反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

日本中世に仏教を語りつつも実存主義者表明をした鴨長明。「発心集」序末尾⇒ただ道端のたわいない話の中に自らの僅かな一念の発心を<楽しむばかり>。隠遁者から武士への生死観の進化←W何処が進化なのか?普遍的生死観(卜部兼好)⇒W論証されていない!W⇒今、死は個別個人の実存状況による。進化もないし普遍性もない。

http://rp-kumakendai.pu-kumamoto.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/1373/1/2405_matsumoto_29_38.pdf

         鴨長明
~「方丈記」「無名抄」「発心集」を通して~松本勝

W。所業が閉ざされ挫折するか(神職就任阻止、再就職固辞隠遁)中途半端なまま(殿上人の歌の世界の末席)、我執を超えられなかった(出家大原、方丈庵隠遁)というベクトルで、絶えず文芸と並走してきた長明の自己総括とするのは、当時の長明の心境をそのまま表現している、という意味ではリアルではあるが、現代において長明を論ずるものとしては片手落ちも良いところだ!もっと人生は複雑多岐人間は本質的に実存的な存在。

そもそも、方丈庵において本人が発心集に挙げる人物たちのように発心に達することを志したら「方丈記」や「発心集」は創作できなかった。我が内に我執を抱え込み続け、それとの対話を続けていたから創作活動ができた。発心という宗教的な境地と我執(背負った業)との絶対的な自己矛盾が長明と身体に同居していたからこそ長明的な<数奇>に凝縮された一点突破と実存的世界の開示が可能になった(数奇の手段による昇華)。

長明は発心の直接行動者ではなく(宗教者というよりも)、発心の様な形態を記述し世に問う目的意識性、立場性を自覚する文芸の数奇者の最後の居場所は、(発心は実行されない以上)方丈庵での数奇以外になかったが、問題の所在は数奇の実相である。それは長明が著した編著、著作の中にあり(歌は鑑賞能力がないので省く)、後代の卜部兼好徒然草良寛とは異質に感じる所が多い。長明の<数奇>は破天荒なところがあり現代人の常識から大きくはみ出る部分が多すぎる。ザックリ云えば、今昔物語の世界に近く、兼好から遠く離れ、芭蕉良寛とは異質の世界にあり独特の非ヒューマニズムに貫かれている。

 

 長明は発心集、序の最期の文言に次のように記している。

 長明の簡略文ではW説の主旨が解り難いので「発心集、現代語訳付き」角川ソフィア文庫、現代語訳を引用する。

W。用語解説。

菩薩(ウィキ引用⇒菩薩とは、ボーディ・サットヴァ の音写である菩提薩埵の略であり、仏教において一般的には菩提を求める衆生を意味する。仏教では、声聞や縁覚とともに、声聞と縁覚に続く修行段階を指し示す名辞として用いられた。またその一方で助けを求めているものに、救いの手を差し伸べてくれるありがたい存在

   現代語訳、引用開始

「仏、菩薩の有りがたい因縁譚は我が身に恐れ多いのでこれらを採らなかった。

>ただ我が国の身近な分かり易い話を優先して、耳にした話に限って記すことにした。

それゆえきっと誤りも多く真実は少ないかもしれない。

~~~いうなれば雲をつかみ、風を結ぼうとするような儚いものだ。

一体だれがこのようなものを相手にするだろうか。

事情は以上の通りではあるが、

>人にこれを信じろという訳でもないので、

>必ずしも確かな証拠というようなものを尋ねとることとはしなかった。

@ただ道端のたわいない話の中に

@自らの僅かな一念の発

@楽しむばかりというだけである。」

                        引用終わり

W。人性の最晩年の5年間の文芸(数奇)~~<57歳>鎌倉へ、源実朝訪問。無名抄<58歳>方丈記<60歳>発心集~~に一点に集中し昇華している!62歳没

⇒参考資料発心集第六、8。時光、茂光、<数奇>天聴(W、天皇が知る)に及ぶ。

<数奇>本来は〈好き者(もの)〉の意。中世になって風流を好む人を意味 ⇒W。この解釈は正確ではないと想う。

 引用

「中ごろ、時光という<しょう吹き>ありにけり。茂光という<ひちりき師>と囲碁を打ちて、同じ声に裏頭楽を唱歌しけるが、面白く覚えけるほどに、内よりとみ(急用)のことにて時光を召しにけり。

 お使い至りて、この由を云うに、いかにも、耳に聞きえれずただもろともゆるぎあいて、何とも返事しなかったので、お使い帰り参りて、この由を有りのままにぞ申す。

 いかなる戒めあらんと想うほどに(帝)「いとあわれなる(見事なる)ものどもかな

さほどに楽にめでて(夢中になって)何事も忘れるばかり思うらんこそ、いとやんごとなけれ(尊い)。

王位は口惜しきなりけり。行ても得聞かぬこと(行って聞くことができないのだから)」とて涙ぐみ給えりければ、使いは思いがけないことと想った。

@これらから考えると、この世の俗事を想いきるためには<数奇>は有効な手段となるに違いない。」

原文⇒「この世の事思いすてむ事も

>数奇はことに頼りとなりぬべし」

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 発心集第六、7。永秀法師の数奇のこと  W。この説話の主人公、笛の名手永秀法師(<八幡(石清水八幡宮別当(遠縁)の貧者)は日夜、笛を吹き続けるので近所の家々は騒音被害を被って次々に引っ越していき、終いには誰も住まなくなっても「全く気にも留めない」

W。「この世の事思いすてむ事も数奇はことに頼りとなりぬべし」発心集第六、8結語より一貫性がある<数奇>のニュアンスである。

長明の方丈庵の<数奇>の全貌が見えてきた。

数奇=風流を楽しむ、は仏教的観想の姿勢と世界であり、それだけでは出家者長明はこの世の俗事に対処できない。<術として、手段としての数奇>=文芸が不可欠だった。

1216年(長明62歳)

禅寂 ぜんじゃく日野兼光W。~~~寿永2年(1183)右大弁兼参議,文治(ぶんじ)2年権(ごんの)中納言となる。右兵衛督(うひょうえのかみ),検非違使(けびいし)別当をかね,従二位にいたる。高倉天皇,後鳥羽(とば)天皇2代の侍読。~~~の次男。浄土宗。刑部少輔(しょう),民部大輔(たいふ)W。民部省①の次官二人のうち、上位の者の官名。正五位下相当の官。20歳ごろの文治(ぶんじ)4年(1188)出家法然の弟子となり,鴨(かもの)長明としたしんだ。俗名は長親(ながちか)。生前の長明より依頼の『月講式』を草して長明の墓前に捧げる。

引用 

https://www.kci.go.kr/kciportal/ci/sereArticleSearch/ciSereArtiView.kci?sereArticleSearchBean.artiId=ART001203008

月講式は鴨長明の最晩年の思想を知りうる資料である平安時代から鎌 倉時代へと変わる転換期に生を営んだ鴨長明は絶えず変わって行く世の中に比べて、いつも変わることなく照り輝いている月を誰よりも好んだ作家といえよう。彼の作品の所々に月が登場しているし、彼の最晩年に月の講式を依頼した事実からもわかる。長明は例を見ない月の講式を法友である禅寂に依頼したが、完成を見ないまま他界してしまったのである。これを惜しんだ禅寂が長明の歿後35日目の供養として月講式を長明の霊前にささげた。長明は音楽愛好家を呼び寄せて仏教音楽会を開催しようとして月講式を依頼したのではなかろうか。音楽、和歌に対する執着を断ちきれない長明が彼の往生希求の心をこめて例を見ない月の講式を企画したのだと思うのである。

講式(こうしき)は、仏典に節をつけた宗教音楽である声明のうち、語りものの部分。

元来、講式とは法会講会を行う際の儀式次第を漢文訓読体の文章にしたもので、時代が下るとともに文学性や音楽性を付与されて声明としての性格を持つようになった

講式は、声明の一部分であり、演奏様式としては邦楽の「語りもの音楽」のなかの一ジャンルに属している.

講式は民衆布教において重要な役割を果たした。

例えば、法然の没後、門人らによって開かれた「知恩講」における作法を書いた『知恩講私記(知恩講式)』は浄土宗の専修念仏の教えと法然の生涯を分かりやすく説いたものとして、浄土宗の布教に大きな影響を与えた.」

          引用終わり

 本文開始

今の感覚で言えば事件になり、地域から追い出されても仕方のない人物なのに、<八幡(石清水八幡宮別当(遠縁)が(本人の)望みを聴くという。

この現代とはかけ離れた一種の日本中世カースト制度~~~名門に連なる貧者の遠縁者は近所家々が立ち退くほどの騒音被害を撒き散らしても所属するヒエラルキートップが望みを聴く~~~は長明の出家遁世の実相を解くカギ。「徒然草」の卜部兼好の生活実態、社会的な位置は今や当時の時代背景や文献を駆使した研究によってほぼ解明されている。その出家は我々阿がイメージする出家遁世ではなく支配層の一部と自由に行き来情報交換できる活動の自由を担保できる便利なものであった。現在で言えば御用評論家。そういう実態が明らかになれば「徒然草」の洒脱も納得できる。卜部兼好は厳密な意味での出家者ではない。

 現代語訳の小見出し

永秀法師、笛を愛する

 ここに八幡八幡宮別当の遠縁に当たる本人が日夜、笛に夢中になり騒音発生源となり地域の家々を立ち退かせても「全き気にしない」事実を提示する一方で、「とても貧しかったけれど見っとも無いふるまいなどはしなかったので人々から軽蔑されることもなかった」などとその人間性情状酌量の余地を残しているがしているがこの<数奇>人物像は

 

説話の中には見事発心した人々の話もあるが、発心往生(自死)する一瞬に後悔の念がよぎったにもかかわらず死んでいった人の生々しい話が載っている。このヒトはときの勢いで死を選んだ。

 

今の話として、死にきれず後遺症が残って生きている人もいる。それでももう一回死にたいとおもうのか、生きていてよかったと思うのか。

生きることは死ぬことだが、死ぬことは生きることではない。動かし難い物証だ。

 ただし、自死願望の強いヒトはいつの世も一定数いる。酒を組みまわしながら一晩かけて死や宇宙論を語り合った人がアパートに帰ってこなくなった。しばらくして1通のはがきが本人の住所に届いた。死を目前に控えた遺書だった。犬吠埼の海岸からアメリカまで泳いでいきます、と書かれたはがきに涙で滲んだ跡があった。病気ではなかった。友人、知友も普通の人よりも多い素人の絵描きさんだった。みんなで集まって追悼会を開いた。その後、その人の親友で自分も親しいヒトから「お前がそんなことを云うから死んでしまった」といわれた。議論のときその人の得意は宇宙論とわかった。宇宙に帰るみたいな論法にナルホドとおもい、カミユに傾倒するWは「異邦人」の結末、死刑の直前のムルソーが説教に訪れた神父を罵倒し宇宙との一体感を得た場面を話し、「シューシュポスの神話」にはどこまでも泳いで行って力尽き果てて死ぬ論理的な自殺の難しさについて、載っていると語った。

生きんがため理念実現のために戦っていた。死ぬことは一切考えなかったことが、間違いだった。闘いの場はそういう環境ではなかった。(下段の論文に描かれているような武士の死生観は闘いの場では通用しない。)

今に至って死に寄り添っている自分は、それこそ「ゆく川の流れに浮かぶ泡沫」のような存在だ。だから、訳知り顔を捨て方丈記から発心集に至った鴨長明は自分にとってリアルな存在だ。

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     中世武士の生死観(1)
―中世武士の出家と隠遁の諸相―大山 眞一

未読、ざっと目を通したところ、「西行鴨長明の現世的生死観はあくまでも個人的
な思惟の範疇に止まっていたが、卜部兼好の生死観にあっては彼らより一歩進んだ普遍化した生死観の萌芽を窺うことができる。⇒W。卜部兼好は本名。吉田兼好の吉田は吉田神道のステップアップを謀るために卜部兼好を吉田系譜に入れた偽造であるが、下線部分に一言の言及もなく、論証されていない。卜部兼好に普遍化した死生観があるとすれば現代に通じる死生観に近いものだろう。そもそも、「徒然草」は点描的な随筆、という意味では「枕草子」に近い日本的ファジーを謳った文化論とその時代においては進んだ大人の常識的人性訓話をミキシングしたモノであり、そこからぎりぎりの死生観のごときインパクトのある哲学は引き出せない。

https://gssc.dld.nihon-u.ac.jp/wp-content/uploads/journal/pdf08/8-443-454-Oyama.pdf

引用

「中世隠遁者の生死観の系譜上に中世武士の生死観が存在する
という仮説を立て、隠遁者たちの確立した思想、換言するならば、彼らの生きざま、死にざまに表れた宗教観、そしてディレッタンティズム(数寄)が武士の生死観に有形無形のうちに継承されたことを考察し、中世隠遁者から中世武士に引き継がれた生死
観を系譜学的に検証していきたい。
西行鴨長明の現世的生死観はあくまでも個人的な思惟の範疇に止まっていたが、卜部兼好の生死観にあっては彼らより一歩進んだ普遍化した生死観の萌芽を窺うことができる。

2 そして、その系譜上に浮上するのが武士の生死観であるという仮定が本論に於ける研究の核となってくるのだが、隠遁者の系譜上にある武士の生死観は本質的に隠遁者のそれとは異なる側面を持つ。

例えば武士の生死観が個人の範疇に止まらず、武士団、主従関係といった〈しがらみ〉の中にその実体があるように、あくまでも組織的な尺度で捉えなければならない点なども隠遁者の生死観との決定的な違いである

そのような武士(武士団)に受容された生死観がどのように変容していったのかが興味の対象となってくる。 ここで、その隠遁者から武士への生死観の進化←W?の過程を簡略化してみると、「来世的死生観(浄土教思想)→現世的生死観(西行鴨長明)→普遍的生死観(卜部兼好→倫理的生死観(武士)」という生死観の変容過程のチャート化が可能となってくる。

     時間の都合でここまで。