のシルビア・ビーチ、詩人ではE・E・カミングス、エズラ・パウンド、批評家ではマルカム・カウリーそしてスタイン自身など、パリで生活したアメリカ人の一群がいた。F・スコット・フィッツジェラルドもこの頃パリに旅行し、スタインらと交友を持った。」
W。俗世間に距離を置いて、ミシシッピで隠者的生活をおくりながら独自の世界を築いたフォークナーも経歴から言えば一応ロストジェネレーション作家。多分、後代の文学者に一番文学的影響を与え続けたのはフォークナー。ドストエフスキー的課題を背負った作家だ!しかしその課題への回答は永遠に無い。
らっきょの皮むきだ。
W。最後尾にフォークナー論を上げておいた。
『兵 士 の 報 酬』論 考
若 き 習 作 者 の テ ー マ 不 在 の 詩 的 観 念 小 説
花 本 金 吾
導入からして興味がわく
引用
「こ の作 品 が,1920年 代 の,い わ ゆ る ロス ト ・ジ ェネ レー シ ョ ンの ス タ イ
ル や雰 囲気 に影 響 され て書 か れ て い るの は,今 更 い うま で もな い 。r兵 士
の報 酬 』 とい う題 名 も さる こ とな が ら,第 一 頁 か ら続 く帰 還 途 中 の兵 士 の
会 話 を読 め ば,読 者 は,突 蜷 に ロス ト ・ジ ェネ レー シ ョンの作 品 で あ る,
と想 定 す る。
だ が,僕 た ちは,更 に読 み 進 む うち に,ロ ス ト ・ジ ェネ レー シ ョンの作
家 に 個 有 な,あ の払拭 し難 い ほ ど の喪 失 感 も失 望 感 も ない の に,徐 々 に気
が つ い て 来 る。」⇒W。作家として本能的に普遍性を求めていた。
ビート・ジェネレーション
引用
「ビート・ジェネレーション(英: Beat Generation)は、第二次世界大戦後のアメリカ合衆国の文学界で異彩を放ったグループ、あるいはその活動の総称。1940年代終盤から1960年代半ばにかけて、この文学運動の思想や行動様式に影響を受けたライフスタイルを実践する者はビートニク(Beatnik)と呼ばれた。主な著作は1950年代に発表され、特に1955年から1964年頃にかけて、文化・政治に対して大きな影響力を及ぼした。生年でいうと、概ね1914年から1929年までの、第一次世界大戦から狂騒の20年代までに生まれた世代に相当する。
最盛期にはジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグそしてウィリアム・バロウズ(彼らは1944年にニューヨークのコロンビア大学で出会い、1950年代半ばにサンフランシスコへ移住し、サンフランシスコ・ルネッサンスに合流した)を初めとするビート・ジェネレーションの作家たちは多くの若者達、特にヒッピーから熱狂的な支持を受け、やがて世界中で広く知られるようになった。彼らは、ボヘミアン快楽主義、非同調主義(個人主義)、自発的創造性を追求・開拓した。そしてまたポエトリー・リーディングの活動も有名である。
この運動の中心地は、ニューヨーク(知識人の集うコロンビア大学、アングラの中心地帯であったタイムズスクエア、アメリカのボヘミアと呼ばれたグリニッジ・ヴィレッジ)、サンフランシスコおよび他の西海岸北部の都市であった。」
略歴
引用
「ケルアックは1922年、マサチューセッツ州ローウェルの、フランス系カナダ人の移民の家庭に生まれた。ブルターニュにルーツを持つケベック出身者の家庭であった。フランス系カナダ人のコミュニティで幼少期を過ごし、6歳で小学校に入るまで英語を使うことがなかった。
ローウェル高校に進学後フットボールに熱中する。フットボールの推薦でコロンビア大学に進学するが入学後まもなく行われた試合で負傷しフットボールを諦める。第二次世界大戦中は船員として世界中を航海し、戦後は親友であった作家のウィリアム・バロウズや、ニール・キャサディ、アレン・ギンズバーグらと共にアメリカ中を放浪してまわった。これらの経験から、ケルアックの著作の大半は誕生したといえる。
ケルアックの代表作『路上』(『オン・ザ・ロード』)は、ヒッピーなどの間で多くの愛読者と熱狂的な信奉者を生み、一気にアメリカのカウンターカルチャーの代表となった。
1926年2月8日 - 1968年2月4日)はジャック・ケルアックの小説『路上』の登場人物ディーン・モリアーティのモデルになったとされる人物。ヒッピー・コミューン『メリー・プランクスターズ』のバス運転手。享年41歳。
ユタ州ソルトレイクシティ生まれ。その奔放で過激な生き様から一冊の本も残さなかったにもかかわらず、友人のケルアック、アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズ、等ビート・ジェネレーションの作家群やヒッピー等に大きな影響を与えた。
1968年、キャサディは裸でメキシコの線路上で死んでいるのを発見されたが、その後も人気は衰えず、死後29年の1997年には彼の生涯を描いた映画『死にたいほどの夜』が発表された。]
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W。ダシールハメットのことは知っているつもりだったが、ウィキを読んでいて新たな発見があった。
ハメットは陸軍に所属しているときにスペイン風邪に感染し、肺炎から肺結核を患った模様。
「1918年にはアメリカ陸軍に所属しており、衛生隊で働いた。しかしスペインかぜに罹り、結核を患うことになった。そのため陸軍では大部分をワシントン州タコマの病院で患者として過ごすことになった。その病院でジョセフィン・ドランという看護婦と出会い、後に結婚している。」⇒Wアメリカの戦線膠着状態になっていた欧州戦線参戦は「1917年4月6日、アメリカがドイツに宣戦布告し、イギリスやフランスなどとともに連合国として第一次世界大戦に参戦 」
W。災難に合う時節に会うがよく候。
死ぬる時節には死ぬがよく候。
是はこれ災難をのがるる妙法にて候。
全文引用する
ダシール・ハメットとIWW
ビート ゼネーレーションの前の世代が、ロストゼネレーションであり、その代表作家のヘミングウェイの文体はハードボイルドであるが、同じ時代にハードボイルド小説の元祖となった作家にダシール・ハメットがいる。
日本映画の歴代ナンバー・ワンを選ぶと黒澤明の『七人の侍』W.母の前に次々に異端、異能の党活動家が現れる構成元はゴーリキの「母」。コレほとんどの人が知らない。Wが発見した!が選ばれるのと同じようにW?、ハードボイルド・ミステリー歴代ナンバー・ワンを選ぶと、ほぼダシール・ハメットの『マルタの鷹』となる。個人的には、レイモン・チャンドラーの『長いお別れ』W。映画化されている。傑作。が好みだが、ハメットの『マルタの鷹』がナンバー・ワンであることには、何の異存もない。
ある日、酒好き女好きで金には縁のない私立探偵事務所に美女が相談にやって来る。美女の相談を引き受けた探偵は卑しい街をあくせくと歩き回り、ヤクザや警官にこづき回されたあげくに、金にも色仕掛けの誘惑にも「それがどうしたというのだ」とばかりに、ハードボイルドに事件を解決させるが、大した報酬を得ることもないという私立探偵物語の原型こそ、ハメットの『マルタの鷹』にある。
1929年に出版されたハメットの最初の長編小説『血の収穫』W。黒澤明「用心棒」の構成元。は、「緑色の女と灰色の男」という小節から始まる。緑色の女はもちろん美女だが、灰色の男は労働組合のオルグである。『血の収穫』は、サンフランシスコのコンチネンタル探偵社から派遣されたオブ(探偵)が、市行政と警察と資本家が癒着して腐敗した鉱山町で、町の浄化をやる話なのだが、労働組合のオルグである灰色の男は、鉱山労働者の組織化のためにIWWから派遣されたリーダーという設定になっている。
『血の収穫』の中で、灰色の男は主要な登場人物である訳ではないが、1929年当時においては既に滅亡しつつあったIWWという労働組合は、ハメットの中に強い印象を残している。それは、ハードボイルド作家になる以前に、ハメットが実際にピンカートン探偵社でオプ(探偵)をやっており、そこでの体験もあったのであろうと思う。ピンカートン探偵社は、まだ連邦警察がない19世紀半ばに創設された全米をネットする民営の警察みたいなものであり、労働争議におけるガードマンみたいなこともやっていた。おそらく若きハメットも、たびたび鉱山争議などに派遣されたのだろうが、そこでハメットに刻み込まれたものは、資本家の腐敗であり、ストライキをする貧しい鉱夫たちの顔であり、それを指導するIWWIndustrial Workers of the World, という労働組合であったのだろう。
著名なメンバー
- ビル・ヘイウッド
- ダニエル・デ・レオン
- ユージン・V・デブス
- ヘレン・ケラー
- 視覚と聴覚の重複障害者(盲ろう者)でありながらも世界各地を歴訪し、障害者の教育・福祉の発展に尽くした。
- 1887年(7歳) - ヘレンの両親は聴覚障害児の教育を研究していたアレクサンダー・グラハム・ベル(電話の発明者として知られる)を訪れ、ベルの紹介でマサチューセッツ州ウォータータウンにあるパーキンス盲学校の校長マイケル・アナグノスに手紙を出し、家庭教師の派遣を要請した。3月3日に派遣されてきたのが、同校を優秀な成績で卒業した当時20歳のアン・サリヴァン(通称アニー)であった。サリヴァンは小さい頃から弱視であったため(手術をして当時はすでに視力があった)、自分の経験を活かしてヘレンに「しつけ」「指文字」「言葉」を教えた(ただし、最初はサリヴァンの強引な「しつけ」の教え方にアーサーは憤慨しサリヴァンの解雇を考えたという)。おかげでヘレンはあきらめかけていた「話すこと」ができるようになった。サリヴァンはその後約50年に渡りよき教師、そしてよき友人としてヘレンを支えていくことになる。
- 1906年(26歳) - マサチューセッツ州盲人委員会の委員となる。
- 1909年(29歳) - アメリカ社会党に入党。婦人参政権運動、産児制限運動、公民権運動など多くの政治的・人道的な抗議運動に参加する。また、著作家としても活動を続ける。
- 1916年(36歳) - 世界産業労働組合 (IWW) に共感を覚え、活動に参加。1917年のロシア革命を擁護した。1937年(昭和12年)(56歳) - 岩橋武夫の要請を受け訪日し、3ヶ月半に渡り日本各地を訪問した。
- 4月15日浅間丸に乗りトンプソンとともに横浜港に到着。4月16日、新宿御苑で観桜会が開催され、昭和天皇・香淳皇后が行幸[2][3]。観桜会に出席したヘレンは、昭和天皇に拝謁した[3]
- 1948年(昭和23年)8月(68歳) - 2度目の訪日。2か月滞在して全国を講演してまわる。これを記念して2年後の1950年(昭和25年)、財団法人東日本ヘレン・ケラー財団(現:東京ヘレン・ケラー協会)と財団法人西日本ヘレンケラー財団(現:社会福祉法人日本ヘレンケラー財団)が設立されている。
- 同年から1957年にかけて、中東、中部アフリカ、北欧、日本を訪れる。
- 1955年(昭和30年)(75歳) - サリヴァンの伝記『先生』を出版。3度目の訪日も実現し熱烈な歓迎を受けた[注 2]。訪日の理由の1つは、1954年(昭和29年)に没した朋友岩橋武夫に花を手向けるためであった。ヘレンは空港で岩橋の名を叫び、岩橋の家では泣き崩れたという。勲三等瑞宝章を授けられる。
- 1964年9月(84歳) - アメリカ政府から大統領自由勲章が贈られる。
- 1968年6月1日(87歳) - コネチカット州イーストンの自宅で死去。87歳没。88歳の誕生日の約4週間前の死であった。ワシントン大聖堂で葬儀が行われ、地下礼拝堂壁内の納骨堂にサリヴァン、トンプソンと共に葬られている。死後、日本政府から勲一等瑞宝章が贈られる。
- ラルフ・チャップリン
- ジェームズ・P・キャノン
- ジョー・ヒル(en)
- エリザベス・フリン
- ウィリアム・トラウトマン
- ジェフ・モンソン
- W.未知との遭遇。
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、アメリカ合衆国の男性総合格闘家。ミネソタ州セントポール出身。アメリカン・トップチーム所属。
筋骨隆々とした骨格とパワーを持つ。全身に彫られたタトゥーとスキンヘッドが特徴のグラップラー。また、自らを共産主義者および無政府主義者だと公言し、試合後のインタビューなどでも自らの政治姿勢を語ることがある。
- マッティ・ヴァレンティン・フータ(Tボーン・スリム)
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『血の収穫』や『マルタの鷹』で、ハードボイルド作家として大成功したハメットは、その著作権や、ハンフリー・ボガード主演の映画『マルタの鷹』などの映画化権で莫大な富を得るが、公民権や労働者の権利擁護などに共感したハメットは、作家としての成功後はマルクス主義を信奉し、アメリカにおける共産党員の公民権を擁護した。そして、第二次世界大戦後の「赤狩り」で共産主義者として裁判にかけられた。
狂気の“赤狩り”による罪状など、反民主主義的な言いがかりみたいなものであるが、ハメットにとって政治とは、信条の問題であった。『マルタの鷹』のサム・スペイドが、真犯人である美女の誘惑に対して、「それがどうしたというのだ」と対応するのと同様に、ハメットは裁判官や判事の尋問に対して、「お答えするのを拒否します」とだけ応え、投獄されたのだった。
ハメットは、1959年に亡くなるまで、晩年は筆を折り、無一文で、友人の提供してくれたコテージでつつましやかに暮らすという生活を送った。時代は、アメリカが今日のグローバル資本主義に至るプロセスでもあったが、沈黙こそハメットの生き方であった。それは、誰かをかばうと言うよりは、ハメット自信の「信条」の問題であったのだろう。仲間への信義と自らの信条、それも「人と人をつなぐもの」として、前章で書いた「共感」と同列であると私は思う。」
引用終わり
死
「第一次世界大戦で感染した結核は、その後の飲酒と喫煙で悪化していった。ヘルマンによれば、服役でさらにやせ細って病気が悪化したという[20]。Tulip と題した長編にとりかかったものの、病状が悪化していったため完成させることはできなかった[21]。
ダイアン・ジョンスン著『ダシール・ハメットの生涯』(小鷹信光訳、早川書房)にはFBIがダシール・ハメットについてまとめた1957年4月5日付けの調査報告書が紹介されており、その記載からは晩年のハメットの困窮ぶりがうかがえる。
ヘルマンによれば、1950年代には「隠者」のような生活を送っていた[22]。最終的には1人で生活することが困難になり、最晩年の4年間はヘルマンが同居して世話をした[23]。⇒W。映画ジュリアはリリアンヘルマンの短編を下地にしたフィクション。バネッサレッドグレーブ、ジェーンフォンダ。ハメット役はやっぱりジェイソンロバーツだったのか。顔立ちが似ているだけでハメットの内面が出せない。「ハメット」という映画の主人公役を演じているが全くちんぷんかんプンな映画だった!ま、しかし。その後のバーブラストライサンド、ロバートレッドフォード「追憶」の構成に影響を与えていると思う。?何となくだけど。The Way We Were⇒W邦題が悪すぎる、内容は英文の通り。ストライサンドの主題歌もヒットした。「追想」イングリッドバーグマン、ユルブリンナー。文句なしの名画。ただ原題: Anastasia。題名をよく間違う。
1961年1月10日、ニューヨークの病院で肺癌のため亡くなった。癌と判明してからわずか2カ月後のことだった。2つの世界大戦に従軍した退役軍人として、アーリントン国立墓地に埋葬された。⇒W。反戦主義者の正義と世界戦争従軍が合致するところが少なくともベトナム戦争までのアメリカ的民主主義政治状況。「途上国」への介入から、対中市場分割に局面が変わると、またそういう正義が動員できるかどうか?民主政は歴史的な推移で生まれたもので各国、特殊性があるのが実情。日本はおしゃべりな独裁国家だ!」
引用終了
引用 兵士の報酬論
「つま りこ うした ロス ト・ジ ェネ レーシ ョンの作 品が,ニ ヒ リズ ム,喪 失
感,被 害者意識 な どを通 して,意 識的 にしろ無意識 的 に しろ,時 代 の雰囲
気 を色濃 く反映 してい るのに反 して,r兵 士 の報酬』 は,ド ナル ド・マホ
_ン(DonaldMahon)が 戦争 で顔 と腕 にひ どv・傷 を受 け・ 記憶喪 失のま
ま,生 け る屍 とな って帰還 す る記 述以外 には,時 代 の雰 囲気 を想 わせ るも
のは何 もない のである。 ロス ト・ジ ェネ レーシ ョンに属 す る作家 に とって
は,一 兵 士の負傷 と帰還 とい うテーマは,価 値喪失感 を訴 え,社 会 に対す
る欝憤 をぶちまけ,自 己の存在 をかすかながら正 当化 し得 る点 で,恰 好 な
主題 とな り得 る筈 の ものであ る。 だが フォー クナーは,マ ホー ンの負傷 が
どの ような時代 的要 素に よる結果 なのか,そ してそれは何 を意 味 す る の
か,と い った,時 代 的 な問題 にはまった く興 味 を示 してい ない。彼 の興 味
は,マ ホーンの傷 とい う一事 が彼 の周囲 の人間 に どのよ うな影響 を及 ぼす
のか,とU・ う,い ってみれ ば過去 を喪失 してしまった一個 の人間 が惹 き起
す人間模様 の変化 の上 に専 ら注 がれている。
>だか らマホー ンの傷 は,別 に
戦争 に よるものでな くて も,た とえば交通事故 に よる ものであ った としてs
この作 品の雰 囲気 や主題 は殆ん ど影響 を受けない。 この作品は,そ の程 度
に しか時代 を反 映 してい ない のである。
>彼 が時代 的影響 をそれ ほ ど強烈 に受けない でい られ た か ら であ
る。
(じ っ さ い彼 は,南 北戦 争 で現 実 的 に は 北部 の勢 力 に 屈 しな が ら も,精 神
的 に は遂 に負 戦 を認 め よ う と しな か っ た,誇 り高 い人 物 像 を,や が て 多 く
の作 品 に 描 くの で あ る)。 だ がr兵 士 の 報 酬 』 に 時代 性 の稀 薄 さ を齎 らす
も っ と直 接 的 な原 因 に は,(1)彼 に は じ っ さ い の参 戦 経 験 が な い こ と,
(皿)彼 の発 想 形 式 そ の もの,の 二 つ が あ るで あ ろ う。
彼 は,戦 争 に関係 した経 験 と して は,1918年7月 か ら4ケ 月 後 の休 戦 ま
で,英 国 航 空 隊 の一 員 と して,カ ナ ダ の トロ ン トで訓 練 を受 け た 以外 に は
持 っ て い な い。 背 が低 い た め,米 人 の た め の徴 兵 検 査 に合 格 す る こ とが で
きず,や む な く英 国航 空 隊 に入 った の で あ っ た。 合 格 した連 中 の 多 くが ,
大 学 在 学 中 か卒 業 直 後 の若 さ で ヨー ロ ッパ に送 られ,実 戦 に参 加 せ ぬ ま で
も,実 戦 の間 近 か に身 を置 くこ と で,や が て 「失 わ れ た」(lost)人 間 に変
ら ざ る を得 な か った ので あ るが,フ ォー クナ ー は ,こ れ らの若 者 た ちが 味
あ わ ざ る を得 な か った,頽 廃 とニ ヒ リズ ム と倫 理 的 な混 乱 とで調 合 され た
「ロス ト・ジ ェネ レー シ ョン」 の苦 酒 を,ま った く味 あ うこ とが で きな か っ
た の で あ る。 僅 か4ケ 月 の訓 練 生 活 は,彼 に虚 無 感 や 喪 失感 を抱 か せ る に
は 余 りに も短 か く,ま た第 一 トロ ン トの雰 囲気 は,ヨ ー ロ ッパ の それ とは
か な り違 っ てV・た で あ ろ う。
>で は,こ の作 品の時代性 の稀薄 さを齎 らす第二 の理 由 として
挙 げた,彼 の発想形式 については ど うであろ うか。
フォークナーが後年 は っき りとした形 で僕 たちに見 せた,あ の人間性不
滅 の信念 が,ど の よ うな経 緯の もとに結実 してい ったのか につい ては,既
に他 の機会 に幾 度か触 れた ので,こ こでは繰返 さない。
ここでは ただ,この信念 が,先 ず個 として の人間へ無限 に接近 し,そ こに人間 としてのあ ら
ゆ る可能性 を徹底的 にま さぐ り,確 かめる操作 の中で,
次 にはその可能性が社会 を形成す る他 の人 間同胞 を横 につな ぐ絆 であ ることを確 め る過程 の中で,徐 々に確立 されてい った事実 をいえば足 りる。
つ ま り,彼 はやがて 「ヨクナパ トウフ ァ郡 」 とい う一ケ所 にじっ くり腰を落着 けて,そ こにあ らわに され るあらゆ る問題 を凝 視 しは じめるので あ
るが,そ の凝視 の眼は,常 に個 として の入間の心 の中 に向 け られ てい たので あ る。 ⇒W。ドストエフスキー的難題である。
この ことは,彼 の興味 が,社 会組織や戦争や その他 の時代 的現象 にでは
な く,そ うした現象 の底 に生 き続 け る個 としての人間に向け られていた証
拠 である。 『サ ンクチ ュア リ』以後 では諸 々の社 会悪 を見つ め る 彼 の 目
は,誰 に も劣 らないほ どの鋭 さを増 すのであ るが,彼 はそれ でも,個 とし
ての人 間の力 を通 して しか,そ うした社会悪 を是正 しよ うとはしない・彼
は,あ らゆ る問題 に先が けて,個 としての人間 の心 に深 く沈潜 し,個 として の人間 の救済 によって全人類 の救済 をはかった。
時代や社会 に よって影響 を受 ける部分 でな く⇒W実際に時代や社会に影響を受ける部分と受けてはならない部分の区切りはある!,区切りがなくなれば個人は正面から社会や時代の影響に浸食され人間性を喪失する。
なぜなら時代や社会は人間性そのものではないからだ。抽象された事実、情報、法、強制力、パワーである。小さな共同体も実は人間性そのものを救いとっていない。まず突き詰めた個があり連携した共同体でつながる。繋がれない場合も多い。
>ダシールハメットの生涯は以上の典型であった。それで良しとする!
だから
災難に合う時節に会うがよく候。
死ぬる時節には死ぬがよく候。
是はこれ災難をのがるる妙法にて候。
時代的社会的自然に人間的自然が圧倒された人々が層として排出されるのが、デジタルIT時代であり社会だ!ゆえに単純な精神と肉体の自己防衛本能から、時代や社会への無関心が定在する。
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人 間を人 間た らしめてい る本質的な個の内面へ向 うこと これ こそ,彼 の もっとも自然 な方 向なのであ った。
慣 習や既成 の道徳 規範 を含 むあ らゆ る価値体系 を奪 われ た時代 にあ っては,最 後 の よ りど
ころと して,個 に信頼 を寄せ る以外 にはないのだ,と 。
いかな る作 家 も時代的影響 か ら完全 にのがれ られない存在で ある以上,当 のフォー クナ ーが意識 した か どうかは別 として}.彼 の発想 形式 の形成 に何 らかの時代 的要 素が貢献 した,と 見 るのは当然 であ るか らだ。
だが彼 のどの作 品に も,あ の ロス ト・ジェネ レーシ ョン個有の,被 害者意識 も,時 代 の破壊 的要 素 も,読 者 は読み取 ることが できないのである。
だ とすれば,個 へ の沈潜 は,時 代 的影響 がその傾 向を無意識 的
に強 めてい るであろ う以上 に,フ ォークナー 自身 の生来 の性癖 に よる,と
考 えねばな らないのである。
こ の作品 には主題 が不在 なのであ る。 この主題 の不在 が,根 本的 には,作 者 の側 にまだ明確 な問題意識 がなか ったか らであ るのは,既 に述 べた通 りである。創作衝動 をかきたてず にはおかない ほ ど強烈 な問題意識 を持つ までには つま り本 当に 「生 」 の現 揚 に腰 をす え るまでには フォークナーは,更 に精神 的な彷徨 を続 け,r蚊 』書 き,『 サ ー トリス』 で ヨクナパ トフ ァ郡 まで独力 で辿 りつ かな ければな らなか った。Wは小説群を読んでも理解できなかった。隠者の文学、違うかな?ドストエフスキーの神がいない救いようのない人間模様がバラバラに描きあげられているだけだ。描写、文章は難解だが上質。ヨクナパ トフ ァ郡の群像は「生 」 の現 揚 とは思えなかった。