東洋においては,孔子にしろ,老子にしろ,釈迦にしろ,その思想は「科学」ではなく,「教説」であった.理論ではなく,教えであった.知識的・理論的関心よりも,行為的・実践的関心の方がより顕著
ギリシアにおいては,
「汝自身を知れ」(γνῶθι σεαυτόν)を思索のモットーとしたソクラテスのような人物を除いては,
哲学者の思索はもっぱら外なる自然へと向かった。
一方,東洋においては,賢者の思索はひたすら内なる心界へと沈潜したといえるだろう.
W。良寛を総括。近代の文学者の良寛人生行路に対する脚色と詩文の才がなければただの禅宗ヒエラルキーからの離脱したあまたの阿羅漢僧の一人にすぎない。
「良寛は師である円通寺の大忍国仙(4歳にして孤児、寺小僧として禅宗ヒエラルキーの下にあった。)師の死後、円通寺を離れ、再度諸国を彷徨した良寛は吉本の言う性格悲劇も手伝って禅宗ヒエラルキーからの離脱=阿羅漢に徹するよりなかった(詩歌、書の才を除けば一個人としての自分の分を守って自分の生きたいように生きた人だった)
当時、阿羅漢僧はたくさんいた、とおもえるが良寛の生きざまを近代以降の文学者、
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良寛を最初に徹底的に世に問うたのはこの人。
「早稲田大学校歌「都の西北」をはじめとした多くの校歌や、「春よ来い」などの童謡の作詞者としても知られる」
>「野口雨情・三木露風らとともに「早稲田詩社」を設立し、口語自由詩運動を進めた。」W。上記の線で良寛の素朴、朴訥ぶりを世に出したのだろう。のちの良寛像に大きな影響力を与えた。そういう世界は日本人の琴線(涙腺)に触れる。
『大愚良寛』春陽堂、1918年5月。NDLJP:959199。
『一茶と良寛と芭蕉』春秋社、1925年11月。NDLJP:925209
『貞心と千代と蓮月』春秋社、1930年2月。
『良寛と貞心 貞心尼全集』六芸社、1938年7月。
https://www.keiwa-c.ac.jp/wp-content/uploads/2012/12/kiyo20-4.pdf
引用。W以下の良寛像を肯定しているわけではなく重要な参考資料としてあげる
「良寛の思想と芸術が日本人の心に強くひびいてくるのはなぜであろうか。W江戸時代、住民の85%は百姓だった。その心根を野にあった良寛、一茶が表現している。
川端康成によれば、日本古来の心情←W?を、日本の真髄を表している、ということになるであろう。
康成は良寛を「老い衰えて、死の近いのを知った、そして心がさとりに
澄み渡っていた、この詩僧の『末期の眼』には、辞世にある雪国の自然が
なお美しく映ったであらうと思います。」と推測している。死を間近に意
識した人の眼に映る風景は、なぜこうも光に輝いているのか。⇒W白内障のような眼病を患っている情けなさを、詩に託している。
唐木順三(W.京都学派)の
言葉を再び援用すれば、「良寛は、日本人の中の日本人」であった。示寂
をまじかにして、良寛の魂はいっそう純化し、日本人の中に脈々として継
承されてきた美意識が、今わのきわに、一段と強い光芒を放ったのではな
かろうか。⇒W。漢詩の作法を踏襲した詩作が多い。
良寛は臨終近くなったとき、最期まで看病し、身のまわりの世話をして
くれた貞心尼に対して、己の気持ちを「裏を見せおもてを見せて散るもみぢ」という句にたくして語った。
水上勉。
「この世に何の所有もなく、心に是非もなかった人が死ぬけしきは、な
るほどもみじの葉がうらおもてを見せながら地面に落ちるのに似ていたろ
う。生にも死にも垣根のない場所にいたのだから、辞世とつたえられる歌
も、誰かがよんだのを、時に借用したまでのことであった。」
「うらを見せおもてを見せて散るもみじ」は美濃の俳人、谷木因(タニ ボクイン)の「裏ちりつ表を散つ紅葉哉」に拠って良寛がつぶやいた句を貞心尼(テイシンニ)が「蓮の露」に記したものである。
康成自身にも『末期の眼』(1933)というエッセーがある。芥川の死の直前の文章などに関わっていることで、昭和史のもっとも危機感にあふれた時代に書かれたものである。「あらゆる藝術の極意は、この『末期の眼』であろう」という一行によって、文学者の業ご うに触れた随想であることが理解できる。良寛にも日本の自然美を追求してやまない業に似た心情があった、と康成はいいたいのであろう。彼は、そのあまりにも日本的な良寛の核心を見事に描写したのである。
末期の眼が芸術の極意である、と云われると、
わかったような気がするが、結局はわからない、と論述している(W率直)。三島は
良寛の歌のような平淡極まる歌には、興味を示さなかった。
ドナルド・キーン氏は
良寛は、真情の歌人としてひろく知られている、としながら
も良寛歌は、真情より小ぎれいのほうが目立っている。それに加えて万葉
調が勝ちすぎている、と批判的である
**
に際立たせたのは詩文の才であった(存命中、良寛の書は江戸でで認知されていた。書の認知は添えられている詩文を含めての認知)良寛の人生の軌跡は後世の者の思い入れ過剰による脚色が多すぎる。良寛の日常は道元禅の阿羅漢僧としての規範と荘子の天に心身をゆだねる思想のバランスを維持しようと心がけていた。その日常は吉本流に言えば
緊張と弛緩の自律性にあった。
しかしそのような良寛的自立日常生活は反俗日記の冷めた視線では江戸時代の人別帖寺請負制という今では想像のつかない檀家制度に支えられていた(もちろん五合庵に檀家はいないがムラからの援助の慣習は歴然)。五合庵の名称は一日5合の禄が五合庵開祖の僧には与えられていたというところからくる名称であった。五合庵「に居住するようになった良寛に5合米が与えられていたかどうかは定かではないが、阿羅漢僧、良寛が托鉢の乞食で命を再生産していたとはとてもあえない。
僧侶
常不軽菩薩
W。とりあえず、お辞儀、頭を下げておけば、腰を低くしておけば、窮地に落ちいった時の反発が回避しやすい。日和見主義。慇懃無礼。
法華経のこの 常不軽菩薩
というのはどこに行っても誰にでも、ただ礼拝ばかりをしている菩薩です。
いつも人を軽んじない菩薩なので常不軽と呼ばれていました。
その常~~菩薩が語るには、
>人間は誰でも菩薩あるいは仏になれる存在だから(W.鎌倉新仏教の特徴は道元のいう<行仏>、~~顕密「体制」を刷新するという新仏教の特性は、学問、世界観仏教からポピュリズム仏教による大衆獲得~~しかし、その誰でも菩薩、仏可能はヒエラルキーの承認が必要である。今も昔も新興宗教のやり方。存在それ自体が菩薩、である人はいなかったのか、いないのか)観念である。
W。覚醒願望の強い大衆にとって誰でも菩薩、仏可能は強力なモチベーションになる。
ただし、当該ヒエラルキーの中で精進すれば。ということで、離脱すれば精神的無一者。良寛は阿羅漢を実行しているつもりでも、ヒエラルキー側から見ると脱落者。どうぞ好き勝手にやって頂戴、程度の人。じじつ、師の国仙和尚を引き合いに出しまでもなく良寛は仏道を極めた人とは思われない。
座禅を組まない飯炊き僧への良寛の敬意は、4歳孤児、寺小僧から始めた師を見習えば当然のことであり、ことさら取り上げるkとでもない。
<愛語>常不軽菩薩の言葉の実践であり取り立てて言うほどのことではない。
<勧受食文>
「仏教の修業は夏は涼しく、冬は暖かくして、薬のように最小限ではあるけれど穀物を食べ。そして爪を切り、は歯磨き、さっぱりして行うものだというのは、道元禅の最も重要な思想の一つでした。」
>「良寛が理念とした道元禅では、農耕民や村落共同体のために、橋を作ったり、川をぼって土木や感慨を起こしたりして奉仕するという概念は全く存在しません」
「ひたすら座禅したり、山河の音に耳を傾けたり、この葉の落ちる響きを聞き分けたりする状態に<仏を体現>することが大切という理念です。
>そのこと自体が仏で、それ以外に仏の状態は何も認めませんから、別に農耕民のために川を掘ったり橋をかけたりする奉仕はいらないのです。
W、であれば)
なぜ僧侶は穀物を乞うてまでして食べ、生きなければならないのか。
この問いは僧にとって根本的な問いになります。
W。葬式仏教を最初に定式化したのは禅宗曹洞宗であった。この辺に解がある。
檀家制度人別帖登録の個人死とのトレードオフか?抜け目がない!
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「僧としての良寛の生活の特質が一番よく滲み出たいい作品は、つぎの詩ではないかと思います」W良寛は人間味あふれるいとおしい人だ。PC入力に手間取る感じが多すぎる。時間の無駄。吉本訳を引用する。光景が目に浮かぶようだ。良寛の心もわかるような気がする。
青陽二月の初
青みを帯びた日差しがやや新鮮に映えている。
早春の日に、こういう時は托鉢の鉢をもって得々と街へ出て遊行しよう。
そうすると子供たちがたちまち自分を見つけて喜び、一緒に誘い合わせてやってきた。
彼らはお寺の門前で待っていて、自分の手を取って、ゆっくりと歩いていく。
托鉢の鉢を白石の上に置き、かけていたずたぶくろを緑の木の枝にかけて、子供たちと毬をうって遊んだ。
自分が打つとこともたちがうたい、自分がうたうと子供たちが毬をうった。
それで時のうつるのを知らずに遊んでいた。
通りかかる人は、なんであんなことをしているのだろう、と自分を見て笑った。
自分は、ただ首をうなだれて何も答えない。
かりに答えられたとしても、なんといっていいかわからない。
ただ自分の気持ちを知ろうとしてくれるなら、もともとこれだけなんだ、これだけなんだということにしよう。
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「余力があればそれこそ村民にすすめて<行仏>を一緒にしたかったのかもしれません。
その意味では子供たちと一緒に遊ぶほかすることがない良寛は、深い座礁の影を宿している、といってもよいのでしょう。
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「こういう自然を規範とする見方が良寛に全くなかったら、(W。世を捨てた人間、隠遁僧として)大変侘しい、また厳しい自然の中での生活でありますし、また病弱でもあったわけですし、人に接することも少なくて、孤独にも耐えねばならないし、~たとえ良寛ほどの修行者でも生涯の隠遁生活を貫くことができなかったのかもしれません。」⇒W。老いによる日常生活動作の困難、と病は隠遁生活の障害になり、この時初めて「侘しい、人に接することも少なくい、孤独」を意識するが、それさえ気にならなければ、性格悲劇を抱える隠者願望の者にとって、問題にならない。
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4自然の中の宗教
<自然との差異の消去>
「良寛の「宗教」の問題は一般的に仏教の問題でもありました。
>一言でいえば自分の存在と自然というものの差異や区別、あるいは対立をどこまで消去するかに帰せられます。
>自分と自然との差異を全部消してしまうことは、特に禅における直接の目的、直接の教義だと思います。
直接全く消してしまえば、理想状態なのですが、
多分この差異の消去は、外在的に実現する前に内在を融化し流動さもある曲線を捕まえて流れさせることにより、実現されるものだと思います。⇒W、不理解項目
>仏教の理念は究極的には自然と人間存在との差異を消してしまうことに行き着きます
@そこにどうやって到達するかが、それぞれの宗派の教義が分かれ、またそうとしての生き方が違ってくるところでしょう。
禅僧から隠遁僧の道をたどった良寛にとってもまた、どうやって自分の存在と自然との差異を他者にわからないほどの微動する選に従って消してしまうか、あるいは同化してしまうかということが生き方のモチーフであり、そこに宗教性のよりどころを探していったと思います。
W。地域の創価学会の幹部の解釈を聞く機会があった。
の経典に沿っての説明だったと解釈したが、吉本流仏教要約、特に禅宗解釈とはかなりかけ離れているように感じた。禅宗には強い違和を表明していた。違いは引用文で明らかになっている。
「大乗仏教の代表的な経典。大乗仏教の初期に成立した経典であり、誰もが平等に成仏できるという仏教思想(W.ココ強調は同じ、鎌倉新仏教の特徴=理論的構成を持った大乗仏教の大衆化、顕密ではそういう思想はない。)が説かれている。
引用
「概説
法華経が編纂された当時、特別な修行を経た出家者のみが救済されるという考えが部派仏教の主流をなしていたが、これに対し、法華経は、小乗・大乗の対立を乗り越えつつ、全ての人間が一乗(菩薩乗)を通じて平等に救済されるという仏教思想を強調した内容と理解される。
地涌の菩薩たる仏教信者にとって弘通(布教)を重要な役割と位置づけ、直面するであろう法難(反対勢力からの弾圧)への心構えも説くなど、一切の衆生を救うために法華経の教えを広めていく観点を重視している点にも特色がある」
W。この項目の以降の記述は省略。早急には理解できない。
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吉本「良寛」引用。禅の修練(座禅)の極致を言葉で表すと
「人間の状態からだんだん動物の状態みたいなところにいき、
動物にもまだ意識もあれば感情もある。
それでどんどん意識の状態をもっと違うように持って行って、
何か植物の状態みたいなのにだんだん気持ちを似せていって
それでもまだ生臭いといいいますかまだ生きている。
もっと意識の状態をもっていくと
岩とか石とか、風とか、水とかの無機物の状態まで持っていけるみたいになった時、
それで大自然との差異が消去されたという比喩が成立するのではないでしょうか。
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吉本
水上さんの『蓑笠の人』が農民弥三郎との比較の中で、良寛はどうやって食べていたのだろうか、こんな食べ方、こんな僧侶の在り方は少し批判の余地があるのではないか、とも言われているわけなのですが、
僕は考えてみるとお百姓さんは坊主になっちゃいかんという御法度のようなものがあり良寛は名主階級でご法度から自由で、坊主になりたければなれたのは、ご指摘のように特権てきであったでしょうが
吉本
日本の文芸、特に詩歌のひとたちをみてきますと、
宮廷の文化の共同体の中にあるか、
それとも隠者世捨て人の中に日本の詩があるか、どちらかだと思います。
すると西行もそうですが、世捨て人というところで詩人であった人たちというのを考えてみますと
>コレは消極的な意味での世捨て人、現世にかかわらない人とと考えてみると、これは一面的な見方であって違うような気がします。
>この世捨て人、隠者というのを、
>単に俗世間から逃れた人という風に考えず、
@俗世間に対してむしろ積極的な自分の位置をとったという意味を持たせたほうが、考え易いんじゃないかということがありまして、西行の場合も良寛の場合も
@単に世捨て人と考えないほうが良寛の詩歌を考える場合にいいんじゃないかと思ったわけです。
水上
小作人にもなれず、村離れせざる得ない。
すると、奉公の道へ出なければなりません。奉公するということは体制に組み込まれていくということですが、もう一つの道は逃亡ですね。
>逃亡において食えるところを探せば、
>当時は寺しかありません。つまり寺男になることです。
>ひょっとしたら良寛が見た円通寺の仙桂は、そうだったのかもしれません。
水上
字も読めない貧困の少年が、あ~ありがたい、あ~ありがたいようやく食えたといって居る姿のほうが禅境のの高いところにとどいたという発想が私にはありますね。
このようなことはやがて幕末に証明されますが
>制度が厳しければ厳しいほど、草莽の人間が地平に無言のままいたと私は思います。
>私はその人たちのまなざしを忘れても歴史は語れますが、十全ではない気がします。
@越後にもいたと思いますね。
五合庵にくるコメであり、着物でもあるわけです。
~~貧者というのは小作人に違いないし、大根飯を食っている連中でしょう。
どうして人にものを与えられるか
>それを雀にくれてやりそうな男に、なんでコメをやれたろう。
>コレがわかってなければやれないですね。
@わかるということはどういうことだろう。
@この制度下の地平では、インテリが小作をしていたという私のイメージです。W!
@もう一つの道を見ていた人々の地平があって、良寛がこれだけ生きられたわけじゃないですか。
~~
水上
不思議なことですけれど、吉本さん、貧乏して居るものほどモノをくれてやりたくなるんですよ。
@<ごぜ>さんという人々の群れが生きれたでしょう。
つまり目の見えない人らを、越後はコメどころであったかもしれないけれど、どうしてあのように育てたのでしょう。
<ごぜ>女宿というのは庄屋というようなところではありませんでした。
目が見えないですかすから道端からすすと行けるところでないと具合が悪いではないですか。
すると乞食や<ごぜ>を支え育てたそういう地平の人たちがいたんですね。
乞食が来て子供たちを集めて手毬をついているそうだと聞けば腹減っているだろうな、日暮れにといって握り飯を持ってくる男がいたんですよ。
このようなことは活字になってしまえば深いことのように思えるが、
>実は貧者たちが持ち日常茶飯の、かけ合言葉に過ぎなかった。
@そのかけ合言葉があって、そのかけ合言葉の響くところに良寛はいた。
畔を枕に眠れた景色が見えるんですね。
石投げる人もあっただろうし、面白い人が泊まっているから、行くと面白い話をしてくれるといえば、そうかどんなにとかやせた人だそうだ。じゃなっぱめしでももっててやれ。子供に持たせることもあったでしょう。
@コレが慈悲なんですね。
@慈悲の景色というものは、宗教的な観念としてあるのじゃなく、生きている景色としてある。
>良寛の手紙というものはそういうありがたさを出している感じがいたします。
>五合庵の坪数から言うとひと冬の薪を置く場所はありません。
>すると誰かが担いでいったにちがいありません。担いでいった男は無名ですね。
それは短歌にございますね。誰かが訪れてくるという。あの歌の裏側に、私は来る人の景色が重なります。
@だから簡単なる閑日月ではないという気がします。
@宗教的境地なのか、慈悲なのかというようなことは教わりもせず、ただ盲目の人が来るから話を聞こうという発想が越後にはありましたね。
@今日まで<ごぜ>を残す国ならば
>良寛さんのような乞食がいてもよかったんですよ、評価は後のことです。
吉本
そうですね
水上
手紙も後のことですね。
ひらがなの手紙がよいとか、書体が良いとかというのも後のことです。
>そういう心をもった共同体と繋がって、良寛さんはあったとおもうんです。私はそういう空想家です。
吉本
ずいぶんイメージがはっきりしました。
水上
まったく空想。恥ずかしい。
吉本
いや再現力ですから、ずいぶんはっきりしました。