1)日本の人口推移ー「歴史的に見た日本の人口と家族」より
451万人 551万人 684万人 752万人 818万人
1227万人 3128万人 3330万人
「歴史的に見た日本の人口と家族」引用。
「ここからは、(2)平安時代における人口の頭打ち、(3)室町~江戸幕府成立期における再度の人口増大、(4)江戸時代前期(17世紀)における人口の急増、(5)江戸時代後期(18 世紀以降)における人口の停滞、(6)明治時代以降の人口の急増、が読み取れる」
「ここからは、(2)平安時代における人口の頭打ち、(3)室町~江戸幕府成立期における再度の人口増大、(4)江戸時代前期(17世紀)における人口の急増、(5)江戸時代後期(18 世紀以降)における人口の停滞、(6)明治時代以降の人口の急増、が読み取れる」
>「(2)の背景としては、農民一人ごとに耕地を割り当てた戸籍・班田収授制の崩壊や、西日本を中心とした干ばつ被害・疫病等の影響が考えられる。
(3)の背景としては、二毛作、牛馬の使用、灌漑施設の整備等が進み農業の生産性が再び向上したこと、意欲的な開発領主としての武士が土地支配の実権を強めていったこと、商業が発達し都市と農村間の経済活動が
活発化したこと等が背景として考えられる。」
活発化したこと等が背景として考えられる。」
>(2)「平安時代における人口の頭打ち」の原因をを、西日本の旱魃被害、疫病の影響はともかく、「農民一人ごとに耕地を割り当てた戸籍・班田収授制の崩壊」としていることは、この時代の支配者、朝廷貴族の<公地公民班田収受の法などの支配者の公式法令>と<実際の統治システムの現場の実態の大きな差異>を考慮に入れない歴史教科書的俗論である。
なお、支配層の強収奪ー帝国的広い領域の住民の困窮ー人口停滞と支配者と一部住民の繁栄のアンバランスは古代ギリシア、ローマ時代を含むヨーロッパの人口推移グラフにはっきりと示されている。
結論的に云えば、この時期は現在よりも気候温暖状態にあり、農業生産性は高かったにも拘らず、支配者側の強収奪によって、帝国の広い領域規模で見ると、住民の困窮がもたらされ、人口の伸び悩みがあったものと推定する。
日本古代律令制にも同じ次元の事態が根底にあった。律令制の崩壊過程のイメージはキチンとあったものが崩していったと見るのは、為政者側の発布した公文書を鵜呑みにした歴史教科書的見解によるものである。
ウィキの関連項目をみると、教科書的定説と新しい研究成果が巧みに並列されており、全体の主旨が混乱しているようだ。新説のの大事な部分が今の時代風潮からして、修正される可能性が高いので、この際キチンとこの記事に載せておきたい。
また、「将門記を読む」の項目には、教科書的通説を打破する環境史を用いた根拠が載っている。
2)将門記ー在地社会から見た将門の乱ー3、環境史から見た10世紀の東国と民衆
A、地球規模の寒冷化と江戸時代の飢饉、百姓一揆
「最近の研究では近世の百姓一揆は地球規模で気候が寒冷化していた時期に多発したものであり、寒冷化に伴うたび重なる凶作や飢饉の発生などが原因であったことが指摘されている。」
>「しかし10世紀の東国民衆の蜂起の原因としては別の事情を考えなくてはならない」
B、平安時代の気候の復元ー4点の記録からー将門の乱の時代の気候は現在よりも温暖だった!
イ、嵯峨天皇次代に始まった宮中における観桜の宴の記録の推移812年。
「9~10世紀のサクラの満開日が、平均すると現在よりも5日ほど早いー9~10世紀が現在よりもむしろ温暖だったー」
ロ、地理学地質学による過去2000年間の海水準の変動曲線。
従って「10世紀の日本はそれ以前に比べてかなり温暖であり、このことは同時に自然に考えれば、当該期の農業経営は、高い農業生産性を維持していたものと見てよいのではないか」
C、民衆はなぜ将門を支持したのか。W。先回りして将門決起を大局的に俯瞰。細部の事実は後に引用。
「当該期の在地社会の農業経営が高い農業生産性を維持していたことが推測される」が、
「こうした気候条件を巧みに捉えたこの当時の国司層の豊富な官物を巡っての私富の追及こそが、厳しい搾取となって民衆の疲弊を招き、将門ひいてはコレを支持した民衆たちに武装蜂起を決断させたのではないだろうか。
民衆の疲弊は天災が要因であったのではなく、慾に駆られた施政者が引き起こしたもの、すなわち人災であったのである。(W。将門時代に限ったことでなく、日本型律令制時代にも同じことが言える。律令制崩壊が人口停滞の原因とはぜったにあり得ない。日本型律令制への幻想である。)
民衆と同じ目線から反国衙権力闘争を決意した将門は、彼等から支持されないはずがなかったのである。(W。この辺の事情は歴史の理屈の力を使わなければ、具体的事情が明らかにできない=結構難しい。
3)国司層の実態
国守=任命されても赴任、執務せず俸禄だけを手にする。官位を持つ中央高官貴族。
国司=受領、現地の治安維持と徴税を請け負う。最下級の官位。或いは無官であるが貴種モドキ。
「10世紀以降、各地では国司が国内での徴税を請け負う体制が成立し、それ以前のように国<W。今で言えば県。国家ではない>ー郡ー里(郷)といった地方行政機構を通じて中央に租税を納入するシステムが崩壊してしまったため、
各地受領たちは国内の徴税額と中央への納入額との差額を手にして膨大な富を得るようにあっていたのである。」(注1。日本型律令制の実態を抑えておく必要がある)
各地受領たちは国内の徴税額と中央への納入額との差額を手にして膨大な富を得るようにあっていたのである。」(注1。日本型律令制の実態を抑えておく必要がある)
ー平将門の乱から平常忠(つねただ)の乱へ
「将門の乱は死を持って終焉したが、東国の民衆たちの厳しい生活は一向に好転する兆しはなかったようである
>「東国では将門の乱(940年)も、平忠常の乱(1028年~1030年)のように、再び主体的に反権力闘争に踏み出すこともあったが、支配者の私利私欲に刈られた暴挙に巻き込まれ、翻弄されることもあったようだ。」
>「上総の国の受領として私服を肥やしてきたであろう兼忠(平将門に討たれた国香のひ孫)と、こうした受領の子弟として下総国(千葉県)、武蔵国(埼玉東京方面)にまで及んで奔放に振舞っていた子の維良(これよし)が、合法非合法の手段を選ばず、民衆から過酷な収奪による官物しなわち米を中心とした地域の特産物の独占欲に駆られ~」
5)平忠常の乱
「平忠常もまた将門と同じように上総、下総両国に大勢力を形成した私営田領主であり、高望王のひ孫にあたる桓武兵士の一員であった。上総国の次官(国司身分。国衙の一翼を形成)を勤めていたが、1028年安房国(房総半島)に侵入して、国守を殺害した。さらに上総国も手中に治めたので、朝廷は直ちに検非違使の平直方を追討使としたが失敗し、1030年今度は平忠常を家人としていた甲斐国主の源頼信の派遣を決定した。
翌年、忠常は戦わずして降伏し、源頼信が忠常を伴って今日に向かう途中、病死した。」
千葉県史料研究財団。
「内実は、官物の納入を巡って、コレを拒否する人々とともに、国司の収奪に反対する紛争と見る見解が有力視されている」
>千野原靖方著「将門と忠常」
「元来、行使は武力に頼らず国務を執行してきたが(W。疑問)、田祖や徭役に服さなくなると押領使などの警察力によって、実力で徴収を果たそうとし、やがてそれは非法な取立てを強行するにいたり、あまつさえ蓄財を図ろうということで、郡司や百姓等の反発を買うことになったと見られる。
一方、忠常の方はコレを受けて、代々の権威者として支配的地位を保持し続けるために、彼等の期待、支持に答えて国司支配に反抗する立場を取って見せる必要に迫られたのである」
「この文は忠常の横暴や椋脱のことのみ記されているが、コレは京くだりの国司側の言い分を代弁したものであり、コレに対して在地側の主張はコレとマッタク相反するものであったろう。
>「将門記を読む」引用。
「このような史料に対してはいくつかの解釈の余地がある。
国主やその妻さえ厳しい生活を余儀なくされていたと見ることもできるが、
一方、
当該に貴族に日記が、亡国にとなった記しているのは、忠常の支配下に落ちて国司の支配が機能しなくなったため、これらの地域から税が納められなくなったという自体をあくまでも朝廷側から表現したものであるという見解である。(千葉県史料研究財団)
私もこのような見解に賛成で、「飢餓」に苦しんだというような表現は下総国をはじめとする房総3国の私営田領主層と彼等を支持する民衆たちの心が国主から離れてしまっており、彼らが乱後の国政に手をかそうとしなかったという事態を象徴的に記したものと考えている。」
>「ここでの頼信の登場と活躍は、コレ以後、東国が源氏の強固な地盤となっていく戦前となったのである」
<注1>ウィキ<公地公民制>
通説
「646年(大化元年)、前年の乙巳の変により即位した孝徳天皇は、新たな施政方針を改新の詔として示した。詔は大きく4か条の主文からと副文から構成されていた。第1条には「従前の天皇等が立てた子代の民と各地の屯倉、そして臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と各地の田荘は、これを廃止する。」と定められた(原文: 罷昔在天皇等所立子代之民処々屯倉及臣連伴造国造村首所有する部曲之民処々田荘。)。
大化以前は、天皇や豪族らは各自で私的に土地・人民を所有・支配していた。天皇・王族は、私的所有地である屯倉と私的支配民である名代・子代などを保有し、豪族らは、私的所有地である田荘と私的支配民である部曲などを保有していた。ところが、改新の詔第1条は、こうした私的所有・支配を禁止し、全ての土地・人民は天皇(公)が所有・支配する体制の確立、すなわち私地私民制から公地公民制への転換を宣言するものである。
公地公民の原則に従って、朝廷は班田収授法に基づき人民へ口分田を与え、租税を納める義務を課した。この原則は、701年に制定された大宝律令にも継承され、律令制の根幹原則となった。しかし、奈良時代に入ると三世一身法や墾田永年私財法により、人民による土地の私有が認められると、土地の公有という公地公民の原則が次第に形骸化していった。そして、土地私有によって荘園が盛行すると公地公民制は崩壊し、公地公民を原則とする律令制も瓦解への道をたどった。
新説
「上記のような公地公民論は、次第に疑問視される傾向にある。
まず、大化以前の支配体制とされる私地私民制について、屯倉(みやけ)が王権を支える経営拠点であるように、田荘(たどころ)もまた豪族の政治的地位を支える農業経営拠点であると解される。屯倉と田荘(たどころ)は、天皇や豪族らの経営拠点であって、必ずしも天皇や豪族らの私有地を意味するものではなかったのである。
また、豪族による田荘・部曲の支配は、改新の詔で禁止されたはずだったが、その後も朝廷が田荘・部曲の領有を豪族へ認めた事例が散見される。つまり、土地・人民の所有禁止は実際には発令されなかったか、もしくは所有禁止の実効性がなかなか各地へ浸透しなかったことを表す。
これは、公地公民の原則が、当時の社会へ強力に貫徹していた訳ではなく、あくまで理念として掲げられていた側面が強かったことを示唆する。
さらに、従来、公地と考えられてきた口分田は、律令施行の当時、実際のところ、私田・私地と認識されていた。公地公民制の基礎と言える「公地」の概念は、当時存在しておらず、口分田が「公田」と認識されるのは、墾田永年私財法(743年)以降である。すなわち、奈良時代当時、三世一身法や墾田永年私財法の施行によって、公地公民制や律令制に大きな破綻が訪れるという意識は存在していなかった。
>自分も関連を調べていく途中で、律令制の日本的特性に比重を置いて考えると、なんとなくそういう実感がした。
律令制というきちんとしたシステムが崩壊したのではなく、元々、その日本的特性は地方紙族支配を取り込んだものであり、その根本的要因は是正されるはずがないのである。
朝廷文書における建前と在地支配構造の実態は大きく違っていた」
>作成途上の記事では次のように記した。
日本型律令制の国ー郡ー里の中央の支配システムは元々、朝廷勢力の全国統治の実態が各小国の支配層の人民統治機構を末端に取り込んだ連合政権的要素が強かったので、在地の徴税や軍団編成の実務は、こうした旧支配者たちがになっていた。
当時の各地の支配層の感覚は、領域的縄張り意識はあっても、強固な土地私有概念はないわけで、朝廷勢力の配下になっても、自分たちの利権さえ確保できれば、支配地と人民を国有のものしても、大した痛手とはならない、モノと考えられる。
中央から派遣された国司をいただいて、実務を司る過程で、実質的権限と利益も確保できた。