反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

今昔物語について。概要とキーポイント。江戸中期の国学によって堀起された本朝(日本)仏法部世俗部。看過された天竺部震旦部(仏教本編)と鎖国平安院政時代の作者。今昔物語現代語訳。日本語と日本文化。

今昔物語集 - Wikipedia

    成立

 作者

引用 『今昔物語集』「鈴鹿本」の加速器質量分析法による14C年代測定 

                  小田寛貴1), 中村俊夫2), 古川路明

 W。ウィキは不明としているが、

「『国 風 文 化 』 文 学 の筆 者 の 多 くが 貴 族 層 か ら出 て い る の に対 して, 『今 昔 物 語 集 』 の筆 者 に は, 事 務 系 統 の 僧 侶 (別 当 )~W.寺の事務系長官~ な どが 推 定 され て い る。
. 『今 昔 物 語 集 』 の 作 者 に つ い て は, そ の 条 件 と して,
1. 貴 族 的 ・官 僚 的 社 会 の 中 に, そ の 日常 的 生 活 基 盤 を 持 た な い こ と
2. 実 務 的 な 学 問 を 身 に つ け て い た こ と
3. 仏 教 教 学 は, 常 識 の 範 囲 に と ど ま り深 い哲 理 に達 した もの で は な か っ た こ と
4. 典 籍 類 を 自 由 に読 む こ とが で きた こ と
5. 時 間 的 余 裕 と, 紙 ・墨 。筆 な ど物 質 的 な 余 裕 が あ った こ と
な どが 挙 げ られ て い る。

  年代

 「保元の乱平治の乱治承・寿永の乱など、12世紀半ば以降の年代に生きた人ならば驚天動地の重大事だったはずの歴史的事件を背景とする説話がいっさい収録されていないことから、上限の1120年代からあまり遠くない白河法皇鳥羽法皇による院政期に成立したものと見られている[3]。」

   @「鈴鹿本」の加速器質量分析法による14C年代測定 引用

「巻 二 十 七 第 三 十 七 話 「狐 変 大 植 木 被 射 殺 語 」 の欠文 の研 究 か ら, 『今 昔 物 語 集 』 の成 立 年 代 を保 安 元 年 (1120年 ) か ら天 治 二 年 (1125
年 ) 頃 に 限 定 す る こ とが で き る。」

  構成

 @分析の引用

天竺 。震 員 ・本 朝, 三 国 の 説 話 1000余 りを収 め て い る (な お, 天 竺 。震 旦 。本 朝 と は,現 在 の 国 で み る と, お の お の イ ン ド 。中 国 。日本 に 近 い もの で あ る。

本朝(日本)仏法部

  • 巻第十一 本朝付仏法(日本への仏教渡来、流布史)
  • 巻第十二 本朝付仏法(法会の縁起と功徳)
  • 巻第十三 本朝付仏法(法華経読誦の功徳)
  • 巻第十四 本朝付仏法(法華経の霊験譚)
  • 巻第十五 本朝付仏法(僧侶の往生譚)
  • 巻第十六 本朝付仏法(観世音菩薩の霊験譚)
  • 巻第十七 本朝付仏法(地蔵菩薩の霊験譚)
  • 巻第十八 欠巻
  • 巻第十九 本朝付仏法(俗人の出家往生、奇異譚)
  • 巻第二十 本朝付仏法(天狗、冥界の往還、因果応報)

本朝世俗部

  • 巻第二十一 欠巻
  • 巻第二十二 本朝(藤原氏の列伝)
  • 巻第二十三 本朝(強力譚)
  • 巻第二十四 本朝付世俗(芸能譚)
  • 巻第二十五 本朝付世俗(合戦、武勇譚
  • 巻第二十六 本朝付宿報(宿報譚)
  • 巻第二十七 本朝付霊鬼(変化、怪異譚)
  • 巻第二十八 本朝付世俗(滑稽譚)
  • 巻第二十九 本朝付悪行(盗賊譚、動物譚)
  • 巻第三十 本朝付雑事(歌物語、恋愛譚)
  • 巻第三十一 本朝付雑事(奇異、怪異譚の追加拾遺)

  天 保 二 年 五 月 伴 信 友 W。本居宣長の弟子の国学者

今 昔 物 語 集 欠 巻 以 或 所 秘 蔵 校 本 課 人 令 書 写 他 日以 二 本 及 印
本 校 之 天 竺 部 震 旦 部 共 不 足 読 故 借 不 写 実

@引用 W.満州民族清による漢民族明王朝打倒によって江戸中期の華夷逆転の時代認識が本居らの国学形成に受け継がれ、日本の素の文化、文芸(古事記日本書紀などの古典~平安中期から平清盛までは、江戸時代の海禁策以上の鎖国状態~~の掘り起こしが始まった。この流れの中で今昔物語、本朝部(日本仏法、世俗部)が注目された。 

「こ れ よ り, 明 らか に信 友 は 天 竺 震 旦 の 部 に 本 朝 の 部 よ り も低 い評 価 を 下 して い る こ とが わ か る. 世 間 に 広 く流 布 しな か っ た 。←wacwacであれば当時のヒトの仏教観を知る上でも、天 竺 。震 旦 は注目に値する!『今 昔 物 語 集 』 が, 江 戸 時 代 に入 って 信 友 ら国学 者 の 注 目 を 浴 び る に い た る が, そ れ は主 に本 朝 の 部 で あ った よ う で あ る。
. この 観 点か らみ る と, 巻 九 (震 旦, 因 果 応 報 ), 巻 五 (天 竺, 因 果 応 報 ), 巻 七 (震 員, 経 典 )が, 江 戸 時 代 に修 補 され な か った こ と に 合 点 が ゆ く.

 天竺部

巻第一から巻第四までは仏教説話。巻第五は非仏教説話や釈迦の前世譚を含む。

  • 巻第一 天竺(釈迦降誕と神話化された生涯)
  • 巻第二 天竺(釈迦を説いた説法)
  • 巻第三 天竺(釈迦の衆生教化と入滅)
  • 巻第四 天竺付仏後(釈迦入滅後の仏弟子の活動)
  • 巻第五 天竺付仏前(釈迦の本生譚・過去世に関わる説話)

震旦部[編集]

巻第六から巻第九までが仏教説話。

  • 巻第六 震旦付仏法(中国への仏教渡来、流布史)
  • 巻第七 震旦付仏法(大般若経法華経の功徳、霊験譚)
  • 巻第八 欠巻
  • 巻第九 震旦付孝養(孝子譚)
  • 巻第十 震旦付国史(中国の史書、小説に見られる奇異譚)

W.面白そうじゃないか!仏教理論に拘泥せず概略を述べているものと想像するのでなおのこと当時のリアルな仏教観が解る。讃岐、多度津郡の源太夫阿弥陀菩薩を求めて真っすぐ西に向かって、水平線に沈む夕日が見える山上の大木の股にまたがって海のかなたから阿弥陀様の「お~い、お~い」呼ぶ声を聴きながら成仏した。だったら、その本願の向かった先が問題で避けて通ることはできない。今昔物語の作者はそこをきちんと書いた。江戸中期から始まった国学はその始原で仏の原理原則をスルーしもっぱらイデオロギーとしての鎖国学問に拘った。日本主義は論理、原理原則に乏しく片手落ちだから、その部分を他の本物に埋め合わせてもらうしかない。その支えが上手く機能しているうちはいいが、取っ払われると、暴走を開始する。
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『今 昔 物 語 集 』 の 採 用 して い る説 話 の 配 列 は, 連 鎖 的 説 話 展 開 法 (「二話一類様式」と よ ば れ る もの であ る.

連 鎖 的 説 話 展 開 法 と は, 各 巻 の 第 一 話 か ら巻 末 話 ま で 二 話 ず つ 内 容 の 類 似 したも の を 並 べ, か つ, 次 の 二 話 との 間 に も何 らか の 関 連 を もた せ る と い う配 列 方 式 で ある。」

>@「一 世 代 前 の 「国風文化 - Wikipedia

が, 貴 族 層 の み を 対 象 と して い る のに 対 して, 『今 昔 物 語 集 』 の 対 象 は, 広 範 囲 の 身 分 ・階 層 に わ た っ て い る。」

W注 国風文化

特色

内裏では調度を整えるにあたり、公式な場やハレの場では漢詩や唐絵の掛軸などで唐風に誂えたが、私的な場、の場では和風に誂えるという使い分けをした。」

遣唐使の停止

W.いろいろ解説しているが、要は古代から中世への過渡期の停滞的天皇貴族ヒエラルキー支配にとって、中国の先進文物や権威は不必要だった。平清盛の台頭の物的基礎は海上交易である

「以前は寛平6年(894年)の遣唐使停止により中国の直接的影響を抜け出し、日本独自の文化が発展したと一般的に解釈されてきた。

しかし、遣唐使は、9世紀には頻度が減り、仁明天皇の治世に相当する、承和年間(834年~848年)の派遣が最後となった。その一方で、9世紀には、中国からの海商が多数渡航するようになったため、遣唐使をわざわざ派遣しなくても、中国の文物を多く入手できるようになった。

そのため、遣唐使停止を国風文化の画期とすることは誤りである。そもそも、唐風の文化を踏まえながらも日本の風土や生活感情である「国風(くにぶり)」を重視する傾向は奈良時代から進行していた。すなわち、遣唐使停止は日本文化の国風化を加速させる要因であったとみることが適当である。」

浄土教の流行

日本仏教では、末法思想を背景に浄土教(浄土信仰)が流行した。阿弥陀仏極楽浄土往生成仏することを説く教え。阿弥陀仏の本願に基づいて、観仏念仏によってその浄土往生しようと願う教え。

阿弥陀信仰」とは、阿弥陀仏を対象とする信仰のことで、「浄土信仰」とも言われる。

日本では浄土教の流行にともない、それぞれの宗旨・宗派の教義を超越、包括した民間信仰的思想も「阿弥陀信仰」に含めることもある。また阿弥陀仏は多くの仏教宗派で信仰され、「阿弥陀信仰」はひとつの経典に制限されない懐の広さを持つ。

西方信仰

阿弥陀仏の浄土は西方に在するとされるが、日の沈む(休む)西方に極楽(出典まま)があるとする信仰の起源はシュメール文明にあり、ほかの古代文明にもみられるとされる[4][要検証]極楽にたどりつくまでに"夜見の国"などを通過しなければならないという一定の共通性もみられるとされる

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W。なかなか示唆に富む見解です。

「日本の歴史というのは、開国と鎖国の繰り返しというのが持論。」

blog.doyoulikewashi.com

引用

明治維新は、文明開化、日本が西洋列強に負けないようにと開国に進む。

しかし、昭和初期の第二次大戦で負けるまで、外国は敵。

 

昭和20年に敗戦を迎えて、マッカーサーと共に、一気に開国せざるをえなかった。

そして、そのまま、日本が国際社会の大切な一員として努力をしたが、

どっこい、そうはさせないという尊王攘夷思想は、日本に残ってしまった。

1990年のバブル崩壊とともに、日本は、内向きに向かった。

そして、政治の主流を占めている勢力は、憲法改正を訴える。

日本人は、憲法を自分で作るべきだという。

 

さて、日本の鎖国の時代というのは、基本的に、戦争の時代。

海外に戦争をしかけた時代もあれば、国内での戦国時代。

唯一、江戸時代の鎖国は違って見えるが、国内に吹き荒れたのは農民への圧政。

今の、北朝鮮将軍様より酷かったのではないだろうか。

 

一方、開国の時代というのは、明るさが満ちている。

仏典を取り入れて、民を幸福にしようとした遣隋使、遣唐使

貴族政治に風穴を開けた平清盛

安土桃山は、ヨーロッパの科学、文明が雪崩をうって日本に入った時代だった。

それと同じことが明治維新、太平洋戦争敗戦後の日本だった。

 

さて、今、この現代はどちらなのだろう。

私たちは、開国の中にいるのか、鎖国の始まりにいるのか?

日本人の留学生は減少一途。英語力は、北朝鮮並み。

一方、海外から日本を訪れた人は3000万人に迫っている。」

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wacwac 参考資料①

じっくりと読んで、自分なりの発見をしたい。

hon-yak.net

W参考資料②幅広い膨大な研究的記事の中に今昔物語集がある。

日本語と日本文化

紹介

日本語の成り立ちと現在についての考察を中心にして、広く日本文化に拘ったサイトです。日本文化に拘ったついでに、日本史や日本の政治についても発言します。これらの発言をきっかけにして、日本あるいは日本人とは何か、ということについて、なんらかの言論空間を提供できれば幸いと考えています。」

ちなみに、「日本史や日本の政治についても発言します」とされているので

  

日本とドイツ:戦後を比較する

を開いてみた。

それに比べれば日本は、たとえば北方領土をいまだに外国に占領されているということはあるが、基本的には失ったものはあまりないといってよい。すくなくともドイツに比べれば、まったく比較にならないほど、軽微な傷ですんでいる。また、敗戦前の政治体制にしても、全体主義という言葉でくくれるほど、共通点ばかりが目立つものだったと純化できるものでもない。ドイツはヒトラーによる独裁という形をとり、その点では、よかれあしかれ、責任体制が明確だったが、日本の場合には、一応天皇制という形をとってはいたものの、実質は軍部独裁であり、その軍部にあまり責任能力がなかったことはよく指摘されるところである要するにドイツの場合には、一応統治能力のあるものが責任政治をそれなりに行っていたのに対して、日本の場合には、統治能力に欠けたものがかなり無責任な政治を行っていたという相違が指摘される。」

 

筆者は、日独両国の戦後を比較することを通じて、その共通性と相違点とを浮かび上がらせ、何がそういったものを生み出したのかについて、ささやかな考察を加えたいと思う。そのことを通じて、日本の望ましい未来のあり方について、いささかなりとも有益なヒントが得られるのではないかと思うのである。」

     歴史認識ドイツと日本

この方の記事をざっと読ませてもらった。掘り下げ方がWとは違うようだ。もちろんWのほうが特殊。自分のような視点は1度か2度くらいしかお目にかかったことがないが意見には自信を持っている。韓国の市民革命がわかれば日韓条約から開発独裁の時代とその後の韓国の辿ったあゆみ、と変転が、位置づけられる。

韓国を理解するために韓国の高校歴史教科書を読了した。通史と近現代史に分かれている。通史は微に入り細に入り分厚い本で非常に難しい。近現代史は違った見方を討論させる演習が必ずついている。自分の覚えている高校の歴史教科書(面白くない、何かが欠けていると思っていた)、ポイントは侵略され支配された事実を書くことは避けて通れないということである。それは日本が戦争に負けたアメリカについて書いたり思ったりするのとは次元が違う。

また大戦終了以降の朝鮮戦争の現実がある。

いうところの歴史認識に精神論を入れてはだめだと思う。