今は昔、信濃の守藤原陳忠(平安中期の官人)と言う人がおった。任国に下ってく国を治め、任期が終わって上京している途中、御坂峠を越えようとしていた。W。(長野県下伊那郡阿智村と岐阜県中津川市の境の<神坂>峠)古代の官道東山道が通る交通の要所であり、難所であった。)W。注1

多くの馬に荷をつけ、荷との乗った馬も数知れず連ねてやっていくうちに、こともあろうに、守の乗った馬が谷にかけた桟道の端軒を後足で踏み折り、、真美は馬に乗った真っ逆さまにたち底に落ち込んでいった。
谷底はどれほども知れぬ深さなので、守は生きていようとも思われない。
二十尋(約36m)もある日も着た杉が下から生い茂り、そのこずえがはるかの谷底に見やられることからも、谷の深さは自ずから察せられる。
そんなところに守は転落したのだから、損としても無事でいられるわけは無い。
そこで大勢の郎党どもはみな、馬から降り、桟道の端に座り込んで底を見下ろしたが、手の施しようが無い。
「マッタクどうにもならないな。降りられるところでもあれば、落ちていって守のご様子をも拝見できようが。
もう一日先に進んだところからなら、谷の浅いほうから回って探すこともできようが、今は谷底へ降りる立てはマッタク無い。どうしたらよかろう。」など、口々にわいわい言っていると、はるかの谷底から人の叫ぶ声がかすかに聞こえた。
「守殿は生きておいでだぞ」などと言い合って、こちらからも大声で叫ぶと、守が声を張り上げて何か行っているのがはるか遠く聞こえてきた。
「守殿が何かおっしゃっておられるようだぞ。静かにしろ。何をおっしゃっておられるのか、良く聞け、良く聞け」と言って耳を澄ます。
「かごに縄を長く繰りつけておろせとおっしゃておられるぞ。」
そこで、紙は生きて何かの上に落ち留まっておいでになるのだとわかったものだから、多くのものの手綱を取り集め、次々と結びつないで籠に結びつけ、それ降ろせそれ降ろせとおろしていった。
縄の端もなく夏まで降ろしていった時、縄がとまって動かなくなったので、もう届いたようだと思っていると、谷底で「よし引き上げよ」と言う声が聞こえた。
「それ、引けとおっしゃっているらしいぞ」と言って手繰り挙げると、いやに軽々と上がってくる。
「この籠はやけに軽いな。神園がお乗りなら、もっと重いはずだ」というと、他の者が、「木の枝などに取りすがっておられるので軽いのだ」といいいながら、皆集まって引いているうちに、籠が上がってきた。
見れば平茸ばかり籠一杯入っている。
訳がわからず、お互い顔を見合わせて、「いったいどうしたことだ」といっていると、また谷底から「前のようにもう一度降ろせ」と叫ぶ声が聞こえてきた。
これを聞いて、「ではもう一度降ろせ」といって、籠を下ろした。
するとまた、「引け」と言う声がしたので、声に応じて引くと、今度はひどく重い。
大勢で縄に取り掛かり、手繰り挙げた。
手繰り挙げたのを見ると、守が古語に乗ってあがってきた。
守は片手に縄を掴み、もう一方に手には平茸を三房ほど持って上がってきた。
引き上げ終わって桟道の上におき、郎党どもは喜び合ったが、「いったいこの平茸はどういうわけのものでございますか」と尋ねる。
すると、守はこう答えた。
「谷に落ちた瞬間馬は先にそこに落ちていったが、わしは後からづるづると落ちていくうちに、木の枝がビッシリ生い茂ったところの上の図らずも落ち込んだので、その木の枝を掴んでぶら下がったところ、下に大きな木の枝がって支えてくれた。
そこで、それに足を踏ん張り、股になった大きな木の枝に取り付き、それを抱きかかえていたところ、その気に平茸が密生しているのが目に付いたので、そのまま見捨てがたい気がして、まず手の届く限り取り、籠に入れて引き上げたのだ。まだ取り残しがあるだろうか。
いいようもなくたくさん立ったなぁ~。えらい損をしたものだ。えらい損をしたような気がするぞ」。
郎党どもはこれを聞き「確かにご損をなされましたことで」といい、トタン一同どっと笑った。
守は、「心得違いのことを言うな、おまえら。わしは宝の山に入って手をむなしくして帰ってきた気がするぞ。
「まことにごもっともでございます。手近にあるものをどうしてお取りならないことがありましょう。
誰であろうと取らずにおられるものではございません。
元々賢明であられる方はかような命の危機にも、お心騒がず、万事普段の時のように処理なさることでございますから、慌てず騒がず、このように平茸をお取りになったのでございます。
それゆえ、任地をも平らかに治め、租税もキチンと収納なさって、全て思いのままで上京なさるのですから、
国の民はあなた様を父母のようにお慕いし、惜しみ賜わっておるのでございます。
されば、行く末も万秋万歳疑いございません」といって陰で仲間内で笑いあった。
思うに、あんな危ない目にあって、心を惑わされず、まず平茸を取って上がってきた心は、なんとも常識外れの不気味さだ。
まして取れるものが手当たり次第どれほど取り込んだことか、想像余りある。
この話を聴いた人はどんなに憎み嗤ったことであろう、こう語り伝えていると言うことだ。
>この話と源大夫、発心出家の物語は、前から知っていた。
特にこの物語は日本固有のもので、世界の説話でこういった味わいのあるものはないのではないか。
W。(長野県下伊那郡阿智村と岐阜県中津川市の境の<神坂>峠)古代の官道東山道が通る交通の要所であり、難所であった。その険しい道程から東山道第一の難所として知られ、荒ぶる神の坐す峠として「神の御坂」と呼ばれた。神坂峠は、急峻で距離も長かったため、峠を越えられずに途中で死亡する者や、盗賊が出ては旅人を襲ったとの記録が、いろいろな古典に書かれている。後に、東山道(中山道)は神坂峠を避けて、木曾谷を通るようになったため、神坂峠を越える者は減少した。
岐阜県の胞山(えなさん)県立自然公園(本来の山の名前は「恵那山」であるが、県立自然公園の名称としては「胞」を使用する。因みに恵那という地名自体がイザナギとイザナミが天照大神を産んだときにその<胞衣(えな)>を納めたという伝説から来ている)の一端をなしている
<古典文学に登場する神坂峠>
『万葉集』巻二十にある「ちはやぶる神の御坂に幣奉り齋ふ命は母父が為」という歌。
『古今和歌集』、『源氏物語』『今昔物語集』に登場する、神坂峠山麓の園原という里にある、歌枕にもなった帚木というヒノキ。
『今昔物語集』の巻二十八に、信濃国司の任期を終えて都へ帰る途中の藤原陳忠が神坂峠から谷底へ転落したものの、救出の際にヒラタケを抱えて生還したとの逸話。
『信貴山縁起』の尼公の巻
『雨月物語』の浅茅が宿に書かれている「真坂峠」で大勢の山賊達に取り囲まれ、衣服金銀を残らず掠め取られ、自分の命が辛うじて助かったとの話。
<「歴史は繰り返す」>
岐阜県恵那市から長野県塩尻市にかけてほとんど中山道と並行している形となっている国道19号に対して、中央自動車道の恵那山トンネルはこの峠の約1km北側に掘られており、中央自動車道の道筋もまたそのほとんどが奈良時代以前の東山道沿いとなっている。
W注2。ここでは<今昔物語集、本朝(日本)世俗部ー源大夫とは何者か?発心ー出家ー昇天の背景を探る>として調べた内容を記載する。国司は「倒れたところの土を掴め」とは赴任先で中央から請け負った所定の税収と以外に自らの違法な人民収奪、賄賂によって任期中、大きな富を蓄えることを指している。
<受領>ウィキ引用。
「受領(ずりょう)とは、国司四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者を平安時代以後に呼んだ呼称。
実際に現地に赴任する国司が前任者から文書や事務の引継を受けることを「受領(する)」と言い、それが職名になった(なお、後任者に文書や事務の引継を行うことを「分付(する)」と称した)。
おおよそ四位、五位どまりの下級貴族である諸大夫がこの任に当てられた
「受領(ずりょう)とは、国司四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者を平安時代以後に呼んだ呼称。
実際に現地に赴任する国司が前任者から文書や事務の引継を受けることを「受領(する)」と言い、それが職名になった(なお、後任者に文書や事務の引継を行うことを「分付(する)」と称した)。
おおよそ四位、五位どまりの下級貴族である諸大夫がこの任に当てられた
<諸大夫>大夫は古代中国のネーミングだろう。朝鮮も同様。古代中世初期の実務官僚貴族層。
本来の律令体制下、王朝国家における諸大夫は、四位・五位の地下人(じげにん)、または四位までしか昇進出来ない家柄の低い貴族の家に属する官人を指した。
10世紀から12世紀にかけての王朝国家体制を支えた実務官人の上層部は主としてこの階層の家柄から供給され、官界で昇進を重ねて五位に叙されると、
現地赴任国司の筆頭官、即ち受領として地方勤務に就き、地方統治の責任者になって強権を振るうと共に蓄財に励むのが習いであった。
本来の律令体制下、王朝国家における諸大夫は、四位・五位の地下人(じげにん)、または四位までしか昇進出来ない家柄の低い貴族の家に属する官人を指した。
10世紀から12世紀にかけての王朝国家体制を支えた実務官人の上層部は主としてこの階層の家柄から供給され、官界で昇進を重ねて五位に叙されると、
現地赴任国司の筆頭官、即ち受領として地方勤務に就き、地方統治の責任者になって強権を振るうと共に蓄財に励むのが習いであった。
朝廷の官制機構の実質的な運営はこの階層によって担われ、また王朝文学を発展させた清少納言や紫式らがこの階層に出自した女官であったことからわかるように
王朝文化の重要な担い手であった。
王朝文化の重要な担い手であった。
>>この時代の上級武士も、武芸担当の実務官人としてこの階層に属しており、侍身分の一般武士を家人とすることで統括していた。
<<王朝国家>>日本の古代最末期かた中世への過渡期を表す歴史用語である。
日本が律令国家体制から中世国家体制へ移行する過渡期の国家体制を表す歴史概念。
日本が律令国家体制から中世国家体制へ移行する過渡期の国家体制を表す歴史概念。
王朝国家体制とも。10世紀初頭に成立し、11世紀中期ないし12世紀後期までの期間に存続したとされる。
律令国家体制は、中央集権的な政治機構に立脚し、個別人身支配を人民支配・租税収取の原則としていたが、それらを実際に支えていたのは現地で人民支配・租税収取にあたる地方行政であった。
律令国家体制は、中央集権的な政治機構に立脚し、個別人身支配を人民支配・租税収取の原則としていたが、それらを実際に支えていたのは現地で人民支配・租税収取にあたる地方行政であった。
9世紀後期に至って律令制的な人民支配・租税収取に限界が生じたため、
10世紀初頭より、地方政治への大幅な統治委任や個別人身支配から土地課税原則への方針転換が進められ、こうして新たに構築された統治体制が王朝国家体制であるとされている。
11世紀中期から12世紀・13世紀初頭にかけて、荘園公領制の成立や院政・武家政治の登場などに対応した中世国家体制が漸進的に構築されていったため、この時期に王朝国家体制は終期を迎えた。
11世紀中期から12世紀・13世紀初頭にかけて、荘園公領制の成立や院政・武家政治の登場などに対応した中世国家体制が漸進的に構築されていったため、この時期に王朝国家体制は終期を迎えた。
ただし、王朝国家の終期をめぐっては複数の説が提示されている
>>王朝国家の出現
8世紀初頭に確立した律令制は、個人を徴税単位とする個別人身支配(人別支配)を基本原則としており、高度に体系化された律令法典・官僚制度・地方制度や戸籍・計帳などを基盤として存立していた。
8世紀初頭に確立した律令制は、個人を徴税単位とする個別人身支配(人別支配)を基本原則としており、高度に体系化された律令法典・官僚制度・地方制度や戸籍・計帳などを基盤として存立していた。
特に、古くからの地域における首長層を再編した郡司層の首長権への精神面での服従構造と、経営の安定性を欠く零細百姓層の経営維持を保証する公出挙は、本来古代日本とは異質な社会である唐代中国社会を成立背景とした律令制が、日本で成立する上で重要であった。
しかし、早くも8世紀後期頃から百姓の偽籍・浮浪・逃亡が見られ始め、個別人身支配体制にほころびが生じていた。
その後、8世紀後期から9世紀を通じて律令制を維持または再構築しようとする試みが繰り返されたが、大多数の貧困百姓層とごく少数の富裕百姓層(富豪層)という百姓層内の階層分離はますます加速していき、貧困層は偽籍・逃亡によって租税負担から逃れ、富豪層は墾田活動を通じて得分収取しうる田地を獲得し、逃亡したり私出挙によって負債を負わせた貧困百姓らを保護民、隷属民として囲い込んでいった。
(溝口健二監督「山椒大夫」の勧善懲悪の世界は実際の中世説話では、安寿と厨子王は救われたが山椒大夫は末永く栄華を誇った、とされているという。古代初期荘園は奴隷的集団労働収奪を基軸にしていたと研究されている。中央貴族ー国司にとって大きな税収先が滅んでは困るのである。)
個別人身支配の基礎となっていたのは戸籍・計帳であったが、上記の状況は、もはや戸籍・計帳による人民支配=租税収取が限界を迎えていたことを示している。
また、個別人身支配を受けるべき個々の民は、かつてのように地域首長層の末裔たる郡司の首長権への精神的服従意識によって統率された存在ではなく、生産基盤となる動産を集積し、安定経営を達成した富豪層の保護、隷属関係よって統率された存在に変質を遂げていた。こうした状況を受け、政府は、従前の個別人身支配に代わって租税収取を確保するための新たな支配体制を構築するため、大きな方針転換を迫られていた。
>>王朝国家の成立・発展
王朝国家体制の特質は、律令国家体制が基調としていた個別人身支配を放棄し、土地に対する課税・支配を基調とした点にあった。
>>王朝国家の成立・発展
王朝国家体制の特質は、律令国家体制が基調としていた個別人身支配を放棄し、土地に対する課税・支配を基調とした点にあった。
すでに9世紀後期の頃から、実際に租税収取を担当する地方行政の現場では、戸籍・計帳を基盤に置いた課税方式が後退し、土地に対する課税が積極的に行われる傾向にあった。そうした地方行政の実情を国家体制の基本方針に採用したのが、10世紀初頭だったのである。
土地課税が租税収取の基本原則とされるに当たり、租税体系の基礎とされたのが公田である。
土地課税が租税収取の基本原則とされるに当たり、租税体系の基礎とされたのが公田である。
律令制における租税(租庸調)は、個人に対して課せられていたが、新たな租税制度のもとでは公田に対して課税がなされた。
10世紀初頭頃から、公田は名田と呼ばれる租税収取の基礎単位へ編成され、現地の富豪層(田堵・負名層)が名田経営と租税納入を請け負うという名体制が形成されていった。この名体制は、王朝国家体制の基盤をなすものであった。
国内の公田を名田へ再編成していく過程で、従来の班田図は不必要とされ、新たに国内の公田台帳となる基準国図が作成されるとともに、国司に検田権が付与されるようになった。これらは王朝国家体制の成立を示す指標と考えられている。
名体制を確立するため、現地支配に当たる国司の筆頭者の権限強化が求められるようになり、10世紀中頃には租税収取・軍事警察などの分野で中央政府から現地赴任筆頭国司への大幅な権限委譲が行われた。
国内の公田を名田へ再編成していく過程で、従来の班田図は不必要とされ、新たに国内の公田台帳となる基準国図が作成されるとともに、国司に検田権が付与されるようになった。これらは王朝国家体制の成立を示す指標と考えられている。
名体制を確立するため、現地支配に当たる国司の筆頭者の権限強化が求められるようになり、10世紀中頃には租税収取・軍事警察などの分野で中央政府から現地赴任筆頭国司への大幅な権限委譲が行われた。
こうして国内支配に大きな権限を有する国司、すなわち受領層が出現することとなった。
こうした機関の実務官僚として、現地の富豪層・田堵負名層が採用され、在庁官人として地方行政の実務にあたるようになった。このような状況は10世紀から11世紀にかけて顕著となっていく。
>軍団制~国衙軍制へ!(国衙軍制成立の過程で武芸、すなわち軍事を専門とする諸大夫身分の貴族(軍事貴族)や侍身分の官人層が出現)
従前の軍事制度は、個別人身支配を前提とする軍団制及び地方有力者(郡司層)に依存する健児制を柱としていたが、個別人身支配と郡司の首長権が崩壊すると両制度とも機能しなくなった。
一方、9世紀後期頃から、富豪百姓層らが経済力や政治力、さらには私兵を擁しての軍事力すらをもつけてきたことを背景として、富豪百姓間相互の紛争もしくは国司と富豪百姓層間の紛争が目立つようになっていた。
そこで10世紀前期頃から中央政府は、軍事警察権を国司に委任するという現実的な政策を採用し始めた。
こうして成立したのが、国衙を中心とする軍制、すなわち国衙軍制である。
国衙軍制成立の過程で武芸、すなわち軍事を専門とする諸大夫身分の貴族(軍事貴族)や侍身分の官人層が出現し、
これらの層の上層身分たる軍事貴族層では、特に東国を中心として、自ら国司として現地赴任する者も現れた。
軍事貴族などの武芸の家は桓武平氏・清和源氏・一部の藤原氏などから出たが、彼らの子孫が後の武士へと成長していった。
従前の軍事制度は、個別人身支配を前提とする軍団制及び地方有力者(郡司層)に依存する健児制を柱としていたが、個別人身支配と郡司の首長権が崩壊すると両制度とも機能しなくなった。
一方、9世紀後期頃から、富豪百姓層らが経済力や政治力、さらには私兵を擁しての軍事力すらをもつけてきたことを背景として、富豪百姓間相互の紛争もしくは国司と富豪百姓層間の紛争が目立つようになっていた。
そこで10世紀前期頃から中央政府は、軍事警察権を国司に委任するという現実的な政策を採用し始めた。
こうして成立したのが、国衙を中心とする軍制、すなわち国衙軍制である。
国衙軍制成立の過程で武芸、すなわち軍事を専門とする諸大夫身分の貴族(軍事貴族)や侍身分の官人層が出現し、
これらの層の上層身分たる軍事貴族層では、特に東国を中心として、自ら国司として現地赴任する者も現れた。
軍事貴族などの武芸の家は桓武平氏・清和源氏・一部の藤原氏などから出たが、彼らの子孫が後の武士へと成長していった。
王朝国家の再編成とその終期
11世紀中期に見られた体制変化・社会変化は、当時徐々に一円化を進め、著しい増加を見せていた荘園に対抗するための国衙側(公領側)の対応策であった。
この流れの中で、それまで公田経営請負によって(つまり田堵・負名層となることで)武人としての経済基盤を与えられていたに過ぎなかった武士が、
荘園と公領間の武力紛争の対処能力を期待され、国の下部組織である郡、郷、別名、保、条、院の管理者や、
一円化してまとまった領域を形成するようになった荘園の管理者としての資格を得て、在地領主としての地位を獲得していった。
これらの動きは、中世を通じて社会体制であり続けた荘園公領制の出現を意味するものであり、
これと相前後して開始した院政と併せて、11世紀後期には既に中世に入っていたと見ることもでき
11世紀中期に見られた体制変化・社会変化は、当時徐々に一円化を進め、著しい増加を見せていた荘園に対抗するための国衙側(公領側)の対応策であった。
この流れの中で、それまで公田経営請負によって(つまり田堵・負名層となることで)武人としての経済基盤を与えられていたに過ぎなかった武士が、
荘園と公領間の武力紛争の対処能力を期待され、国の下部組織である郡、郷、別名、保、条、院の管理者や、
一円化してまとまった領域を形成するようになった荘園の管理者としての資格を得て、在地領主としての地位を獲得していった。
これらの動きは、中世を通じて社会体制であり続けた荘園公領制の出現を意味するものであり、
これと相前後して開始した院政と併せて、11世紀後期には既に中世に入っていたと見ることもでき
今昔物語集、本朝(日本)世俗部ー源大夫とは何者か?発心ー出家ー昇天の背景を探る
姓は源。名は不明だが官位は大夫(五位)武家として中央の源氏に連なり、地方ではトップクラス数人の中にはいる。