反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

第4回、吉本隆明「良寛」。@現世的な悩みを生死からの脱化の流れに注ぎ入れて、肉体の修練を契機に、 @いわば自分を人間でもない動物でもない、植物でもない、もっと極端に言えば無機物だというところにもたらしてしまえば、生死もへちまもないんだ、⇒W。選民意識の一形態違うかな?人間にとって最も足枷になる生死への拘りがなくなった者は、反面で何をしてもいい、ということにならないか。

W。本文引用は必要の限り、アトランダムとする。

    1思想詩

良寛漢詩を読みますと禅の思想が仏教の中で一番根本的なものであり、禅の思想の中でも一番根本的なものは道元*1が開いた曹洞宗~W注2~なのだと述べています。」

 <ここからしばらく仏教以前のインド思想と仏教の関係、老荘思想について書き長柄概略をつかむことにした。今まで全く興味のなかった世界なので押さえておきたい>

 仏教以前のインド思想には一つの霊魂観があります(バラモン~W注3~やヨーガの生命観)。

引用

「人間は形ある肉体を持っているが、その中には精神という目に見えないものが宿っている。これは霊肉2元論ではなく、

@目に見えるこのを微細にしていくと、目に見えないものになる。

>それが霊魂であり、精神というものだという考え方。~

それが形ある肉体の中に宿り、形ある肉体は失われるが、目に見えない霊魂はそこから出て他のものに宿るという考え方です。⇒そのようにして生命は永続する。人間は自覚できる物質です!それ以上でも以下でもない!反俗日記のタイトルバック

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 確かに宇宙の全体像は把握できていない,のと同じく

「わたし」をどんどん分解すると何になるかも未だに解明できていない。W。~注4~

 また、それでも人類史は地球は回っているといった、ガリレオガリレイの真理と無関係のところで生きてきた人間が圧倒的多数だった。科学の恩恵を受けなくても人間は生きてきた。コレが人類史そのものと言って良い。

今の世界で原理論的視点が大切。吉本「良寛」に原理論を見いだせるかどうかに集中している。

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老子荘子のようなインドに近いところ、つまり南中国の思想は、原始的なインド思想に似ています(南船老荘思想道教北馬儒教。W。注5~日本における道教研究の第一人者の動画を視聴したが、儒教のメダルの裏側で基本的な思考パターンはよく似ている、と感じた。思想としてはまとまっているがそこから先に開けていかない本質がある。ハーバード大学の人気東洋学講座で教えてる荘子のネット記事は酷いものだった。それって単純な経験論、処世術じゃないかな。あとで載せていく。

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ただ老子荘子には肉体的な修練によって天地と合一したり、永続的な生命に合一したりする考え方はありません。

>仏教、あるいは仏教以前に流れているインド思想には、

>肉体的な修練を加えることで天地と合一し、目に見えない自然の精髄に融合できるという考え方があります。

>そうして天地と融合したときに脱化して「無」というものに到達することができる。

老子荘子には肉体を痛めつける方法がないのです。

??肉体的な修練によって無機的な自然に自分を持っていけたら、生も死もなく喜怒哀楽もないように、⇒W。そもそものコンセプトが間違っている。自然は生きている!人間的物質と自然的物質には大きな差異はあるが。宇宙史があり地球史があって~人類史がある。現生人類が地球史に合一することなど初めから不可能!おこがましい!

禅宗ヒエラルキーから離脱した良寛の生き方は、理にかなった人間的な生き方である。ただし、彼の詩文の才や江戸時代の仏教ヒエラルキー、越後の共同体の包摂を取り除くと、孤絶、無告、良寛の生き方を貫くと野垂れ死になる。それを良寛の資質でやれるかどうかの見極め、そこに真なるものがあるかどうか、が現代的な課題だ。

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「生死から脱化することができる」W。なぜ生死から<脱化したい>のか。我執から脱却する必要がある、ということ。

>仏教がやったことは愛欲とか喜怒哀楽とか、貧困とか、生まれながら自分と世界が決定されてしまうカースト制度の差別とか言った現世的な悩みから脱化していく道を、この流れの中に導入したことです。

そうすることで死んだ、生きた、病気した、それから愛した、愛さなかったとか、貧しくて困ったということから脱却することができるということです。

@座禅による肉体的修練の方法こそが、釈迦が導入した脱化の概念を一番よく伝えているものだというのが道元の根本思想です。

@現世的な悩みを生死からの脱化の流れに注ぎ入れて、肉体の修練を契機に、

@いわば自分を人間でもない動物でもない、植物でもないもっと極端に言えば無機物だというところにもたらししまえば、生死もへちまもないんだ⇒W。選民意識の一形態違うかな?人間にとって最も足枷になる生死への拘りがなくなった者は、反面で何をしてもいい、ということにならないか。事実そうであった自然の時間が永らえていくように人間も永らえていくことができるということになる。⇒W。ある種の観念論は凡庸な唯物論よりも遥かに人を動かす強力なモチベーションになる場合がある。

~~

自分を無機的自然に融合させたときに、天地自然が明るい光明として映るか映らないかが問題なんだと道元は述べています。

@W結論。ここでいう無機物の自然とは、座禅修行の果てに頭に去来する始原的固定的抽象観念的自然である。ある環境をとっぱらわれると妄想は持続できない。禅的修行には現実との接点の問題に付きまとわれる。

                 時間不足終了

*2

道元の『正法眼藏』の思想的特の鎌倉行
                                              著者 フレデリック ジラール  発行年 2019-12 

 序 W。道元の思想成熟のリアルな場を思い浮かべることが大切。調べた資料には意外にこの視点が抜け落ちているが異国人研究者は当たり前にこの視点から道元に接近しようとしている。つまり当時の世相の中で生きた先進的な人間として道元(公家出身)は鎌倉に行って源実朝に接し(鴨長明の鎌倉行、歌人で将軍であった実朝は文人の注目の的)、中国に渡った。

  引用

「ここで道元の鎌倉体験の意味を考えてみると、それを出家の問題に絞れ
ば、今までの「世俗的で家業的職業としての出家」という一般の認識に抗
して、隠遁に徹し、世俗社会を離れた出家になるべきだと勧めたと考える
ことができる。北条家の内紛に心を痛めていた道元は、本格的な仏教者と
しての不可欠の条件を、殺生という罪を犯してはならないという点に求め、
そのことを説法せざるを得なかったであろう。道元の周辺で不殺生戒を守
り続けていたのは源実朝(1192-1219)のみであったため、第三代将軍を

理想的な在家、すなわち、理想的な転法輪者と見なすということは、中国
へ渡る前から永平寺建立以降まで一貫するものだったと考えられる。その
ことを意識しながら議論を進めてゆこう。

   2 .禅宗

「三界唯心」

@世界の事物を看破しているのは、自分の中の仏性の作用であると考える

即ち、我が心こそが仏であるとする「①即心即仏」の思想と、見聞覚知の働き仏性そのものだとする「②作用即性」の思想に集約されている。それに伴って、花、竹、松風等の自然現象を感じる時に、自分の中の仏性を自覚することになり悟道の体験へと繋がることになる。⇒W吉本隆明良寛」は良寛の思想の根本にあった、と指摘したにもかかわらず道元思想の原理を明示していない。@、①②。哲学的というよりも民衆啓蒙の視座である。しかし、実存主義的な視点ではあるが、モノは自分の絶対的な外部にあるとするWには疑問はある。客体の主体化、主体の客体化のダイナミズムはわかるが、それらには限界があるし、堂々巡りに陥る。他人や世の中には自分の認識や力ではどうしようもない事態の進行状況があまりにも多すぎる。その見極めは道元思想の原理では世俗的にできない。

 

 

「法無自性。三界唯心。経云。「森羅及万像。一法之所印」。凡所見色。皆是
見心。心不自心。因色故心。色不自色。因心故色。故経云。「見色即是見心」。」

 

「全ての事物には普遍の実体はなく、世界内の存在はただ心のみであるから、
経典ではあらゆる存在と現象は心の現出したものだという人に見えるものは、皆な心の現出として見えるのである。心はそれ自体として心なのではなく、物に対してはじめて心なのだし、物もそれ自体で物なのではなく、心を待ってはじめて物なのである。両者は相依相対関係にあるので、経典には物が見えると心が見えるという⇒W。コレが通用する世界は限られている具体的な場と事象を設定すれば自ずとはっきりする。

 臨済義玄(?-866)は「三界唯心」の思想を受け入れて、それを「自分の外側ではなく、自分の内側に見よ」という思想にまで発展させた。しっかりと自分を捉え、自分を信頼せよと言うことは、真面目である真人を外にではなく、無相なる仏法を自分の内に見ることこそが「三界唯心」の意味だと言う

道元は「一心一切法一切法一心」とも言っているが、これも「三界唯一心。心外無別法」と同じ意味である。仏と衆生と心が一つであり、全宇宙の真理であり、三者は無差別である

~~

ただし、道元にとって「心」とは、実体性のないものであることは忘れてはならない。

道元においても、自分が真実の仏法を求めるため、命がけで大陸まで行き、無
事に帰国できたのは、この『般若心経』のお陰なのである。このような考
えを持っていた道元の表象の中では、種々の点で玄奘三蔵の存在が大きな
位置を占めていたようである5。

 

 Ⅱ.『正法眼蔵

、菩提や仏性を月に見立てるテーマ等を
考慮に入れると、興聖寺時代に道元の檀越であった九条教家(1194-1255)
鴨長明(1155-1216)の発想に基づく禅寂作(W.日野家の公家)の「月講式」(W、反俗日記、鴨長明を参照。長明が墓前に供えるように所望したが、没後墓前に完成したものを捧げた。長明は戦乱続く世で月だけが変わらぬものに見立て異例の賛歌を所望した)を、いつ、どうして、どのように講演したかということが問題となる。道元がそれを知っていたかどうかは明らかでないが、月を菩提の喩えとする「月講式」を意識した上で、月を比喩とすることを否定する『正法眼蔵』の「都機」の巻を書いたということは十分にあり得るであろう。そう考えると、今後、離れようとする京都の貴族である九条教家に対して、彼の考えにそぐわない内容の「都機」の巻を書き、これから支持を得ようとする幕府側で理想的政治家とされていた源実朝に忠誠を誓う武士である波多野義重に対して、同様の意味を含む「全機」の巻を説いたと見ることはできないであろうか。⇒W。生臭い話である。しかし、

中国に渡った一流宗教家のパトロン獲得作戦は実朝暗殺でとん挫した。このような道元良寛の距離は遠すぎる。

~~

薪は不可逆的に灰になり、人間は子どもから大人、老人を経て屍になる。それをその場その場、その瞬間その瞬間の法位と見る道元は、時間を否定しないで、その時間の次元で生きようとする。そこでの時間分析において、道元は、の瞬間と後の瞬間が断絶していて「爾今の這裏」に帰するという見方を説いている。、静寂な姿勢で消極的にその流れに乗れば、どの瞬間も充実して生きることができると主張している。

  結 論

正法眼蔵』の各巻を翻訳する機会を生かして、道元の思想を研究しつつ、。特に
道元の思想の一貫性という問題に注目して、鎌倉行化の意味を考えており、本稿では特に、道元が実朝を「転輪聖王」として理想化していた可能性を中心に考えてみた。 道元は、自身、大変なインテリではあったが、鎌倉幕府や宮廷の中国政策に応える形で、その枠組みの中で活動したかのようにも見える。

源実朝 - Wikipedia

渡宋計画

11月24日、前世の居所と信じる宋の医王山を拝す為に渡宋を思い立ち、陳和卿に唐船の建造を命じる。義時と広元は頻りにそれを諌めたが、実朝は許容しなかった。建保5年(1217年)4月17日、完成した唐船を由比ヶ浜から海に向って曳かせるが、船は浮かばずそのまま砂浜に朽ち損じた。なお宋への関心からか、実朝は宋の能仁寺より仏舎利を請来しており、円覚寺舎利殿に祀られている。また渡宋を命じられた葛山景倫は後に実朝の為に興国寺を建立したという。」

*1:W注1

*2:W注1