1)「(平)将門記を読む」
A、将門の反乱と蜂起の年代、作者、争乱の地。 Wによる記述。引用は「 」で括る。
作者不明だが、おそらく現地の事情に詳しい官人と思われ、その視点による戦乱観が色濃く出ている。
論者は中世の軍記物語としてはと異色で、今風の庶民の生活重視の平和主義に通じると、論じている。
「戦闘の結果として第三者をも巻き込んで現れる悲惨な情況に筆を費やすこと。~将門記の作者が、戦闘の当事者でなく、第三者としての被害者の立場に立つ事によって、乱全体を的確に記述することが可能になった、~とともに、その被害者の立場を、乱を起して自分たちの生活を脅かす者は誰であっても困った存在とみなす立場と捉えている。生活を脅かす戦いそれ自体を憎み否定するこの論理こそ<在地の論理>と称してもよいだろう。」
>がしかし、
作者は官人の立場から、中央(朝廷)ー地方の王朝体制支配体制(徴税体制)がスムーズに回っていくことを本願にしており、それは同時に収奪の源である田畑が戦争によって荒廃する心配に通じる。
原文を読まなければ断定はできないが、それを今風の庶民生活安定の平和主義の立場に読み替えることが果たして妥当なのかどうか疑問である。
戦場は筑波山ふもとの広大な平野である。現在よりも大幅に海が平野部に入り込んでいた(海進)。
B、古代から中世への過渡期に中央支配の過疎地、関東で発生した総力戦である。
戦争形態は敵の拠点の田畑、家、家族人民殺戮の焦土作戦まで踏み込んだ日本の軍記物語に語られていない総力戦であり、戦乱の継続で戦闘拠点を疲弊させた将門勢が戦場外の近接地域の武装勢力の物量作戦に押し切られ、敗勢の中で矢に射られて敗死した。
将門の争乱において、兵員の主力は農民のパートタイム兵士であり、戦争に負けると生命と財産を失う覚悟で戦いに参加した。
地方の恒常的武装勢力の数は非常に限定される。
こうした軍隊の構成や戦闘の未熟性から、両軍の会戦では敵の大量殺戮ができないから(敵戦闘勢力の殲滅に至らず)、敗走した部隊の大半は出撃拠点に帰還する。
そこで、将門の反乱のような大規模戦争になると、出撃拠点の根切りを目的する残虐な焦土戦術に至る。
ただやられた方の憎悪は広がって消えず、憎しみの連鎖が始まり、内紛状態が長期化する。
それでも勝ちきれるという将門の判断であり、多分、妥当であろう。
この本の論者は将門記の記述内容をそのまま受け取っているが、別な見方もできる。
常陸国の郡司が国司の徴税に反抗し、年貢の上納を怠り、なおかつ人民を不当収奪していることを摘発され、将門の下に逃亡したのを徹底的にかばったことから、国衙勢力と敵対関係に突入し全面戦争に至った、という説明をそのまま記載している。
しかし、それは王朝国家体制側からの視点であって、別の客観的な資料と刷り合わせて、実情を検証するすべはなく、将門記がそう書いているというだけではないか。
>西日本と違って、古代の朝廷支配体制の揺らいだ過渡期において、朝廷支配体制のスムーズに行えない争乱土壌の関東において、年貢をスムーズに上納させようとすれば、現地支配層の間で、また支配層と人民との間で大きな軋轢が生じるのは当たり前である。
この政治と軍事の論理は今でも通用しているのに、1000年以上も前の関東の兵、将門に戦略の可否は判断できない。
それができたら最初から、一族の大半を相手に戦争を引き起こさない。織田信長も一族の内紛で勝ち上がっていった。要は後代のものが歴史の観点から評価しているだけである。
今の観点から見ると、確かに後ろに引けない兵、将門の戦略面での弱さが際立つが、この我武者羅な突破力こそ、武士発生前の兵の肝だったのである。
また、中央で古代貴族層が安穏と長期に渡って支配体制を維持していくための、糧である収奪は在地(人民と中間管理者にとって)理不尽で過酷だった。襲撃された国司ー地方政庁の側にも無理があったのである。
また、中央で古代貴族層が安穏と長期に渡って支配体制を維持していくための、糧である収奪は在地(人民と中間管理者にとって)理不尽で過酷だった。襲撃された国司ー地方政庁の側にも無理があったのである。
将門はその反乱と蜂起によって、歴史を後ろに引き戻したのか?前に進めたのか?
平将門、藤原純友やその後の平常忠の反乱を鎮圧したものの系譜から武家の台頭ー平氏台頭ー鎌倉幕府へと歴史は連なっていく。
以降の権門的朝廷支配の長期の400~500年間にわたる残存は歴史的事実であっても、それは大きな歴史転換期において、既存の支配機構を維持するための支柱になる。日本歴史のなし崩し性、外圧よってしか変われない、大きな要因である。意識下に埋め込まれた秩序意識過剰が災いをもたらす場合がある。人々の側に。
以降の権門的朝廷支配の長期の400~500年間にわたる残存は歴史的事実であっても、それは大きな歴史転換期において、既存の支配機構を維持するための支柱になる。日本歴史のなし崩し性、外圧よってしか変われない、大きな要因である。意識下に埋め込まれた秩序意識過剰が災いをもたらす場合がある。人々の側に。
>戦局が長引くと、兵站に勝る側の物量作戦が功を奏する。
それは戦場になっていない近接地域、及び朝廷中央側である。将門勢は中央軍の到着する前に近接地域の武力に圧倒され、敗北した。
将門記は古代末期から中世への移行期の戦争の実態に触れていることに後の軍記物語に無い特色がある。
>既に古代ギリシアにおいて戦争形態は総力戦を確認できる。
戦争が深化すると、無制限戦争の段階に達して、過酷な焦土作戦の応酬に転化する必然が戦争の論理の中に含まれている。
想定では古代的貴族専制支配体制は外征圧力がないとすれば、内的総力戦の持続方向の中でしか払拭できなかった、と考える。(大規模な農民反乱もこの条件で発生する。)
また、民主政と市民の武装の関連性は強いうという問題意識がある。
今とこれからの情況を常識を超えた視覚から、見ていく視点が少しは得られるかもしてない。
将門の乱は、そういう意味で画期的価値がある。
この次元の問題意識で数冊の本で調べていく。頭の体操である。白紙の状態はあり得ないが、予定調和はない。全部、抜書きしていく。
C、将門戦乱は二つの段階にはっきりと区別できる。
イ)前半期。 一族の内紛による戦争だが、この時点で将門側から焦土作戦が発動されている。
ロ)後半期。 常陸国衙軍勢ー茨城県に該当ー(国司の地方政庁とそれを支える地元軍勢)との戦争に踏み込み、勝利して、国衙拠点の焦土作戦を展開し、京都中央貴族支配層から謀反として、追捕を受けるが、それに対して開き直り、北関東制圧、新天皇を襲名する。新天皇襲名は過大評価できない。当時の天皇の影響力は今よりズット低い!
>がしかし、この本の各項目の論者の見解では、イマイチ将門の戦争の反体制的エスカレートの真相が明らかになっていない。10世紀に記された将門記に戦争を突き放して検証することなどできないのだから、現代のものが見当をつけるしかない。
D、将門とは何者?
本文、将門記解説の引用。
「桓武天皇の末裔にあたること、祖父は高望王で、父は鎮守府将軍平良持。931年伯父平良兼と女論にょろん(この言葉は将門記、原文をそのまま引用したものー良兼の娘と将門の結婚を反対したことーによって争論が起きた」
>将門は若輩時分に京都に上がって、官位を目指したが果たせず帰郷した。したがって無官である。
一族に官位を持つものは1,2人想定される。この一族は都から下級貴族として地方統治のために下向し、そのまま現地に土着して、開発領主化した、系譜である。
E)時代背景。
「軍団制廃止後であるにも拘らず、政府がコレだけの人数(1万7千人)を集めた点に日本の律令制の実態を見ることができる。
>そもそも(律令制の)軍団を統率することができたのは在地有力者である<郡司>が任用されることになっていたがコレは全て中央からの派遣官によって構成されれていた唐と大きく違っていた。
おそらく日本の律令制の軍団の場合、兵士の徴発からその管理及び訓練に至る軍事業務は、郡司が握っている<前代以来>(W。律令制制定?以前の地方小国群雄割拠時代という意味)の在地支配権に依拠することによって実現したのであろう。
律令制軍制は、郡司ら在地有力者の在地支配力に支えられていたのであり、軍団の有無にかかわらず、郡司たちの支持を取り付ける音ができれば、一定数の兵員の確保ができたのである。」
以下、自己流<王朝国家体制の説明>のつもりである。
>既存の在地支配層を地方支配に取り込んだ古代日本型律令制体制(古代中央貴族層による土地の国家所有と戸籍確定による人身支配収奪)の生産力発展による崩壊から、耕作地単位を基準とする収奪への転換は地方派遣貴族(国司)に徴税を請け負わせることになる。
在地を受領した国司は中央に送る徴税分と現地で実際に人民から収奪した富の差額を懐に入れ私腹を肥やす傾向が生じやすくなる。
国衙内外に結集した在地支配層を巧みに操って、中央に年貢をスムーズに納め、なおかつアコギに私服を肥やすのが当時の中央から派遣された国司の基本動向である。(今昔物語集の一編には、国司の強欲さがリアルに描かれている。なお、国司は中央貴族の身分では実務官僚層に属する下級貴族である。)
>将門の反乱、蜂起の事情
以下、地方の<国衙軍制>の実体の説明につもりである。
徴税する国司の地方役所(国衙)の構成はイ)国司の直属部下である官人(在地の文官と軍人+国司の郎党)+<動員できる武力としての>律令制度の在地末端支配者の郡司一族郎党+ロ)地方に定着し地方領主になった軍事貴族及びその亜種の一族郎党。さらにハ)、ハ)の部分と重複するが地方豪族の武装勢力であり、これ等、国司と国衙内外に結集する輩が当時の地方支配層を形成していた。
この時代の京の朝廷支配秩序がスムーズに及ぶ地方では、公地公民を原則とする律令制の崩壊によって流動、流浪状態の人民を在地領主、富豪者が領地に囲い込んで奴隷的に酷使収奪していた。初期荘園。他方で、従来通りの「国有地」の人民もいた。
>広大な新規開発地関東では、古代の在地支配層の「所有」(古代日本では、土地の私的所有概念も当然、法制もなかったと考える。私的所有の如きものをを確定しようとすると、カースト的権威=公家法制と、暴力に頼るしかない=前期武士の担ってたのはこの側面)てきた耕作地=公地公民、班田収受の国有地に転化した優良地以外の耕作可能地が西日本よりも広大に広がっており、ここに土地開発領主の台頭の要因があった。
結局、その後の関東、陸奥=前9年、後3年の争乱、最終的には鎌倉武士政権樹立幕府の政治支配は全国化できなかったが、軍事的経済的基礎はここにある。
律令制崩壊過程の典型である唐代中国の歴史発展コースと比較して、日本パターンの特性と浮かび上がらせる必要がある。
唐の律令制体制崩壊ー税収国家運営体制<塩税1000%増税>への転換以降ー全国人民蜂起、内乱=唐貴族大量殺戮、経済基盤徹底破壊ー地方派遣政治、軍事力による内乱鎮圧ー唐の王朝国家体制崩壊ー全国内乱ー5代の分割支配時代へ。
完成度の高い専制支配支配体制は一見支配強固に見えて、支配層と人民が二極分解しており、崩壊期を迎えると脆く、人民の広範な蜂起を誘発する。
日本の江戸幕府体制のような中央集権的「封建体制」(半絶対主義国家?だから、絶対主義国家への移行の内乱は激烈化しない)が人民支配の密度が濃くて、人民支配のコントロールが効く。ヨーロッパ中央の封建体制は領主権限の大きい分割封建体制で絶対主義への展開が無い限り、国家体制は視野に入らない。
以上の参考意見ー京都弁証法認識論研究会のブログ引用。
「在地領主論がとりあげているような社会の大きな変化に対応するために、武士職能論が説いているように、支配階級のなかから武芸という特殊な技能に専念する貴族として武士が登場してきたのだ、という武士成立過程論を打ち立てていく必要があるのではないか、ということでした。
このような考え方にもっとも近いと評価できる武士の成立過程についての論として、国衙軍制論とよばれる論があります。
この国衙軍制論とは、いったいどのような論なのでしょうか。
このような考え方にもっとも近いと評価できる武士の成立過程についての論として、国衙軍制論とよばれる論があります。
この国衙軍制論とは、いったいどのような論なのでしょうか。
この国衙軍制における軍事力の担い手として登場してきた職業戦士こそが、武士とよばれる階層であった、というのが、武士成立過程論としての国衙軍制論なのです。(W。在地では職業戦士ができる背景を持ったものは少なかった。したがって、将門の乱に出陣した兵士の大多数は普段は農民生活を送っていた。)
以下、<律令制崩壊から王朝国家体制に至る土地支配関係の変節の簡潔な指摘>
この国衙軍制論にもとづいて、武士の成立過程をごくごく簡単にまとめてみましょう。
土地にたいする私的な権利の公認は、奈良時代、743年の墾田永年私財法(W。日本での律令制の本格的開始の701年、の大宝律令以降、たった40年で公地公民制度は綻びている。ということは最初から日本に唐のような中央集権権力による土地支配の条件は中央権力の力が弱過ぎて、できなかった、ということだ。従って、大化の改新など後代の藤原摂関家が天皇制の権威を大きく見せて、それを衣にきて、自己支配の正当化を画策する作文に過ぎないということだ。実務支配者のやることは帝国への侵略者ゲルマン人の皇帝とローマ教会利用を見ても、古今東西同じだ。天皇制利用の仕組みは支配層の普遍的動向。日本に限ったことじゃない。資本制支配秩序と合体したところに継続性が出てくる。古代性の内包が反動的要素になる。)にまで遡りぼりますが、とりわけ平安時代の中期、10世紀にはいって班田がきちんとおこなわれなくなると、さかんに土地の開発をおこない、零細農民を隷属させて大規模な農業経営をおこなう田堵とよばれる有力農民が登場してきました。
土地にたいする私的な権利の公認は、奈良時代、743年の墾田永年私財法(W。日本での律令制の本格的開始の701年、の大宝律令以降、たった40年で公地公民制度は綻びている。ということは最初から日本に唐のような中央集権権力による土地支配の条件は中央権力の力が弱過ぎて、できなかった、ということだ。従って、大化の改新など後代の藤原摂関家が天皇制の権威を大きく見せて、それを衣にきて、自己支配の正当化を画策する作文に過ぎないということだ。実務支配者のやることは帝国への侵略者ゲルマン人の皇帝とローマ教会利用を見ても、古今東西同じだ。天皇制利用の仕組みは支配層の普遍的動向。日本に限ったことじゃない。資本制支配秩序と合体したところに継続性が出てくる。古代性の内包が反動的要素になる。)にまで遡りぼりますが、とりわけ平安時代の中期、10世紀にはいって班田がきちんとおこなわれなくなると、さかんに土地の開発をおこない、零細農民を隷属させて大規模な農業経営をおこなう田堵とよばれる有力農民が登場してきました。
このような変化は、中央政府による地方支配のあり方にも大きな影響をおよぼしました。
>1)の時期=地方豪族支配を取り込んだ日本的律令制の時代
>2)の時期=将門の時代
ところが、田堵という新興勢力の台頭してくると、旧来の支配者である郡司を媒介としていた支配では、うまくう対応しきれなくなってきたのです。
国司は、みずから直接に実質的な支配にのりだすことになっていきました。(W。歴史用語で<受領>。徴税の最終責任は国司に任されている。)<国司の地方支配の最大の課題は、まずなんといっても、税をきちんと徴収できるかどうか、です>。
国司は、みずから直接に実質的な支配にのりだすことになっていきました。(W。歴史用語で<受領>。徴税の最終責任は国司に任されている。)<国司の地方支配の最大の課題は、まずなんといっても、税をきちんと徴収できるかどうか、です>。
>>ここから、将門の乱の背景である当現地の<土地支配関係の記述>
国司は、田堵という新興勢力の登場に対応しつつしっかりと税を徴収していくために、国内の田地を名(みょう)とよばれる単位に再編して把握し、田堵に耕作を請け負わせて税を課すようになったのです>。
<このことは、課税の単位が律令制の原則であった人から土地へと転換したことを意味しています>。
<このことは、課税の単位が律令制の原則であった人から土地へと転換したことを意味しています>。
具体的には、武芸に長けた貴族を押領使や追捕使といった軍事的な官職に任じて派遣し、蜂起した田堵とは対立関係にある田堵たち――彼らとて必ずしも一枚岩ではなく、土地の所有などをめぐっての日常的な勢力争いがあったのです――を動員しつつ、武装蜂起の鎮圧をはかったのです。
やがて、押領使などとして地方に派遣された貴族の子孫で現地に土着したものや、彼らにしたがって国衙(国司による地方行政機構)の軍事力を担うようになっていった田堵たちが、世襲制の職業戦士となっていきました。
このように、押領使などとして派遣された貴族の子孫で現地に土着した者や、彼らにしたがって国衙の軍事力を構成するようになった地方富裕層が、世襲制の職業戦士としての武士となっていったというのが、国衙軍制論による武士成立の過程のごくごく簡単な説明です。ようするに、<<武士とは国家の軍事力の担い手にほかならなかったのだ>>、というわけです。
このように、押領使などとして派遣された貴族の子孫で現地に土着した者や、彼らにしたがって国衙の軍事力を構成するようになった地方富裕層が、世襲制の職業戦士としての武士となっていったというのが、国衙軍制論による武士成立の過程のごくごく簡単な説明です。ようするに、<<武士とは国家の軍事力の担い手にほかならなかったのだ>>、というわけです。
>一応ここまでを理屈編として、後は各本からの引用主体になる。
一般教養のような箇所は全部割愛し関心の向くところ、批判点だけを引用する。
「日本軍事史」は2000年までの通史。通史上、必ず押さえる契機はあるのに人民の軍事の視点を避けている。
「中世の形成」は東アジアの武人政権の項目だけ引用するが、肝心なところに踏み込むと説明が長くなるか、避けているところが、イマイチ納得できない。
他ところも少し目を通したが、クソみたいなどうでもいいことを連ねている。